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調は中折の麦わら帽子をかぶって、真剣な眼差しを開いた本に落としている。周りに人はいない。
(幽霊だ)
悪心が起こる。
物語の世界に没頭しているものを、乱すかのように、真横から囁きを送った。
「臨港館で何してたの」
言ってすぐ、我に帰り後悔した。
面倒くさいことになる。そう確信して、明日以降の調から逃げる日々を想像した。
「見たの」
調の瞳がこちらを向く。そこには薄い光がある。
「ああ」
行けるところまで行ってしまえと、一佐はヤケみたいな気持ちになった。
「あそこ、廃屋じゃないのか」
「廃屋なんて表向きだよ。本当はね──」
「言わなくていい」
遮った己の、気の小ささを恥じて、目線を泳がせる。
「君いま暇?」調が本を棚に戻す。
「まあな」
「僕も暇。海行かない?」
「……わかった」
丘の下海浜公園。そう呼ばれている場所だ。
遠くの浜では海水浴客が、まばらに散っていた。
ふたりが降りた方の浜はゴミが多いため、人はいない。
海に来たものの当然、泳ぐでもなにをするでもなかった。
調は風でも抱き込むように両腕を広げる。
傍らで一佐は訊いた。
「稼げるの」
「なにが」
「だから、臨港館で」
「稼いでないよ」
きっぱりと言われて、え、と口を開ける。
「僕が寂しいだけだから、なにも貰ってないし、相手も選んでない。場所借りてるからそれに少し払ってる」
「なにそれ、意味わかんない」
日差しは強い。麦わら帽子の下で、調の白い顔が濃い影のなかにある。
「お前さ、全然そんな風に見えない」
「そんな風って」
「そういうことしてるって風に。小奇麗で、健全ですって顔してさ」
調は短く笑うと波打ち際まで駆け出した。そして声を張り上げた。
「ああ、気持ちよく溺れたいな」
「なんだよそれ」
調は跳ねるように振り向く。
「僕の噂、どうせ知ってるんでしょ」
「入水自殺未遂の奴」
「そうだよ」
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