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ねぇ、と湯舟のふちに頭をもたせかけて呼ぶと、たちこめた蒸気がかすかに揺らいだ。
「なに」
「なんでもない」
ふぅん、とさして興味もなさそうに呟きながら髪を洗う、その姿をぼんやりと眺める。すこし骨っぽい細い指が、黒い髪をめちゃくちゃにかき回している。
「ねぇ」
「なに」
間を置かずに返ってくる声が心地よくて、意味もなく何度も呼びかける。甘くて柔らかい声。男の人にしてはかわいくて、でもやっぱり男の人の声。
「特になにってことはないんだけど」
「なんなのさっきから」
その声にほんの少し、笑ったような響きを含ませながら、シャワーの滝に頭を突っ込む。白い泡が、容赦なく叩き落とされて消えていく。
「あのね、声、すき」
「知ってる」
きゅ、と音をたてて、シャワーが止まる。
「そんなことより、ずっと浸かっててあつくないの」
「あついよ」
「倒れるよ」
蒸気のむこうに笑った顔が見えた。長い前髪の先が膨らんで、雫のかたちをつくって落ちた。
「髪、洗ってあげるから、おいで」
伸びてきた手を掴んで立ち上がると、頭がくらりとした。ひとりでお風呂に入るときは、何時間入っていてものぼせないのに、この人と入るといつものぼせてしまう。
ぺたり、とぬるい床に座り込む。シャワーが勢いよく溢れ出して、髪を濡らしていく。
「ねぇ」
「なに、声が好き?」
「手も好き」
「はいはい」
その手がシャンプーのボトルを引き寄せる。ポンプを押す。1回、2回。わたしのより二回りくらい大きなてのひらが、擦り合わされて、手品みたいに泡が生まれる。
「あのね、声フェチなの」
「フェチってなんだっけ」
「体の一部分に対する執着」
「変態か」
髪がそっとかき分けられて、洗われる。自分の髪を洗うときは雑なくせに、まるで壊れ物に触れるような洗い方。
「フェチ、ないの。胸とか、太ももとか」
「そんな変態じゃありません」
湯気にとけていくシャンプーの匂いを吸い込んでみる。甘酸っぱいような、きゅんとする匂い。すきなひとの、髪の匂い。
「頭蓋骨かな」
唐突に吐かれた物騒な言葉で我に返った。ずがいこつ。今頭蓋骨って言ったこの人。
「フェチが?」
「うん。頭蓋骨フェチ」
「なにそれ怖い」
だってさ、と耳元で声がする。
「声はなくなっちゃうけど、骨は死んじゃっても残るでしょ」
泡と一緒に、ことばはふわふわと上っていく。
「何百年、何千年経っても、頭蓋骨は残るから、なくならないから。だから、好き」
「すごい執着」
「フェチだから」
ふふ、と笑った自分の声が、狭い風呂場に思いのほか響いた。
「でも、そんなに長いこと残ってたら、誰かにとられちゃうかもしれないよ」
「そうかな」
「もしかしたら、そのうちに、もういらなくなっちゃうかもしれないし」
「そんなことはないよ」
すこし体を反らせて顔を上に向けると、目が合った。白い喉元がきれいだった。
「声は、すぐになくなっちゃうから。その瞬間だけのものだから、永遠に誰にもとられないし、ずっと独り占めできるから、好き」
ふふ、と今度は笑われる。
「すごい執着」
「フェチだから」
残せないもの、残らないもの。だからこそ愛しいのに。
「でも、死んじゃったら、頭蓋骨はわたしにあげてね」
「はいはい」
頭を這う10本の指に心なしか、わずかな力が込もった気がして、わたしはわたしの頭蓋骨のかたちを思った。
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