前編

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前編

『布団が吹っ飛んだ!』 「はははは!」 「わっはっは!」 「ふぁーー!」 『ホルマリン、不倫!』 「ぎゃはは!」 「ひーひっひ!」 「ははは!」  日頃は有名な劇団の公演などが行われる大きな舞台の上で、これでもかと寒いダジャレをかます男と、それを見て涙を流しながら笑い声を上げる、横並びの数人の観客達。  俺も、この異様な光景を構成する観客の一人だ。壇上の道化師のような風貌の男が何かする度に、たとえそれがどれだけつまらなかったとしても笑う。ただ、ひたすらに。  何故か?  それは、笑わなければ死ぬからだ。ネタの中に用意された「笑い所」で笑わなければ、この首に巻き付けられた輪っか状の爆弾で頭を吹き飛ばされる。事実俺の両隣にいた二人は、この狂った「バイト」が始まった直後、まだ状況を飲み込めていなかった俺たちへの見せしめとして爆殺された。俺の顔やTシャツには彼らの血が大量に飛び散り、未だにその臭いが鼻の奥をつつく。  何で、何でこんなことに。  理由は単純だ。俺が馬鹿だったんだ。「日給50万」などという、どうみても裏がありそうな話を甘く見て、まんまと嵌められた。  あの時、冷静に物事を考えることができていたら。こんな怪しいバイトじゃなく、普通のバイトを選んでいれば、こんな目に遭わず済んだのに……。 『納豆無くなっとう!』  地獄の時間はまだ終わらない。 「あははは! ははは!」  俺は必死に笑う。顔の筋肉が少しずつ痙攣し始めている。笑うことを、顔が拒絶し始めている。  横目で他の参加者達の様子を見る。みんな、引きつったような笑い顔になっていた。無様な姿だ。俺も、同じ。 「ははっ…ゴホッ、ゴホッ……」 『3番さん、アウト!』  ホール内に無機質な男の声が響き渡る。俺から少し離れた場所に座っていた男性へ、死の宣告が下った。 「そ、そんぎゃっ」  言い終える間もなく頭が吹き飛ぶ。俺はそれを気にせず笑い続ける。 「ははは! ははは!」  この状況下で、正気を保つことなんて不可能だった。自分の心がガラガラと壊れ始める音が、笑い声とともに頭の中で反芻していた。  ◇  俺は大学への入学と同時に一人暮らしを始めた。なるべく学業に専念できるよう、学費や最低限の生活費は全て親が出してくれていたが、今朝母親から電話があり、父が母に内緒でギャンブルに手を出して大負けし続けていた上、交通事故まで起こしてしまい、賠償金などもろもろの負担が家計にのしかかり、俺の学費や生活費を払えなくなってしまったとのことだった。  やむを得ずバイトで生活費などを稼ぐ必要に迫られた俺は、求人サイトでできるだけ条件の良いバイトを探した。  居酒屋、パチンコ屋、様々な深夜業務。いくつか候補を絞り込み始めていた俺の目に、その情報がピタリと留まった。いや、留まってしまった。 『誰でも高日給、一日50万円! 無名芸人さん達の芸を見て、感想をフィードバックして頂くお仕事です!』  普通ならこんな怪しい情報、すぐに流して別のページへ飛ぶだろう。だけど、俺は焦っていた。すぐにでも収入が欲しかった。  念のために記載されていた企業名をネット検索にかけてみることにした。出てきた情報によれば、そこはタレントの養成やイベントのプロデュースを手掛けつつ、ITの分野にも進出している企業で、悪い評判も特に見当たらなかった。  ひとまず応募してみるか。やばそうだったらやめればいい。  俺は軽い気持ちで求人サイトの応募フォームに必要な情報を入力し、送信した。  ◇  その日の内に返信してきた担当者とメールでいくつかやり取りした後、面接も無しに採用が決まった俺は、早速二日後のバイトに参加することになった。  その時に集合場所として指示されたのが、今俺が悪夢のような時間を過ごしているこの劇場。県内でも有数の大きな劇場で、海外の超一流の劇団なども公演に訪れる場所だ。だからこそ俺は余計に信用してしまった。  参加当日、すなわち今日、劇場内のロビーで待機していると、担当者と思しきスーツ姿の男から声をかけられ、ホールの中へ案内された。参加者は俺の他にも10名ほどいて、お世辞にもみんな聡明とはいえない雰囲気を醸し出していた。まあ、俺も同じ穴の貉(むじな)だったわけだが。 「では皆さん、最前列に横一列でご着席をお願いします」  担当者に促され、俺達は黙々と席へ座り、各々手荷物を足元へと置いた。 「それでは今からこちらをお配りします。芸人さんの芸を見て頂く間、こちらに内蔵されたセンサーで皆さんがどれだけ笑っているのか、笑いレベルを計測させて頂きます。ネックレスの要領で簡単に付けることができますので、受け取られた方から首周りにセットをお願いします」  笑いレベルとやらの計測。なるほど、感想に加えてどれくらいウケたのかデータを取る、それが今回のバイトか。それにしてもやっぱり日給50万はあまりに話が旨すぎるよな。と、その首輪状の機械を手にしてもなお、まだ俺の中に疑いの気持ちは残っていたが、周りが全員機械のセットを終え、俺に「早く付けろ」と言わんばかりの視線を注いできたため、俺は頭の中に残った疑念を無理やり振り払い、機械を首にセットした。これで、俺はここから逃げ出す最後のチャンスを失ってしまった。 「準備、完了しました!」  担当者が誰もいない舞台に向けて声を響かせると、パッと照明が点灯し、下手(しもて)から一人の男がゆっくりと姿を現した。男はコツコツと革靴の音を立てながら歩を進め、マイクスタンドが設置された舞台中央に来た所で一度静止し、微笑みながら俺達へ体を向けた。  スラっとした体つきのその男は、仕立ての良いダークグレーのスーツに身を包み、左手にはいかにもお高そうな重量感のある時計を付けていた。年は俺より一回りくらい上だろうか、見た目からは知的で落ち着きのある印象を受けた。  手を体の前で組みながら、男が俺達一人一人に視線を配る。そして、何かの確認を終えたかのように一度軽く頷いてから――今にして思えば、俺たちがきちんと首輪をセットしているか確認していたのだろう――男は口を開いた。 「初めまして。この度は、当社のアルバイト募集にご応募頂き、誠にありがとうございます」  そこで男が会釈をし、話を続ける。 「事前にお知らせした通り、これはまだ無名の芸人達のステージを皆様にご覧頂き、その感想のフィードバックをお願いするというお仕事です」  淡々とした口調でありながらその声には伸びがあり、ホール内にもよく響いていた。 「そして、これからそのステージをご覧頂くにあたり、こちらからお願いがございます。多くの芸人は、観客の笑顔を見ることでより気持ち良くステージに立ち、最高のパフォーマンスをお見せすることができるようになります。そこで、皆様には芸人達が自身のポテンシャルを遺憾なく発揮できるよう、ご協力頂きたいのです。具体的に申し上げます。これからステージで披露される全ての芸、それがたとえ皆様の感性にそぐわないものだったとしても、必ず笑って頂きたいのです」  この段階では、男の言いたいことが理解できたような、まだうまく飲み込めていないような、何とも言えない状態だった。それは周りの参加者たちの表情を見る限りでも、全員同じだった。  男もそれを見越した上で話を準備してきたのだろう、再び参加者達の顔を順番に確認してからより詳細な説明を始めた。 「一つ例に取ってご説明致します。私の話が終わったのち、まず一番手としてダジャレ芸をメインに持つ芸人が登場します。彼がダジャレを言った後、皆様はどんなにつまらないダジャレだと感じても笑って頂く必要があります」  ここで、男の表現が強制するような言い方に変わった。 「必要がある? どういうことだ?」という俺の心中の疑問へ答えるように、男が続ける。 「皆様は今こう思っていらっしゃるかもしれません。『笑わなかったらどうなるんだ?』と。率直に言います。芸人のネタの中に用意されている『笑い所』、そこできちんと笑わなかった方、もしくは笑い所に気づかず笑えなかった方は、その首に取り付けられた爆弾によって命を落とすことになります」  何を言っているのか分からなかった。話があまりにも飛びすぎていて、脳の処理が追いつかなかった。  少しの沈黙が訪れたのち、誰かの声が漏れる。 「……は?」  冗談だと思った。その意味不明な説明に腹を立て、ここから立ち去ろうとした二人の首が弾け飛ぶまでは。 「付き合ってられん。俺は帰る」と立ち上がった俺の右隣の中年男性、そしてその様子を見て俺の左隣から腰を上げようとしていた若い女性の首輪が小さく爆発したのだ。霧散する頭部、噴出する血。頭部を失った二人の体は無惨に床へ崩れ落ちた。 「うわああああ!」  残りの参加者全員が悲鳴を上げた。ホール全体にその悲鳴がこだまする。  俺は自分の顔にかかった血を慌てて両手で拭った。現実感の無い光景に視界がぐらついたが、手の平にベッタリと纏わりついたその血液は紛れもなく本物だった。 「ハッタリではありません、と念押しの言葉を続けるつもりでしたが……もうその必要はなさそうですね。規則を順守できないとどうなるか、今のでよくご理解頂けたことでしょう。この場から逃げ出そうとしたり、何か不審な動きを見せた方の頭も容赦なく吹き飛ばしますので、どうぞご注意ください」  壇上の男が微笑む。俺は震える手足を落ち着けることができないでいた。 「何、怯えることはありません。笑えばいいのです。ネタを見て、ただ笑えばいい。笑い所に気づかず爆死するのが怖ければ、ネタの初めから終わりまでずっと笑い続けていればいい。どうです、誰にでもできる簡単なお仕事でしょう?」  諸手を広げて男が言う。  ほとんどの参加者はきっとこの時すでに、ここから生きて帰れる望みが薄いことを察していただろう。仮に最後まで笑い続けることができたとして、人殺しの現場を目撃した俺達をすんなりと帰らせるはずがない。  ……いずれにしろ殺される。そんな予感がした。でも、俺達に何か抗う術があるわけでもなく、結局は男の指示に従わざるを得なかった。 「それと、これから皆様に番号を振り分けます。爆弾のスイッチの管理上、その方(ほう)が都合が良いためです。私から見て右端の方(かた)から、順番に1番から11番まで。左端の方……すでにお亡くなりになられていますが、その方が11番、という具合です。規則に違反された方には番号と共に『アウト』の宣告が下ります」  そのタイミングで『9番さん、11番さん、アウト!』の声がホール内に広がった。ついさっき死んだ二人の番号だ。 「このように。その後の流れは、先ほどご覧頂いた通りですね」  つまり俺の番号は10番。  『10番さん、アウト!』  その声が耳に入ったら、そこで俺の人生は終了。十分な後悔もできないまま死ぬことになる。説明が進むごとに増していく死の恐怖に、俺は頭を抱え込んだ。 「皆様、だいぶ表情が暗くなりましたね。そんな表情でいられては、芸人達も気分よくネタをお見せすることができません。ここは一つ、私が面白いお話をして差し上げましょう」  男はそう言うと、一呼吸置いて得意げに喋り始めた。 「実は、弊社はこれまでにも何度か、今回と同じような求人を出し、多くの方々にご参加頂いたことがあります。直近だと半年ほど前ですね。もちろん、内容も同じ。笑い所で笑えなければ爆死するというものです。参加人数は通算で70人程度。ここで皆様に質問です。そうですね……1番の方。この70人の内、無事に報酬を得ることができたのは何人くらいだと思いますか?」  列の端っこに座る男性へ視線が集中する。 「えっ……。えっと、何人……。……じ、10人くらいですか?」  その震えの混じった声に、壇上の男は「違います」と短く返す。 「答えはなんと、ゼロ人です! ゼロ! つまりこれまで参加した70人は全員文字通り爆死したわけです! どうです、面白いでしょう?」  この日一番の笑顔を浮かべながら男が興奮気味に言った。俺たちはその様子をただ漠然と見つめる。 「あれ? 規則を忘れましたか? 笑い所では――」  ハッとした。俺は咄嗟に笑い声を出した。 「は、ははは! はははは!」  他の人達も状況を察したのか、俺に続いて次々に笑い始めた。 「いいですねえ、その調子で頑張ってください。それでは皆様の表情も晴れたところで、そろそろ始めることにしましょうか。合間合間で芸人に対する皆様の貴重なご意見も伺いますので、その際にはどうぞ率直な感想をお聞かせください。では、私はこれで失礼いたします」  男は俺達に向かって深々と礼をすると、そのまま舞台袖へ姿を消した。  入れ替わるようにして出て来たのが、ダジャレがメインの芸だという道化師風の男。踊るように小刻みなステップを踏みながら舞台中央まで進み、一度足を止めて俺達に対して『よろしくお願いします!』と大げさなまでの礼をすると、再びその場で小さくステップを刻み出し、くだらないダジャレをただ連発するだけの全く面白味のない芸を始めた。 『ここにイルカはいるか~?』  子供でも笑わなさそうなつまらないダジャレ。でも俺達は笑う。 『内臓が無いぞう!』  もちろん笑う。その笑いの裏にあるのは死への恐怖。こうして、いつ終わるとも知れない最悪の「バイト」は始まった。  ◇  成り行きを思い返すのはここまでにしておこう。  それにしても自分の馬鹿さ加減に腹が立つ。今の状況になったのは父親のクソみたいなやらかしがきっかけでもあるが、そもそも俺がもっとまともな頭をしてればこんなことにはならずに済んだはずだ。 『アルミ缶の上にあるミカン!』 「ははは!」  3番の男性が目の前で爆死しても、道化師は意にも介さずダジャレを続ける。お前どんな精神してるんだよ。今すぐ詰め寄って首根っこ掴みたい気持ちだが、そんなことをすれば当然即座に俺の頭も吹き飛ばされるだろう。  何とか口角を上げて笑い顔を作るが、疲労の溜まり始めた頬の筋肉の震えは増していくばかりだ。  もうどれくらいの時間が経っている? 恐怖の念に苛まれすぎてもはや時間の感覚も曖昧になっているが、少なくとも1時間以上はこのダジャレ芸を見せられている気がする。お前の出番はいつまで続くんだ。頼む。もう解放してくれ……。 『さあさあ、次で最後だ!』  最後。今、最後って言ったよな? 「やっとか……」  俺は無意識に小さく呟いていた。慌てて口をつぐむ。ダメだ、平気で人の頭を吹き飛ばすような奴らの前で迂闊なことは口にしない方がいい。  どうやら壇上の道化師には何も聞こえていないようで、相変わらず小さなステップを踏み続けている。 『最後のダジャレ、それは……』  それまでほぼ舞台の中央だけでステップを踏んでいた男が、左右に大きくステップし始めた。時折回転したり謎の踊りを交えたりしながら、舞台を所狭しと動き回る。 『それは……』  なかなか最後のダジャレを言わない男。そこで誰かの笑い声が上がる。  そうか、これが「なかなか最後のダジャレを言わない」という笑い所である可能性もあるのか。  俺もなんとか表情筋に力を込めて笑い顔を作りつつ「ははは!」と声を上げる。少しかすれた声がでた。どうやら笑いすぎて喉にもダメージが現れ始めたようだ。そして今更だが、自分の体中からとてつもない量の汗が噴き出していることにもこのタイミングで気付いた。  続々と他の人達からも笑い声が上がるが、そこへ割り込むように再びあの声がホール内に響く。 『8番さん、アウト!』  8番。俺の二つ隣の席に座る男性だ。俺は笑いながらその人へ目を向ける。  男性の頬の筋肉は激しく痙攣していた。目元からは涙が零れている。おそらく、なんとか口角を上げようとする意志とは裏腹に、もう表情筋が言うことを聞かなくなっていたのだろう。そして間もなく男性は絶命した。  俺はその光景から目を逸らすようにして舞台上に顔の向きを戻した。道化師野郎が気持ちの悪いステップを止めていた。 『最後のダジャレ、それは……みんなの心の中にある! どうも、ありがとうございましたー!』  やり切った満足感に浸るような恍惚とした表情を携えながら、道化師野郎が一礼ののちに舞台を後にする。  ダジャレですらない意味不明の締め方に苛立ちながらも、俺は笑うことを忘れない。  すでに自分の表情筋は悲鳴を上げ始めていたが、とりあえずこれで一休みでき『どうもーー!!』 「え……?」  瞑ろうとした目を開け、呆然と舞台を見やる。  待て。ふざけんな。俺達に感想を聞いたりするんじゃないのかよ。  道化師野郎が消えて間もない舞台には、すでにスーツを着た二人組の男達が拍手をしながら登場していた。片方がマイクスタンドの高さを調整し、もう片方の男は俺達に満面の笑みで手を振っている。 『どうも、お漫才ズです! よろしくお願いします!』  ハリのある声で挨拶をする男達。間違いない、ろくなインターバルも無く、ここから二組目の芸人の時間に突入する。どうやら今度は漫才のようだ。  一定のリズムでダジャレを繰り出していたさっきの奴とは違い、漫才ということはどこで笑い所が来るか全く予想がつかない。できればあの偉そうな男が言っていたようにネタの初めから終わりまで笑い続けて凌ぎたいところだが、案の定俺の頬と喉は限界を迎え始めているためそれは現実的に厳しい。  しかも道化師野郎がかなりの長い時間舞台に立っていたように、こいつらのネタの尺がどれだけあるのかも分からない以上、体力の無駄遣いはできない。結局、ネタの笑い所を見極めて笑うしか生き残る方法はないようだ。  ……生き残れるのか? あと何組出てくるのか分からないこの地獄のステージの終演まで、俺の頭は無事に原型を留めて残っているのか? 『この前ラーメン屋で回転寿し食べてたらですね』 『それラーメン屋じゃないね』 「はははは!……はははっ……!」  考える暇もなくネタが始まる。  ネタにわずかでも面白さを感じて自然に笑うことができれば、遥かに楽だったんだろう。でも、こいつらのネタは本当に面白くない。つまらない。きっとこの舞台に、面白い芸人なんて一人も登場しないんだ。 『シャリが全部ラーメンだったんですよ』 『あらまエキゾチック』  ダメだ、頭痛も激しくなってきた。辛うじて笑うことはできているが、もう長くは持ちそうにない。 『4番さん、5番さん、アウト!』  左の方で鈍い破裂音が聞こえた。これで二人が脱落。次は俺の番かも知れない。 『もういいよ! どうも、ありがとうございました!』  そう思っていたからこそ、ツッコミの方から放たれた漫才の締めを告げるその台詞に拍子抜けした。  え、もう終わってくれるのか? まだ始まったばかりだぞ。  俺はちらりと横を見た。7番の男性の張りつめた横顔から、一気に力が抜けていくところだった。ネタが思ったより早く終わって安心したんだろう。  ……本当に終わると思うか? いくらなんでも早すぎるだろ。多分、すぐにボケの男がツッコミに回ってネタを再開するぞ。「いやいや!」とか言って。 『いやいや!』  ほら来た。俺は笑う気構えをする。 『まだ俺の話終わってへんから!』  唐突な関西弁に何を思うこともなく、俺は力を振り絞って笑う。 『1番さん、2番さん、7番さん、アウト!』  立て続けの鈍い破裂音。思わず顔をまるごと横へ向ける。  ついさっきまでそこにあった7番の男性の安心しきった横顔は、完全に消えて無くなっていた。笑う気力より、まだ漫才が終わりじゃなかったことの絶望感が上回ったんだろう。首から小さな噴水のように血が噴き出している。  そして同時に、俺以外の生き残りが6番の若い女性だけであることにも気付いた。その顔に浮かぶ、生気の抜けた歪んだ笑顔。全身に浴びた赤黒い血液が、これ以上ないほどの狂気を滲ませている。  俺は再び顔を壇上の男達に向けた。額からの汗が目に入り込んでくる。俺は血だらけの手の甲で目をこすった。空中を漂う血の臭いはより強烈になっていて、えずきかけてしまう。 『それにしても今日はいいお客さん達ですねー』 『そうだねえ、ほんとよく笑ってくれるよね』  ボケの男が客席へ手を向けながら笑顔で言い、ツッコミの男も同調する。  ほざけ。好きで笑ってるわけじゃねえんだよ。  俺はその皮肉に対して苦し紛れの笑いを取り繕いつつも、奴らを見つめる視線には最大限の殺意を込めた。 『6番さん、アウト!』  はっ? 今の皮肉も笑い所だったのか? まさかとは思いつつ一応笑っておいたが、あまりにも理不尽すぎる。  6番の女性の絶命を告げる破裂音に、俺は思わず目を瞑った。  他の参加者が全員死んだ。後は、俺一人だけ。  全身の震えが極限に達した。凄まじい動悸に襲われる。拭っても拭っても間に合わないほどの汗が流れだす。 「あ……」  まずい。表情筋の痙攣もピークに達したようだ。今、自分がどんな表情をしているのかも分からなくなる。ぐるぐると目が回り、もう自分の荒れ狂った息遣いしか聞こえない。 「あはっ……あははは! はっ……はははは!」  ちゃんと笑い顔が作れているのかも分からない以上、もう出せるだけの笑い声を出してごまかすしかない。ネタはどうなってる? 壇上の男達は、今何を喋ってる? 「ははははっ、はははは! がほっ、はははは!」  むせてもすぐに声を出す。喉の痛みも洒落にならなくなってきた。でも、ここで笑うことを止めたら死ぬ。 『10番さん、アウト!』  幻聴か? 現実か? 俺は死ぬのか? 分からない。何も分からない。何で俺はここにいるんだ? 何で目に血でも入ったかのように、視界が赤く滲んでいるんだ? ははっ、はははは! はははは! 分からない、笑うしかないんだ。笑え。笑え。死にたくなかったら、死ぬまで笑え!
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