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焼肉屋の前でコウと別れて家路に着いた。
夏本番の湿った生温かい風が、汗ばんだ身体にまとわりつく。
辿り着いたマンションのドアの前に、長身の男のシルエット。影だけでその男が誰かわかってしまう程度には親密な付き合いをしている。
外灯の下、スーツではないラフな私服姿の君島は、いつもより少し若く見える。実際、彼は自分より五つも年下だ。
「……何やってんだ、こんなとこで」
「なんとなく、顔を見に」
「顔なんて毎日見てんだろー?」
部屋の前には何本かの煙草の吸殻。一体どれだけの時間、自分の帰りを待っていたのだろうか。
「そこの吸い殻、片づけとけよ」
「言われなくても片すんで、部屋あげてください」
「……泊めねぇからな」
「わかってますよ」
正直、部屋にあげるのはまずかろうと分かっていても、ここで追い返すほど俺も鬼ではない。玄関先にある、小さな箒と塵取りを渡すと、君島が外に散らばった吸い殻を手際良く片付けた。
「どこ行ってたんですか?」
「ツレと、ちょっと」
「例のセフレ?」
君島が表情を変えずに訊ねた。
「──まぁ、そんなとこ」
隠すことでもない。君島は自分にそういう相手がいることを知っている。なのに胸の片隅が痛むのはなぜだろうか。
「何か飲むか?」
冷蔵庫を開けながら、あとから部屋に入って来た君島に訊ねた。
「いや。お構いなく」
そう言われたものの、会う約束をしていたわけでもないのに長い時間外で待たせてしまった引け目から、グラスに麦茶を注いでリビングのテーブルに置いた。
「メシ食ってきたんすか?」
「ああ。焼肉……あ、匂うか?」
「いや。肉じゃなくて、男の匂いがする」
そう言われて、スンスンとシャツの上から自分の腕の匂いを嗅いだ。
「──悪い。シャワー浴びてきたんだけどな」
そう答えると、君島がその表情を歪めながら俺に近づいて来て目の前に立った。
「ねぇ、筧さん。俺とそのセフレ、何が違うの?」
「は?」
「アンタを好きだって言ってる俺は無視されて、なんでそのセフレはあんたに受け入れられてんの。不平等感半端ねぇんだけど?」
いつも冷静で余裕な君島が、珍しく不機嫌さを隠そうともしないで俺に詰め寄った。
「は? 何だよ、珍しく熱くなって」
「いつまで茶化して逃げんの? どんどんアンタに嵌ってマジんなってる俺はどーすりゃいいんすか!」
「……ちょ、君島、落ち着けって!」
ジリジリと君島に詰め寄られ、いつの間にか壁際まで追い詰められた。
「筧さんが、俺を拒否する理由は何ですか? 言うほど俺の事嫌いじゃないでしょう?」
壁と君島の身体に挟まれた筧は、逃げ場をなくし小さく息を吐いた。
「……なんだよ、ヤラシイ訊き方すんのな」
「余裕なくなるんですよ、アンタの事になると。好きだっつってんのに、他の男とホイホイ寝るし」
「べつに、ホイホイじゃねーし。おまえも男なら分かるだろ?」
「分からなくはないですけど。その相手、俺でもいいじゃないすか?」
「いいわけないだろ。お前、俺に抱かれたいんじゃないんだろが」
「……」
ああ言えばこう、必ず言い返して来る君島が黙った。
「お互い譲れないもんもあるだろ?」
「──それ以外に問題は?」
「だから、食い下がんなっての。おまえが俺に拘って、そんなにまで食い下がる理由を逆に知りたいよ」
それこそ、男女問わず人を引きつけるような完璧な容姿で。性格だって、自分に対しては大概ふてぶてしいけれども、自分以外の前で見るこいつは人当たりだって問題ない。頭も切れる、仕事もできる。モテ要素以外見当たらないこいつが、なぜそこまで俺にこだわる──?
「前にも言ったでしょ。その“鎧”ひん剥いてやりたいって」
「それ、ただの嫌がらせだろ。好意じゃねえ」
筧の言葉に、君島が少し困ったような顔で大きく息を吐いた。
「筧さん、最初俺の事よく思ってなかったでしょ。それ、顔に出てんのに、懇親会のとき俺の世話焼いてくれたじゃないすか」
「世話焼いたつもりはねぇよ。ただ、帰りたかったからおまえを利用しただけだ」
「そのあとも放っておくことだって出来たのに、ご丁寧にお持ち帰りまでしてくれて……」
「だから、それは──」
ただ単に、人として最低限のことをしたまで。顔も見知らぬ他人なら知らんふりを決め込んでいたかもしれない。けど、君島はあの時点で全く見知らぬ男ではなかった。
「俺に好意があって、そうしてくれるヤツは今までたくさんいました。……そりゃ、そうでしょうね? 好意の裏にある下心ってやつですよ。でも、筧さんは違った。嫌いなやつにそこまでしてやれんなら、好きになったヤツならどこまで甘やかしてくれんだろ、って」
「はぁあ?」
そんなクソみたいな理由で、俺を好きだと?
「おまえ……さてはバカだな?」
小さく笑った君島が、筧をさらに壁に押し付けた。それから、少し項垂れてこちらの肩に頭を預ける。
「バカでもいいです。筧さんにあれこれ世話焼かれてみたいって思っちゃったんですから。俺が何言っても、この人なら受け止めてくれんじゃねーかって、思っちゃったんすよ。こんなんじゃ、理由になんないですかね?」
いつもの自信たっぷりで横暴なイケメンの顔はそこになかった。まるで飼い主にご機嫌をとる従順な大型犬のような君島の姿に、危うく心ほだされそうになる。
「なぁ。おまえ、誰だよ? やけにしおらしくて危うくトキメキかけたわ」
「あ。──こういうのが好みでした?」
「可愛い男は嫌いじゃない」
「……ははっ」
君島が笑った。歳相応の、邪気のない微笑み。こいつのこんな顔を見るのは初めてだった。
「賢太郎さん」
「何だよ」
仮にも五つも年上の先輩を名前で呼ぶとか、いきなりどんな距離の詰め方だ。
「とりあえず、お互い歩み寄ってみませんか?」
ゆっくりと君島の顔が近づき、目の前に影が差す。
「細かいことは、追々折り合いつけることにしましょう」
綺麗な顔が、妖艶な笑みを零す。
──魔がさした、のかもしれない。
ほんの一瞬、この生意気な後輩に見惚れてしまった俺は、ヤツの細くて長い指が自分の眼鏡を引きぬいて行く様をぼんやりと見送ってしまった。
そっと触れる唇。次第に強く押しあてられ、薄く開いた口の隙間からヤツの舌がスルリと滑り込んでくる。
最初は探るように。その触れ合いに慣れた頃そっと舌を絡め、また探る。決して無理に押し入るようなことはしない。普段の暴君っぷりが嘘のような優しいキスに次第に気持ちが高められていく。
次第に深まっていくキス。荒くなる呼吸。
君島の手が服の上から身体をそっとなぞるのに、筧は思わずゾクと身をよじった。
「……っ、ちょ! ま、……あっ」
身体を押し付けてくる君島に、どうにか抵抗をしてその身体を押し返した。
「いきなり、何してんだよ!」
「──今、そういう流れじゃなかったすか?」
確かに、そんな雰囲気にはなりかけたけども! 結局何がどうなったのか。
「落ちつけよ、君島」
「落ち着いてますよ、全然。だから、続き──」
「だから、それが落ち着いてないってことだよ!!」
「とりあえず、一回ヤッてみましょう。そしたら何か開けてくるっつーか」
「何、なし崩しに事進めようとしてんだよ」
「俺が、嫌い?」
「だから、その訊き方は──」
狡いだろ、っての!
「筧さんは、俺が嫌いじゃない。厭らしいキス出来る程度には好意があるとして、他に何か問題でも?」
「……俺は、お前の先輩だし」
「そんなん当たり前でしょう」
「仕事は超真面目にやってるし!」
「知ってますよ。何を今更──ってか論点ずれてます」
「俺はおまえみたいに、カミングアウトとか出来ねぇし」
結局、そこに辿り着く。公言できる君島と、公言など死んでも避けたい自分。この関係性はずっと平行線。きっと交わることはない。
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