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後編
「楽しんで頂けているようですね」
朦朧としていた意識が少しづつハッキリしてくると、同時に聞き覚えのある淡々とした口調が耳に馴染んできた。
視界にはおびただしい量の血で塗りたくられた床が広がっていて、頭をふっと上げると、壇上であの偉そうな男が冷たい目に微笑を携えながら、俺を見下していた。
どうやら俺はまだ生きているらしい。漫才コンビがいなくなっているということは、俺はネタの間ずっと笑い続けることができたのか。何も覚えていないが、引くことのない表情筋の震えと焼けるような喉の痛みが、全てを物語っていた。
「二組を終えたところで、皆様からそれぞれの芸人についてのご感想を賜りたいと思います。といっても、残っているのはあなただけですが」
あざけるように鼻で笑う男。
憎悪、怒り、恐怖、殺意、何もかもがないまぜになった、これまで味わったことのない感情が、俺の中から一気に溢れ始めた。
「……ふざけんじゃねえ」
決壊したダムから、その感情は止めどなく流れ出していく。
「……お前たちは人間じゃない! 何で人を殺して笑ってられるんだ!? こんな理不尽があってたまるか!」
俺は奴らに自分の命が握られていることも忘れて叫んだ。この状況の全てが許せなかった。元はと言えば己の馬鹿さ加減が原因でこの状況に導かれたのに、それすらも棚に上げて目の前の男を糾弾した。
「答えろ! 何が目的なんだ?」
かすれた声で問い詰める。男は再びフッと鼻で笑うと、マイクスタンドから離れて舞台の最前まで進み、しゃがみ込んで「理不尽、か」と呟いた。
「この機会に教えて差し上げますがね。この世に理不尽なんていくらでもあぶれているんですよ。理由のない暴力、いじめ、差別。私はそれを幼い内に悟った」
男の目の温度が更に下がっていく。
「父親は仕事のストレス解消のために私を殴り、笑った。母も父には逆らえず、一緒になって笑った。理不尽に殴られ続ける私をね。小学校ではあざだらけの私を気味悪がった一部の児童が、私をばい菌扱いした上に集団での暴力を振るってきた。その時も皆笑っていた。……理不尽でしょう? 私に何ができた? 何もできない。子供一人の力でこの理不尽に立ち向かうことなんてできなかった」
俺は無言で男を睨み続ける。男はその視線に気付くと、三度(みたび)鼻で笑った。
「私はね、その時に決めたんです。そんなに人を笑いたいなら、好きなだけ笑わせてやろうと。いつかそれなりの権力を手にし、社会の癌どもを集めて、死ぬか笑うかの状況に追い込む。あの馬鹿な広告に釣られるような人間どもをね。私はその理不尽な様子を見ながら心ゆくまで笑う。これは理不尽な世の中に対する私なりの復讐、そして粛清なんですよ」
すぐには言葉が出なかった。俺はこんなイカれた奴に嵌められたのか。
「……あんたの境遇には同情する。でも……これは復讐でも何でもない。ただの無差別殺人だろ」
「無差別? そう思われるのは心外ですね。私はちゃんと求人を出し、殺すにふさわしい人材を選んでいますよ。何より、応募したのはあなた自身です。あんなどう見ても裏のある募集に集まる輩なんて、死んでもらった方が世の中のためになるでしょう」
確かに俺は馬鹿だ。自分に生きる価値があると自信を持って言い切ることもできない。それでも、こいつのやっていることが間違いだってことは分かる。
「俺は……!」
「おっと」
言いかけた俺を遮るように、男が待ったをかける。
男は立ち上がると、そのまま舞台袖に向かって何かジェスチャーで指示を出した。
「私はあなたの話を聞くつもりはありません。理不尽だと思いますか? その通り。これが社会です。それに、まだこの仕事は終わったわけじゃない」
「感想なんか言わねえぞ」
俺は怒気を込めて言った。
「ええ、もうそれに関しては結構です。あなたには早く次のショーを見て頂いて、思い切り笑ってもらいたいですからね」
「ショーだと?」
俺の問いに対し、男は少し興奮気味になりながら答えた。
「飛びきりの……最高に理不尽なショーですよ!! さあ、ご堪能あれ!」
男の合図で、下手から黒い大きな布に覆われた何かが、舞台最前に運び込まれた。
何だ。胸騒ぎがする。嗚咽しそうなほどの嫌な予感が体中を伝う。
「大いに笑ってくださいね! 一度きり、極上のエンターテイメントです!」
男はそう言って布を手に取ると、それをバサリと空中に放り投げた。
そこにあったのは――。
「……嘘だろ……」
――そこに居たのは、俺の母親だった。
口をテープで塞がれ、四肢をロープで縛られた母親が、涙を流しながらこちらを見ていた。
「母さん!」
俺は無意識に席を離れ飛び出した。しかし、男が手で俺を制し、「それ以上動くと首輪を爆破しますよ」と脅しをかけてきた。
「くそっ……」
俺はその場から動けなくなった。怒りで全身が震える。自分の歯ぎしりの音がハッキリと聞こえてくる。
「盛り上がって参りましたねえ! でも本番はここからですよ。よく見ててくださいね。自分の母親の頭部が胴体から離れる、その瞬間を!」
男の元に舞台袖からチェーンソーが届けられた。
やめろ。それだけは……!
「やめてくれ……!」
「どうです、痛いほど実感するでしょう。世の理不尽というものを! やめてくれと願う。それでも、そんな願いは通じないんです。何故か?」
「頼む……! 頼むから、やめてくれ……!」
俺は膝から崩れ落ち、泣いていた。すぐにでも助けに行きたかった。でも、体が動かなかった。動いたら爆死、その恐怖に負けてしまっていた。
チェーンソーのスイッチが入り、あの独特で激しい振動音が響き渡る。
「それは、この世が理不尽だから! さあ思い知れ! そして笑え! この理不尽を、笑えっ!」
顔を上げることのできない自分に、激しい嫌悪感を抱いた。
母さんは、今どんな気持ちで俺を見ているだろう。情けなく震えるだけの俺を、どう思うだろう。
母さんを失う恐怖より、自分の首が弾け飛ぶ恐怖の方が勝っている。
……そうか。結局俺は、自分が一番大事なんだ。母さんから父さんのことについて電話が来た時も、母さんがこれからどんな苦労をするかも一切考えず、自分が金を稼ぐことだけ考えていた。自分が良ければそれでいいと、どこかでそう思っていたんだ。
これは、そんな俺に対する天罰。理不尽で、妥当な天罰なんだ。
「んんっ……!」
母さんのうめき声が聞こえた。続けて、チェーンソーが何かを切断していく音が耳に届く。
俺の涙は止まりかけていた。体の震えも落ち着き始める。怒りや絶望、その全てを越えた先にあったのは……諦めだった。
「……ははっ……」
声が漏れる。笑い声だ。誰の?
「はははっ。ははは! はははははは!」
ああ。俺の笑い声か。何がそんなに面白いんだ?
チェーンソーの音が止んだことに気付き、俺は少しだけ顔を上げてみた。血だらけの床に、母さんの一部があった。
ああ。これは面白い。何の関係も無い母さんが、俺のせいでこんな目に遭ったんだ。
はは。ははは。はははははははははははは!!!!
「はははは! 母さん! ごめんね。はははは! ごめん! はははは!」
全身から力が抜けていく。床へ完全にへたり込んだ俺は、舞台上の母さんだったものを見て、再び笑う。大げさに。もう、何も考えなくていいように。
「ははははは! あっははは! はははははは!」
このまま狂ってしまおう。そう、この世は理不尽なんだ。こんな世界で正気を保とうなんて、そんな愚かな考えは捨ててしまえ。
全部を笑え。このバイトも、母さんの死も、ダメダメな自分も。何もかも笑って受け入れろ。
「ふふっ……。この状況になっても笑うことができたのはあなたが初めてですよ。素晴らしい。実に素晴らしい! はははは! いいでしょう、こんなに素晴らしいものを見せてくれたあなたには約束通り報酬を差し上げます!」
そうだ。金だ。この理不尽な世界で、唯一信じられるもの。何より絶対的なもの。
金のために俺はここへ来た。面白くもないネタを見て笑った。他人の爆死を見て笑った。母さんの死を笑った! 全部、全部、金のためだ!
よこせ。金をよこせ。
「金を……!」
「と、言いたいところなんですが……。申し訳ありません。まさか最後まで生き残る人がいるとは思っていなかったので……」
男がポリポリと頬を掻く。
「実はそもそも報酬を準備していなかったんです……」
苦笑いしながら男は言った。
「……はっ?」
こいつ、今何て言った? 報酬を準備していない? つまり、金は貰えないってことか?
「……舐めたこと言ってんじゃねえぞクソ野郎」
俺は強く床を踏みしめながら立つと、そのまま舞台へ飛び上がって詰め寄るように男と向き合った。
「じゃあ俺は何のためにこの地獄みたいな時間を過ごしたんだ。俺の母さんまで殺しておいて、そんな戯言……!」
「……冗談ですよ……」
男がボソッと呟いた。……冗談?
――ゾクッとした。待て。冗談だと。いや。まさか。そんな。違うよな。
男の瞳を見る。冷たい視線が俺に突き刺さった。
「惜しかったですね。これが最後だったのに」
おい。やめろ。それは本当にやめてくれ。嘘だ。
落ち着いていた心拍数が急上昇していくのを感じる。
「報酬はちゃんと準備していました。この通りね」
男が胸ポケットから茶封筒を取り出した。まるで札束が入っているかのようなその厚さ。
「今の冗談が最後の『笑い所』だったんですが……残念です」
1ミリも残念と思っていなさそうな顔で男が告げた。
「待ってくれ、そんな、は、はははは! はははは! 面白い、その冗談面白いよ!」
笑え、笑え、死にたくなかったら……!
『10番さん、アウト!』
ホール内に無機質な声が響く。嫌だ。死にたくない、死にたくない、死にたくない死にたくない死にたくない!
「まっ、待ってくうぎゃっ!」
「あっはっはっはっは! これは傑作だ! 本当に最高のショーでしたよ、ありがとうございます! ……しかし……お気に入りのスーツが汚れてしまいましたねえ。……そこの君!」
『はい』
「このスーツ、クリーニングに出しておいてくれるかな」
『かしこまりました』
「ふふふ。……ははははは! さて、次の求人の準備に取り掛かりましょうか!」
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