離さないで

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序章  起きろ、と僕の兄である道生の声が聞こえる。 「起きてるよ」目を開けた僕がそう返すと、道生は「お前今日入学式だろ、早く支度しろよ」と言って部屋から出ていった。  今日は僕の身分が正式に大学生になる日で、僕は楽しみで眠れず一睡もしてない、僕は子供の頃からこの日が来るのが夢だった。  幼少の時に道生と交わした会話を思い出す。 「おうみは大人になったら何になりたいの」まだ子供の道生が聞いてきた。 「まだわからないよ、だけどお勉強をしたいから大学生っていうのになりたい」と僕は答えた。  それから、両親が亡くなってから道生は高校に進学せずに働き、僕のその願いを叶えようとしてくれた。  こんなに出来た兄はいないと僕は思いながら、玄関の扉を開け、行ってきますと言った。 「起きなさい」私を起こす声がする。何度も繰り返し聞こえるその声は私の姉のものだ。  私は目を開けて「どうしたの、お姉ちゃん」と聞くと、姉のあかねは「あんた今日入社式でしょ、なんでまだ着替えてないの」と声を荒らげる。 「今から着替えるよ、えっとスーツでいいんだっけ」 「当たり前でしょ、ご飯作ってあるから食べていきなさいよ」あかねは私の部屋から出ていった。  私はスーツに着替えながら、何度着ても慣れないわと思い、ふと時計を見て背筋が凍った。  今日は九時に会社集合だ。そして今の時刻は九時半であった。  私はピンチだと思った。  しかし万が一許される可能性に懸けて、私は会社に向かうことにした。  玄関を出る時、あかねがご飯は?と聞いてくるが、私が「遅刻してた、行ってきます」と言うと「馬鹿ね、早く行きなさい」と私を送り出した。  私は自転車で会社に向かっている。自転車で通勤に掛かる時間はたったの十分だ。自宅と会社は近いのだ。  会社はスーパーマーケットの本社だ。私はこれからそこで受付嬢として働く予定なのだが、この初日の遅刻でそれは危うくなっている。  私はあかねが作ってくれた弁当も忘れたことに気付いた。  このように私は学生の頃からあかねに世話になりっぱなしだ。父子家庭で、父親が仕事しかやらない人だから家のことはあかねが全部やっている。あかねは彼氏が出来ても家のことを優先するのでいつも長続きしない、そしてあかねもいつしか仕事と私を育てることにしか情熱を持たなくなった。  美人なのにもったいない、と私は思うが、私にとってこんなにありがたいことは無いだろうとも思っている。あかねには感謝してもし切れない。  会社に着いたのであかねのことを考えるのはやめて、どう謝るかを考え始めた。  会社に入り受付嬢に今日から入る鴨川岬ですが、と言うと、あぁ皆さんお待ちですよ、急いでねと怒っているような笑顔を見せて入社式の場所を教えてくれた。  私は入社式を行っているわりかし広い部屋の扉を開け、鴨川です、遅れましたと声を張った。  迷惑そうな顔をしている人間がほとんどの中、その中に面接の時に会った営業部長が眉間に皺を寄せながらも、いいから空いてるところに座って、と静かに言った。  私は失敗したと深く落ち込んだ。  僕は公立純当大学の門を抜け、入学式を行う会場に入り一年生が座るところを探した。僕は一緒に大学を入学した友達がいない。なので、式が始まるまでまだ時間がある中で既にグループで集まって笑いながら話している生徒のように誰かと話すことは出来ない。  僕は後ろの隅の方に座って開式を待った。  開式してからは、開式の言葉、オーケストラの演奏から始まり、国家斉唱、学長の話、来賓の話、入学者の宣誓、校歌斉唱、再びオーケストラの演奏、閉式の言葉で締められ、一時間足らずの入学式は終わった。  僕はつまらなかったな、早く家に帰って寝たいと思ったが、これから教科書を買いに行かないといけない。  僕は財布を開き道生に持たされた紙幣を数え十分だなと思い販売場所へ向かった。  教科書を購入した僕は、足早に家に帰り始めた。眠たくてたまらなく、友達がいないという状況に今は助かった。徒歩で通学出来る距離なのもありがたい、家から大学まで徒歩二十分だ。  午後一時頃僕は帰り道にある大手スーパーマーケットの本社を横を通り過ぎようとしていた。  入り口付近で何やら少し綺麗なお姉さんが重役と思われる威厳のある男に必死に頭を下げている。  お姉さんは失敗でもしたんだろうなと思い、僕は目線を前に戻し足を踏み出したら、足に力が入らず、転んでしまった。  倒れてからは体に力が入らず立つことが出来ずそのまま意識も朦朧になっていき僕は僕の意志と関係無く目を閉じた。  目を覚ました時、僕はよく掃除されている埃一つ無いオフィスの中の、ソファに眠らされていた。 「大丈夫か、君」僕が声の方に目を向けるとそこには先程の重役のような男がデスクに座っていた。 「あ、はい、助けて頂いたんですね、ありがとうございました」僕は背伸びした言葉遣いをした。 「大丈夫なら良かったよ、というか君大人みたいな話し方をするね、うちの新入社員にも見習わせたいよ」  新入社員、さっきのお姉さんのことかなと僕は推測した。 「もう一人で帰れそう?、もしまだ体調が悪いなら誰かに送らせるけど」  僕はこの人、良い人だなと思いつつ「いえ大丈夫です、帰れます」と答えた。  そして入り口まで案内され、倒れた時に落とした鞄を渡され、気を付けてねという言葉で送り出された。  外は薄暗く夕方のようだった。腕時計を見ると六時前が表示されていた。  初日から倒れるという事態にはなったが、今日から僕の大学生活が始まる。  これからどうなるのだろうか。  不安や期待、色々な感情が胸の内を動き回り気持ちは落ち着かなかった。  あともう一つ印象に残っているのは、今日の必死に頭を下げていたお姉さんは綺麗だったなという思いだ。だがあのお姉さんとはこれから先会うことは無いだろう。  僕は騒がしい思考を一旦止めて、気持ちを切り替えて自宅に向かった。兄が待っている、これ以上遅くなって心配させないようにしないと。  その思いを胸に薄暗い夜道を急いで歩いた。 一章 私を追いかけて 1  僕が大学生になってから一週間が経った。  僕も友達とまでは言えないがよく話すようになった生徒が何人かいる。  男子生徒ばかりだが、一人だけ僕に興味を持ったと言う女子がいて、そいつもよく話す生徒の一人だ。  その女子はこの大学の推薦枠で入った生徒であり、頭はかなり良いとのこと。名前は島村藍。容姿は細い整えられた上がり眉に、楽しそうに物を見つめる大きな目、高い鼻といつも口角が上がっている赤い唇、髪の毛は混じり気の無い真っ黒のロングヘアー。ほとんどの男子生徒は藍を可愛いと言っている。  性格は明るく笑顔が多く笑っていなくても楽しそうな表情を浮かべている。  人と関わるのは好きらしいが、人と群れるのは好きではない、なのでなるべく人と一緒にいる時は一対一が良いらしい。  この中の容姿以外の情報は、全部本人から教えられたものだ。  正直、大学の男子生徒の中で人気が上がってきている藍の目的はわからない。  どうしてクラスの端にいるような僕に積極的に関わってくるのだろう。  僕がその理由を聞いたら、藍はあっさりと答えた。 「だって青海君は勉強が好きで上昇志向があるじゃない、上に行きたいって気持ちがひしひしと伝わってくるのよ、私そういう諦めない人が好きで、私はそういう人に追いかけられて、それで追われながらも負けじと自身を高めるってことをしたいのよ、うん、もう言っちゃってもいいかな、私青海君のことが好きとは言えないけど気になるのよ、青海君と私が一緒にいれば絶対に相乗効果になると思うから、付き合ってくれない?」  僕は大学生活が始まってから一ヶ月も経たずに、じきに大学一の美女と呼ばれる女子に告白をされたのだった。  僕は断る理由など一つも無いと思い、二つ返事でオーケーした。  こうして大学生になりたての僕に彼女が出来た。 2 「私を追いかけてね、私も追い付かれないように頑張るから」と言いウィンクをして、じゃあねと手を振り去っていった藍のことを、青海は思い出していた。  青海は凄い人と恋人になれたんだと今はまだ漠然としか感じられていなかった。藍の凄さはまだ発揮されておらず形にはなっていなかった。これから先青海は今はまだはっきりとは見えていない藍のスペシャリティを見ていくこととなる。  現在、僕は大学で受講している。  隣には藍がいる。  正直どうしても藍の動作一つ一つを目が追ってしまい、全く講師の言葉が頭に入ってこない。  この娘の魅力は何だろう、どうしてこんなに気になるんだと僕は頭を悩ませていた。そこを解決しないといつか単位を落とす。  何故なら藍は出来る限り僕と一緒にいたいという理由で講義が重なった時には必ず僕の隣に行くと宣言したからだ。  講義が終わった後、僕のノートを見た藍は「ほとんど写せてないじゃない」と驚き、少し呆れていた。  藍は「前は黒板の内容ちゃんと写してたよね、調子が悪いの?」と聞いてきた。  僕は理由を正直に言うことにした。このまま藍と一緒に受け続ければ本当に単位を落としてしまう。 「うん、悪いけど、隣に女の子がいると気になって講義に集中出来ないんだよ」僕は頭を掻きながら答える。 「そっか……」藍は俯き、落ち込んだように見えたが、すぐに顔を上げ「なら講義の時は離れた場所で受けるわ、それで青海君が集中出来るなら」と言った。理解はあるらしい。というより僕の成績が落ちるのは嫌なのかもしれない。 「私を追いかけて」という言葉を思い出す。  藍は勉強で競い合えるライバルが欲しいんだろうな、と僕は思った。  次に講義が重なった時から藍は言った通り、僕から少し離れ僕の目に写らない場所で講義を受けてくれた。  お陰で僕は気が散ることなく講義を受けられた。といっても藍と一緒に受ける前に戻ったということだが。  それから藍は講義以外の時間にくっついてくることが多くなった。恋人らしい行動ではあるが、藍は僕が好きではなく、僕から学力で藍に追い付ける可能性を見出だしたから恋人にしたのではないのか。なのに何故勉強以外の時にも僕と楽しそうに過ごすのだろう。  僕にはわからなかったが、それは聞いてはいけない質問だと思った。  藍と恋人らしく大学で一緒にご飯を食べたり、何処かに出掛けて話したりする時はとても楽しい。なので普通とは違う形の恋愛関係とはいえ安易にこの関係を壊したくないのだ。  藍と恋人となってから三ヶ月が経ち、僕は藍の部屋に呼ばれた。  藍は一緒に勉強しようと言って誘ってきたが、その時の潤んだ瞳は別の目的があるのだと僕に悟らせた。  案の定、家には誰もいなかった。  藍は僕を部屋に招き、上着を脱ぎ短いスカートと淡黄色のタンクトップ一枚となった。へそが見えていて、外では意識しなかったがついそこを見てしまう。  僕の揺れ動く理性に気付いているかいないかはわからないが、藍は教科書とノートを開き、何してんの、勉強しようよと僕の目を見つめ言った。  僕がその言葉に一瞬遅く反応すると、藍は「そっか、隣でいるだけで集中出来ないって言ってたもんね、仕方無いか」と覚悟を決めるように目を閉じて、微笑み、それから目を開き上目遣いになり、する?、と聞いてきた。  セミの声が聞こえ生温い空気が漂う室内がその言葉によって揺れたように感じた。  うん、と僕は答えた。  藍はベッドに横になり、来てと呟いた。  そこからは汚く濡れて、いやらしくて気持ちの良い時間が訪れた。  藍は処女で、僕も初体験だった。 3  僕は現在、温水プールの中にいる。  夏は折り返し地点を過ぎていて、外の空気は段々と涼しさを帯びてきている。  なので外から漏れてくる少し冷えた風を感じながらの温水プールはたまらなく気持ち良かった。  僕が温水プール内を移動していると、冷たい水の一般的なプールで泳いでいた藍が水の後の温水は良いねと言いながら近寄ってきて、青海君、もう少し温まったら一緒に泳がない?と誘ってきた。  僕がいいよと答えると、藍は約束ねと言って笑顔を作り僕の腕に自分の腕を絡めてきた。  僕が「いきなりどうしたの」と聞くと、藍は「こうしたら恋人らしいでしょ」と笑った。 「確かにそうだけど」僕は照れていた。 「あそこまでしたんだから、今さら照れることでも無いでしょ、ほら泳ご」と藍は僕を一般のプールへ連れていった。  それから藍と泳ぎながら僕は一つ藍に聞きたいことがあったことを思い出す。  もう少ししたら聞こうかと思い泳ぎに専念した。  藍と50メートル競争をしたりしたが、三回勝負して僕は全敗した。僕はまずまずの運動神経で藍は運動が全般的に得意だ。  何でも人並み以上にこなせる万能な人間なのだ、島村藍は。  そう、僕とは釣り合わないような。  今、僕が藍に聞きたいのはそれで、何故自分と同程度の人間と付き合わずに、自分より下の人間を恋人にするのか。その理由は私を追いかけてという言葉だけでは足りてないと思う。必ず他に何かあるだろう。  泳ぎ終わり体を拭き、休憩所の自販機の飲み物を買いながら、その質問をした僕に対して藍は「出来る人間と出来るトークをして鏡に話し掛けているように答えが見え見えの会話をする、そんなのが楽しいかな、私はそれよりも自分より劣っていようが予想外の答えを出せる人と一緒にいたいよ」と語った。  僕はその答えを藍の本心だと信じて納得してしまった。  かくして僕の疑惑は波風を立てず核心に全く迫らず簡単に藍の嘘に丸め込まれてしまったのだ。  そのまま僕と藍の関係は何も変わらず続いた。  私は青海君とのプールでのデートの帰りに、友人と会った。  そこで交わした会話を必要な部分だけ抜粋する。 「藍!久しぶり」 「久しぶり、偶然だね」 「藍、彼氏出来たらしいじゃん?」 「まあね」 「どんな感じの相手なの?」 「大人しい人だよ、初めての彼氏にはうってつけって感じ」 「ふうん、で、藍の望みは叶いそうなの?」 「叶うよ、相手は青海君って言うんだけど、素直で私に心底恋してるから、私の思い通りになりそうだよ」 「そっか、ほどほどにね、じゃあまた」 「またね」  何故こんな早い段階で心の内を見せなければいけないのだ。  それでは面白くないだろう。タイミングの悪い友人だ。  まあ私の目的そのものは語っていないだけ良いか。  これで島村藍の微量の短き語りは以上だ。もう私からは語りたくない。 4  大学生一年目の秋が訪れた。この大学の学園祭の時期である。  僕は五月から演劇サークルに所属している。それで今回サークルの部長と学園祭実行委員会の一人が密な関係のため今年は学園祭で演劇サークルが目立った活動をすることとなった。僕も顔見知りの同級生や先輩の前で演技をするのだ。それをやることに僕が躊躇いを覚えているのは、小恥ずかしいという感情が原因だろう。とりあえず、僕の私情は置いておいて先に演劇サークルの紹介をする。  僕の所属する演劇サークルの流れは最初に脚本係が脚本、台本を作り、部長がプロデューサーとして配役を決め、役を与えられた役者は自分の役に入り込む。三十年の歴史があるらしいこの大学の演劇サークルは代々その流れで進んでいるとのことだ。  今回、学園祭のメインイベントとして演劇をするのだが、僕はその演劇の中で五人いる主人公の内の一人を演じる。それなりの役なのだ。そして主人公は五人と言っているがこの演劇は決してレンジャーと名の付くヒーローショーではないと断っておく。  演劇の内容は道端で流行りのアイドルの殺害される現場を目撃した刑事が五人の容疑者を絞り出し更にその中から真犯人を探すというミステリーだ。物語では主に刑事の視点に写る五人の容疑者の生活を刑事のレポートに書かれる。  この演劇のオチは、最初は真剣に真犯人を探していた刑事だが話の途中から実は真犯人に金を渡されていて、刑事は五人の容疑者の生活を書き記したレポートの真犯人の部分だけ虚偽の事実を書いていた。つまり刑事の視点で話が進むこの物語では客は最後まで騙されることとなる。刑事の嘘を告発するのは真犯人ではないが真犯人に仕立て上げられそうになった容疑者の一人と、その容疑者に同情した他三人の容疑者。  僕は残念ながら真犯人の役ではなく只の容疑者の役を演じるのだが、僕はこの話がとても好きで、この世界に入れることに胸を高鳴らせていた。  この話を作った僕の尊敬する大学四年生の先輩は東京の大きな劇団から脚本家としてスカウトされている。  先輩もその話に乗るつもりだと、以前語っていた。  今年の学園祭のこの演劇は先輩の大学生活最後の作品となる。  失敗は許されない。  僕が学園祭の演劇に躊躇いを覚えているのは小恥ずかしいからだけではなく、プレッシャーもあるからだ。  そして十月の二十日の午後一時。  学園祭の日が訪れ、演劇が始まった。 5  早朝。  夜勤帰りに俺は行き付けのラーメン屋でとんこつラーメンを食べた。二十年前から変わらないこの味が好きだ。今俺はラーメンを食べ終え嫁の待つ家へと向かっている。  俺と家族は、住宅街の中の中々大きい一軒家に暮らしているが、嫁は刑事部長の家にしては小さいと冗談を言うように不満を漏らす。  俺は今贅沢するより貯金を優先したいのだ。  朝の光が眩しいと思いながら俺は自宅付近まで着くと、電信棒の付け根の部分に血を流した女が倒れているのを見つける。  女は腹を二本のナイフで刺されており、女は死んでいた。  俺は女の顔に見覚えがあった。  この女はこの頃売れ始めている上條優羽子というアイドル歌手だ。  俺は部下に電話を掛け、状況を報告した。  三時間後、被害者はやはりアイドルの上條優羽子だとわかった。それからナイフには指紋が付いていないが、このナイフは手作りの個人店のもので鑑賞を目的に作られた特別なものであり、ナイフの購入履歴を調べると上條が死ぬ前の一週間でこのナイフは五人の若者に購入されていた。俺はその五人のパーソナリティを洗い出した。 ・高浜守  二十代の若者。上條の追っかけをしていた。ナイフをコレクションしている。 ・海野隆也  二十代の若者。上條のライブによく訪れる。ナイフをコレクションしている。 ・司馬卓  二十代の若者、上條のファン、ナイフをコレクションしている。 ・相模裕助  二十代、上條の追っかけ、刃物のコレクター。 ・志村峰子  三十代、上條と旧知の仲、ナイフのコレクター。  ナイフの購入者は揃えたと錯覚するくらい似たような人間が多かったが、一人だけ容疑者となりそうな女性が見つかった。  俺はこの志村峰子という女性という女性に聞き込みをすることにした。主に上條との関係について。  志村峰子は眼鏡を掛けて真面目そうな女性で、声は小さくは無いが話す時に必死に声を出しているのが印象的で、常に少し困った顔をしていた。  話を聞いて、わかったことは、  志村峰子と上條は、教師と生徒の仲だった。上條の中学二年生の時のクラスには担任補佐がいて、それがまだ新人の志村峰子だった。  引っ込み思案の傾向があり、教師は向いていないと言われていた志村に元気を与えてくれたのはクラスの人気者だった上條であり、上條は時折志村を励ましてくれていたそうだ。  私は彼女には恩を感じています、なので私が彼女を殺す理由は無いのです。  最後に志村はそう語った。  俺は志村を容疑者からは外さなかった。理由は最後の言葉だ、何故か受け答えの中で最後の言葉だけはそれまでのおどおどとした話し方から一転して、事前から用意していたかのようにはっきりと言ったのだ。俺は志村を怪しいと感じた。  捜査は進み、アリバイが成立した容疑者達の疑惑は晴れていったが、志村だけはアリバイが無く、容疑者のままだ。捜査本部全体が志村を犯人だと思い始めていた頃、新たな容疑者が浮かび上がった。  その男は上條の弟だ。  シスターコンプレックスだと認知されている。  ここまでが演劇の第一部であり、ここまで終わった現在、午後二時になっている。  三部が最終章のこの話は一時間のインターバルを二度挟むこととなっている。  僕は出番が無いまま休憩へと入り一時間の自由行動が与えられた。  僕が休憩に入る前に、自分の衣装を確認しようと、舞台裏の衣装が並べられたエリアに入ると、声が聞こえた。  それはとても小さい押し殺した声だったが、僕にはそれが喘ぎ声に聞こえた。  僕は入ったらいけなかったかと思い、その場を後にした。  衣装が大量に掛かっていた大人の身長ほどあるスタンドの向こうには演劇サークルの団長と、学園祭で演劇をすることを決めた実行委員の女子生徒がキスを交わしていた。  見たくないものを見た気分だ。  その女子生徒は僕が尊敬する演劇サークルの脚本係の恋人だったからだ。  この事実は演劇サークルの中で広まりつつある。当事者の脚本係は気付いていない。  僕は知りたくなかった、しかし以前に知ってしまいそれからは団長のことを許せないという感情を抱いてしまっている。  しかし、だからと言って直接団長と実行委員の女子生徒の関係をどうにかしようとは思えない。  結局のところ、僕には関係のないことだからだ。  尊敬する先輩が侮辱されている事態をどうにかしようという情熱を僕は持っていない。僕はただ自分が演劇サークルの中で上手くやっていくことに必死なのだ。 6  僕は次の開演まで学園祭を巡ることにした。  そういえば藍に学園祭で一緒に行動しようと誘われたが、演劇サークルに参加するからずっと一緒にはいれないと断り、なら別々で行動しようと言われたのだが、僕は藍がどうしてるか気になり連絡を取ることにした。  今どこにいる?、とメールを送ったが、返事が中々無いので直接探すことにした。  確か藍は喫茶店をやると言っていたので、僕は学園祭のパンフレットを見て喫茶店が行われている場所を探した。  喫茶店は、二年生数名が行っている喫茶店と、陸上サークル女子が集まり行っている喫茶店の二つがあり、藍は陸上サークルに所属しているので僕はそっちの方に向かった。 「青海君、来てくれたんだ」と少し驚きつつも微笑み藍は迎えてくれた。藍はメイド服を着ていた。  昼食時が過ぎた今は客が少なくて暇らしく、やることがないので店員同士で話していた陸上サークルの女子が僕と藍を見ながら、彼氏いいな、うらやましいという声を楽しそうに漏らしていた。  僕が藍の作ったサンドイッチを食べていると、藍がいきなり僕の横に屈み耳元に口を近づけてきた。  僕がどきどきしながら固まっていると藍は、ねえ一緒に抜け出さない?、と甘い声を出した。  僕は反射的に体を藍から離した。  藍は屈んだまま真剣に僕を見つめている。  僕は周りを見て陸上サークルの女子が僕達を気にせずに話しているのに気付き、冷静に「演劇があるから」と藍に言った。  藍は「そんなの代わりの人にやってもらえばいいでしょ」と返してきた。何かいつもより口調が刺々しい。別人みたいだ。  まさか藍は怒っているのか?、そういえば怒らせたことはない。怒る原因と言えば学園祭で藍より演劇を優先したことしか考えられない。 「怒るなよ」と僕は言う。 「怒ってないよ……だから早く連れ出してよ」藍の目は冷めていた。  僕は劇団に出ないといけないからと返そうとしたが、ふと劇団の団長のことが頭に浮かび、劇団に対して嫌な感情が浮かび、不思議と藍の提案に乗っても良いかもしれないと思った。  そして僕は意見をねじ曲げて、藍と抜け出すことにした。  僕達は純当大学付近の緑地総合文化図書館に入った。  純当大学の生徒がちらほらといる。学園祭不参加の人間は結構いるのだろう。  僕は念のため劇団サークル団長に体調が悪いので帰ると伝えた、団長は了承をしたが腹を立てた様子だったので、僕はその後に連絡が来ないよう携帯電話の電源を切って、デートの邪魔はされないようにした。  藍は図書館デートは初めてと言っていて、上機嫌で何しようか?と聞いてきた。それは勉強か読書どっちがいい?という質問だ。僕はどちらを選べば藍が喜ぶかわかっていて勉強しようかと答えた。藍は一緒に何かをしたいだろうから、僕は別々で行う読書よりも一緒に行うことも出来る勉強を選んだ。  僕が勉強を選んだことで藍が喜ぶ理由がもう一つある。藍にとって僕との勉強というステージは最も気持ち良い時間なのだ。藍に教わりながら藍に追い付こうと向かっていく僕の姿を見るのは藍には快感なのだろう。  僕も藍と過ごしていって性格はわかってきている。藍は常に恋人の上に立ち独裁したいのだ。少し怖いと思うがそれでもそういう人間はざらにいるので常識の範囲内だろう。僕はそう思うので藍が独裁者だからといって別れたいという気持ちにはならない。  僕は藍との関係は続けるつもりだ。 7  文化祭が終わり、僕は劇団サークルに居辛くなったが、それでも良い大学生活は送れていると思う。  それは藍という恋人がいるからが大きいだろう。藍のお陰で友人も増えた。  現在、季節は冬。大学は冬休みに入っており、クリスマスまであと四日だ。今僕は藍の家で藍の誕生日を祝っている。  今日は藍の両親もいて僕は両親に紹介され、僕達は親公認の仲となった。僕には保護者は兄しかいないのでもし恋人の先へ進むとしても、後は僕の兄に藍を紹介するだけだ。勿論そこまで考えるのはまだ早い。  両親と藍との四人での食事と食後のバースデーケーキを食べ終えた後、僕と藍に部屋に招かれた。  部屋で二人きり。あの初めての日から何度ここへ来て何度体を重ねただろう。  今日もそうなるのだろうと思ったが、藍は部屋で少しくつろいだ後、外でのデートを提案してきた。  今日は水族館へ行きたいらしい。僕は藍に言われるがまま一緒に歩き、車の免許を持っていない僕達は途中でタクシーに乗りそこから20分程で水族館に着いた。 「私、魚は見る方が好きなの」藍が呟く。 「僕もだよ」と返しながら、僕は、最近僕は藍と意見が違えることが無くなってきた気がしていると思っていた。  藍に絶対服従というわけではない、しかし不思議と藍の方が上にいていつからか僕は藍に逆らう言葉を言えなくなっている。  そして藍はその僕の振る舞いに対して満足そうなのだ。そこもまた藍を喜ばせたい僕が藍に従ってしまう理由だ。  水族館デートが終わり僕達は藍の部屋で一緒に寝て、明朝に藍は使用済みコンドームを捨てながら、いっそクリスマスまで一緒に過ごさない?と聞いてきた。  僕は、いいね、そうしようかと答えた。この関係にはもう僕の意見などは求められておらず藍の望み通りにことが進むことが第一優先となっている。はっきりそうして欲しいと言われたわけではないが藍の振る舞いはそれを遠回しに強いるものなのだ。  逆らえばどうなるのかはわからない、しかし逆らった先には、入れば戻ることの出来ない暗闇が待っているように感じられるのだ。  しかし僕は藍の家に居続けるのは両親に悪い印象を与えると言い、一度家に帰ると藍に伝えた。  それには藍もそうねと答えてから、じゃあこの後何時に集合する?どこでデートする?と続けた。  藍は今回は僕に意見を求めてきた、といってもこれは"飴と鞭"の飴だろう。時には自分の意見を言わせないと僕が藍のもとから離れる可能性があると怖れているのだ。  僕はショッピングモールで買い物しようかと提案した。これなら藍も退屈せず僕も楽しめるだろう。  昼前に解散した僕達は夕方にショッピングモールに集合し一緒に服を見回ることにした。  若者向けのアパレルショップの中で「この服良くない?」と藍に突如聞かれ、僕は受け答えを失敗する。「そうかな」と咄嗟に本音を言ってしまったのだ。  藍は上に掲げていた服を見上げていた顔で驚いたように目だけで僕の方を見つめ「そう、この服良くないか」と言った藍は服を降ろしそのまま床に落とした。「青海が変だって言うくらいだから捨てても構わないよね」と藍は床に落ちている店の服の上を歩いて店の中から出ていった。  これまで逆らう言葉を言わないよう気を付けていたが、まさか意見が食い違ったらこうなるとは思わなかった。  僕はどう対処するべきか判断がつかずとりあえず商品を汚したので店からは離れ、少し迷ってから藍を追いかけた。  あらゆる若者向けの店を探したが、藍は見つからず、通りを歩いていると藍がトイレの方から出てくるところを見つけた。 「なあ藍また怒ってるのか」と声を飛ばすが、藍は聞こえてない様子で何処かへ向かう。  僕は少し腹が立ち、もうどうでもいいと思い、藍とは反対方向に歩いた。  五分後、藍から電話が掛かってきた。 「なんで私を追いかけてこないのよ、許して欲しくないの?」藍はご立腹のようだ。 「もうわけがわからないよ」と僕が本音を言うと、藍は追撃のように怒ることはせず少し考え「今私二階エスカレーター下のBEYONDっていう服屋にいる、そこに来てくれたら許してあげる、もう私のことどうでもいいなら帰ってもいいよ」と怒り声ではなく普段の明るい口調を抑え気味に言った。機嫌は直ったのだろう。  僕はBEYONDに行くことにした。  BEYONDの店外で藍は俯いて、白く洒落てBEYONDと書かれたガラスの壁にもたれ掛かっていた。僕が声を掛けると、藍は初めて会った時のような無垢な笑顔で「良かった、来てくれたんだ」と小声で言った。今の振る舞いだけを見ると、この数ヵ月で出来上がった藍の独裁者像など無かったのではないかと思ってしまう。 「私、いつも我が儘でごめんね、嫌だったらもう見捨ててくれていいよ」藍は目を擦りながら言う。藍は泣き始めている。 「そんなことしないよ」僕はそう言って、涙を溢し続ける藍を抱き締めた。 「青海の体、暖かいよ」藍は僕の背中に手を回し抱き締め返してきた。 「こんな私でも最後まで追いかけてくれる?」 「ずっと一緒にいられるならわざと勉強をさぼってもいいくらいだよ」 「ありがと、青海の学力じゃ追い付くことは出来ないと思うけどね」 「だからずっと一緒にいられるんだよ、これからもよろしくな」  こうして波乱は去り、クリスマスまで平穏な時間が流れ、クリスマスの夜を迎えた。  現在、僕と藍はホテルの中の最上階にあるDaintyという名の夜景の見えるイタリアンレストランで丸いテーブルを挟んで食事を摂っていた。  今日は僕と藍は一日中一緒に過ごしていて、ここでの食事が終わったらまたベッドを共にする予定だ。  そして時間は進み、食事から二時間後、今藍はティッシュで布団の濡れた部分を上機嫌で拭いている。  事後処理が苦にならない程、藍はセックスが大好きらしい。以前、愛されている感覚も気持ち良くてそれ以上に行為自体が気持ち良いと語っていた。 「そろそろ風呂入ろうよ」僕が言う。 「待って、ここだけ拭かして」一緒に掃除をしたことはないが、藍は掃除が好きなのかもしれない。  藍が拭き掃除に満足したので、浴槽にお湯を貯め僕が先にシャワーを浴びた。藍は寒いからもあり身を寄せてくる。 「背中洗ってあげるよ」藍が言う。 「じゃあお願い」と言って、僕は藍にボディタオルを渡す。  藍に背中を洗われるのは撫でられているみたいでくすぐったく気持ち良かった。  浴槽を出た後、僕達は眠ることにした。  同じベッドで密着して語り合う。片方が眠るまでそれは続く。それが僕達の夜の締めだ。 「青海はしたい仕事とかあるの?」 「無いね、今は大学生活が上手くいけばいいよ」 「そっか、私も無い、私は勉強が出来ればそれでいいかな」 「藍はどうしてそんなに勉強にこだわる?」 「他にやることが無いからよ、いやというか勉強してる時しか私を感じられないの、勉強しかアイデンティティが無いみたい」藍は冗談を言ったらしくあははと笑う。 「それが仕事に繋がればいいんだけどな」 「そうだね、そういうの探すべきだよね」 「まだ探してないのか?」 「探したいけどよくわからない、勉強の出来だけを求めてる企業は無いのよ、だから私は別の何かを探さないと……いけないんだけど…………」藍は寝た。  勉強だけを求めている企業か。僕はそれに当てはまるものが無いか思考を巡らせた。そして一つこれは違うか?というものが見つかった。それは──研究者。  ふと藍の寝顔を見ると、肌は焼けていて健康的な顔だなと思った。とても室内で研究するタイプではない。  この提案をするかしないかを決めず僕は眠りに就いた。  外はもう真っ暗で夜空に月が見えるだけだった。 8  初詣。僕はこの行事が好きではない。何故なら十二月三十一日は両親の命日だからだ。  こんな日に楽しく過ごすというのは、まだ不可能だ。しかし今二十三時半、初詣まであと僅かという時に僕は近所の紺空神社で藍と一緒に参拝の列に並んでいた。  何故今日こうなったかと言うと、きっかけは今日の昼、事前から今日は会えないと藍に伝えておいた僕はスーパーマーケットで買い物をしていたら、奇しくも藍もそこで買い物をしていたのだ。  そこからは藍の言うがまま、僕の都合は無いものとされていき、今に至る。  零時が回り、参拝の列が進み始めた。パンッパンッという音が列が進む度に聞こえてくる。  突然「十二時回ったよ、もう命日じゃないね、ねえ青海、いつまでも不幸に囚われていたらいけないよ」と藍は僕を見つめながら言った。  紺色のマフラーを付けて黒髪をポニーテールにして、諭すような言葉を吐く藍は、今まで見てきたこの世の誰にも叶わないくらい綺麗に見えた。  僕は藍の為なら全てを捨てられる、心にそんな感情が沸き上がった。  参拝をし終わった僕達はキスを交わし、家路を辿った。その時後ろから「おい、青海!」という耳に響く声が聞こえてきた。  後ろには酔っ払った道夫が立っていった。顔を真っ赤にしてははははと一人で笑っている。兄の道夫は本当にお祭り好きでノリが良い、こういうところでは必ず泥酔する。 「どうした、彼女か?、あははは、やるな青海」  藍は道夫の勢いに付いていけず困っている、僕は道夫に「やめろよ」と注意する。 「ごめんごめん、んで、彼女さん、初めまして、僕は青海の兄の道夫です、よろしくな」道夫は藍に向かってそう言い握手を求めた。  藍はじっと道夫を見つめてから握手に応じて「弟さんにはいつもお世話になってます」といつもとは違う、明らかな怒りを込めた作り笑顔を見せた。  道夫は藍の握手の力が思う以上に強かったからか、または自分の行いを省みたからか急に大人しくなり「まあ青海も、……彼女さんも、仲良くな、気を付けて帰れよ、じゃあな」と言ってその場を後にした。  兄が何処かへ行った後、藍は何かを思ったように何も話さなくなったが、少し歩いたら「い、良いお兄さんそうね」と捻り出したように声を発した。  僕はあぁうるさいけどなと返しつつ、なんかさっきからおかしくないかと思い始めていた。急に大人しくなった兄に、藍の様子の変化。この二人まさか顔見知りとかではないよな?  僕は答えを出せないまま、まあいいかと思った。  その後最後にもう一度キスをして、藍とは別れた。  僕は家に向かった。道夫が泥酔しているだろうなと思うと、家に帰るのが面倒臭かった。僕は明かりの点いた家の玄関を開けた。  道夫はリビングのソファで寝ていたので、安心した。これで静かに過ごせる。 「あいつには気を付けろよ、青海」  僕は身を震わせ、道夫の方を見る。道夫は寝ながら頭を掻いている、どうやら今のは寝言のようだ。  僕はわざとらしく心臓を押さえ心拍数が上がっているのを確認する。  道夫の寝言は意味があるのか?と僕は疑問に思ったが、聞かなかったことにしようと頭の中を更新して、何事も無かったように寝る支度を始めた。 9 「卒業したら研究する?私が?」  藍は心から驚いている。そんな発想は無かったようだ。  今僕と藍は喫茶店で飲み物を飲んでいる。冬のコーヒーは格別だ、冬休みがもうすぐ終わることへの嫌な気分を吹き飛ばしてくれる。  僕と藍は今、僕が進路について話し合いたいと思い立ち、それには藍もいいねと賛成して、喫茶店に集まることになった。  そこで開口一番僕は藍に卒業したら研究の道に進めばいいんじゃないかと提案したのだ。 「私って体は細いけど体育会系なんだよね、狭い部屋で紙と睨めっこして研究するなんてきついよ」 「だけど勉強を続ける仕事と言えばそれしかないだろ」 「もう一つあるよ」 「もう一つ?」 「大学講師」 「なるほど、ということは勉強よりも研究をしたいってことか」 「そうだね、まあ正直どっちでもいいんだけど、青海が提案したものを自分の道にするのは癪だから研究者じゃなくて教授の方にするよ」 「なるほどね」前のショッピングモールの時のようにわけがわからない。なので適当に流すことにした。  このやり取りがあり、藍は教授を目指すことにした。  藍の進路は決まったというのに、まだ僕は何も決めていない。一年生なので決めてなくてもまだ大丈夫だが、恋人が道を決めたのに、まだ自分は決めてないというのは焦る。  結局その思いを残したまま僕は二年生となった。 10  大学生活二年目。一年という一つの節目を越えた筈なのに、実際は大して変わらない日々が進むだけだ。  つまらなくなってきたな、と呟いていたらしい僕の声を聞いて、一緒にご飯を食べていた藍は「二年目とか中弛みの時期は慣れもあってそういう気分になるんだよ」と人の心の奥まで探ったかのように答えを言う。  続けて「大学がつまらないならその分私と楽しもうよ」と笑顔で言う。  僕は不思議だった。藍は一時、僕を言いなりにさせようとする独裁者だった。なのにショッピングモールの出来事をきっかけに毒気の無い普通の恋人となっている。よくわからないのだ。  そんなことを考える日々が続くが、藍はあまりにもただの恋人という振る舞いを見せるので、僕は次第に今の藍が本当なのだろうなと考え直すようになった。  平穏な日々が続き、季節は夏となった。  八月十五日、大学の夏休みの中、僕と藍は藍の思い付きで登山をしている。僕と藍は登山をしたことが無いので、初心者コースというコースを探し、二時間で頂上に辿り着けて、その後は頂上までに掛かった時間と変わらない時間を掛けて下山するというコースを見つけた。  登山の中、藍は不可解な言葉を吐くことが多かった。 「ようやくここまで来れたわ」 「あなたが初めてだけど結構時間が掛かるものね」 「ようやく目的に近付けるかもしれない」  頂上まで着いた時に藍は太陽の反射で光輝く木々を見て「綺麗ね」と満面の笑みで言った。  満面の笑顔を作る場面ではない、このタイミングでは不気味な笑顔だった。  僕があぁ綺麗だと返した瞬間、僕の体は後ろに向かって倒れた。足が痛む。蹴られた?と頭に浮かぶ。  僕は藍を見る。藍は変わらず笑みを浮かべていて、はっきりと、さよならと言って、僕を山の斜面まで蹴り飛ばした。  僕は意識を無くし落ちていった。  ……クリスマス前のショッピングモールでね、私は屈辱的だったのよ。どうして私を追いかけるべきあんたが私に気を遣わせるのよ。私が連絡するよりも前に私のもとに駆け付けるのが当然でしょ。全く青海は。それまでは良かったわよ、自分の意見を言わなくなってきて私の意見を聞くようになって、そのまま上手く私の言いなりになっていれば良かったのに。私は自分の男を壊れるところまで壊して、その後私の言いなりになる操り人形にしたいのよ。青海にそれは難しいそうと思ったから、こんな荒療治を行ったのよ。さて、上手く壊れてくれたらいいんだけど。そして必ず私のもとに戻ってきてね、青海。また私を追いかけて。 11 「青海」と僕を呼び僕の体を揺する人がいる。  聞き覚えのあるこの男の声の主は道夫だろう。  目を開けると道夫がいた。泣きそうな顔をしている。 「お前記憶あるか?」まず道夫はそう質問してきた。 「あるよ、まず目の前にいるのは兄だろ」 「違う、もっと前のことだ、お前自分が入院してる理由わかるか」 「……思い出せない」何かあったはずだ。しかし思い出せない。 「そうか、じゃあ次はお前自分の恋人覚えてるか?」 「恋人……当然だろ、俺は藍という同級生と付き合ってる、それに初詣で兄貴も会っただろ」 「そうだ、そこまでは覚えてるか、なら最後の質問だ、お前その彼女と山に登ってそこで何か起きなかったか?」  そうだ、俺と藍は山に登った。確か初心者向けのコースを選んだ筈だ。そこで二時間程で頂上へ辿り着いてそこからの景色を見た。  その後……。 「あっ、うっ…………あぁ」突然息が出来なくなった。同時に吐き気を催すが何も出ず呻くことしか出来ない。  兄貴、助けてくれ。 「がっ、はぁ、あ」悶える僕の背中を道夫は擦りながらナースコールを押した。  僕の症状はショックが原因のパニック発作だという。そのショックは恋人に理由もわからず殺されかけたことで、その時のことを思い出そうとすると僕は呼吸が出来なくなり吐き気を催す。  道夫はしばらく学校は休めと言ってくれたので、僕はそうすることにした。  十日間入院生活を送ったが、その間面会に来るのは道夫だけで、藍も大学の友人も来ることは無かった。  後から知ったことだが、藍は病院までは来ていたらしいが、道夫と担当医師の話し合いにより面会禁止とされていたそうだ。  僕はパニック発作ともう一つ発症したものがある。  それは人の言葉が真実に思えないというものだ。  例えば、もう少しで退院出来るよという言葉も、僕には早く出ていけという言葉に聞こえてしまう。しかしそれが間違った捉え方だとわかっているだけまだ救いはあるのだろう。  この被害妄想も、藍に突き落とされたことで人を信用出来なくなったからなのだろう。  何にせよ、藍のせいにしていても解決にはならない。  僕は自分自身をどうにかしたい。なのでこの二つの悪い症状を治したい。  僕は精神科医のもとに通うことにした。 12 「もう彼は私を追いかけることは出来ないわ、もう勉強どころじゃなさそうだしね」山の一件後に、藍はそんなことを言っていた。僕は藍に捨てられたのだ。  しかし僕もそれどころではなく、山から落とされ精神疾患を抱え、それでも大学生活を投げ捨てず、周りの目を気にしないで、就職をしようとあがきながら大学生活を送っていた。  僕は道夫の支えのお陰で何とか山の一件以前の僕に戻りつつある。僕は今大学三年生だ、そして現在大手スーパーマーケットの本社の面接を受けている。 「御社を志望した理由は世の中に流通している商品をもっと売り出すにはどうすればいいかを御社の方々と力を合わせて考えたいと思ったからであります」  この他にも得意な教科と苦手な教科、最近気になったニュース、このスーパーの商品でよく利用する商品は何か、プライベートの食生活ではどれくらいスーパーマーケットの食品を使っているか等を聞かれたが、一つだけ普通だったら聞かない質問をされた。この質問は個人面接だから可能だった質問だろう。 「君、この会社の前で倒れたことありませんか?体力面に欠陥がある場合は教えて下さい」この質問をしてきた男は、僕が大学の入学式で出会った"重役のような男"だった。いや採用担当者を任される程なので本当に重役なのだろう。「言いにくいですがあの日に倒れたのは睡眠不足のためであり、私の身体面に問題はありません、私は演劇サークルに所属し走り込みをこなしておりましたので保証出来ます、また、それ以降は若気の至りのように夜眠らずに日中活動するということは一度もしてません」僕がそう返すと、重役は「そうですか、わかりました、採用者には健康診断を受けて頂きますので、健康状態はどちらにせよわかります、ではこちらからの質問は以上です、そちらから質問はありますか?」と最後に聞いてきた。僕は特 にありませんと答え面接は終了した。  七日後、採用通知が届き、僕は内定をもらった。  大学卒業まで一年半と少しだ。  僕が内定をもらったことは一部の講師にしか話していない筈なのに、何故か複数の生徒、そして藍の耳に入っていた。 「おめでとう、内定をもらったんだね」藍は僕達の間に何も起きていないかのように、ごく自然に友達と話すように気負うこと無く話し掛けていた。 「あぁありがとう、それで何の用事だ」僕はもう藍と話しても冷静でいられる。 「いやお祝いしたかっただけだよ、ほらこうやって」そう言って藍は僕の右足を蹴飛ばした。  瞬間、僕の脳裏に山から落とされたこと、その後パニックになったことがフラッシュバックする。  体勢を立て直したが、冷や汗が止まらず動くことが出来ない僕を見て、藍は楽しそうに「そんな状態で就職出来るのかな?、まあするつもりなら足元は注意しないとね、あははは」と言う。そして藍は「ここからが本題だけどそんな状態じゃ就職しても台無しになる可能性あるでしょ、だからさ、青海、私と一緒に教授にならない?、科目は私が決めるから青海は私に教わりながら勉強すればいいから」と真顔で言う。 「私を追いかけて、か」僕が呟く。 「そうよ、青海はそうするべきよ」藍はにやりと笑う。 「追いかけた先が光なら追いかけ続けられるよ、だけど、藍を追いかけても追いかけても見えるのは底無しの闇だからな、僕には藍を追いかける勇気はもう無いよ、じゃあな」僕は藍に背を向け歩き始めた。  後ろから「そっちは逆行よ」と嘆く声が聞こえた。  こうして藍との関係は終わり、その後一年半が経ち、僕は公立純当大学を卒業した。  僕の大学生活は終わった。  そしてスーパーマーケットはやみの本社に入社した。 二章 ベレー帽 1  僕が社会人になる前、道夫と精神科医の他に、もう一人、僕をどん底の状態から救ってくれた人がいる。その女の子の名前は高木深美。同い年の美大生だった。  社会生活を語る前に彼女のことを紹介しておく。  山から落とされ入院していた僕は退院を迎え、道生に車で送ってもらっていたが、ふとどこかの景色を眺めたくなり都会の景色がよく見える丘で降ろしてもらった。  青白く窪んだ顔を見せながら僕は高台に設置されているベンチに座った。  この丘は小さな谷川を挟んで都会の真向かいにある。  都会は騒々しく動いている。僕もそれを見ながらもう一度あれくらいの活動力を手にしたいと思った。  僕が何時間も都会を眺めていると、強い風が吹き、ふいに目の前に赤い何かが飛んできた。僕はそれを手に取ると、それは真っ赤なベレー帽だった。 「それ、私の返してえ」という甲高い声が聞こえた。  僕は辺りを見ると川辺に立てられているキャンバスの方から女子大生らしい若い女の子が走ってきていた。  女の子は僕から帽子を受け取り、ありがと、風で飛ばされたのと言う。  僕は返事が出来なかった。この女の子も何か企んで僕に攻撃をするのではないかという気がした。帽子もわざと投げたのではないかという発想になる。  女の子は初対面の僕に堂々と「……どうしたの、顔色良くないけど、体調悪いの?」と聞いてきた。  僕は「ちょっと疲れてるんだ」と答えた。  ふぅんと言い、女の子は僕のもとから離れた。僕はほっとした。これで攻撃されなくて済む。  昼の三時からここにいるが、空がオレンジ色になってきた頃、さっきの女の子が再び僕のもとに歩いてきた。  手にはキャンバスパネルを持っている。 「これ見て、今のあなたの顔だよ」女の子は僕にパネルを見せた。  そこには青白い顔が描かれており、それを見て僕は絶望という言葉を連想した。  僕は「ひどいな」と呟いた。  それを聞いた女の子は僕の隣に座り「私ね、画家になりたいんだ、それも人を幸せにする絵を描くような。だからまずは疲れ切ってるあなたを私の絵で助けようと思うんだけど駄目かな?」と言った。僕はその言葉は不思議と嘘ではなく裏の意味が無いと思えた。久しぶりの体験だった。 「いいよ」僕が答える。 「決まりね、じゃあ明日もここに来てね、私もいるから」 「そういえば名前言ってなかったね、私は高木深美、近所の美術大学に通ってる二年生よ」 「僕は柴田青海、純当大学の二年生」 「同い年だったんだね。……これからよろしくね、青海君」深美は握手を求めてきた。僕は差し出された手を見て冷や汗をかきその手を受け取れなかった。 「ごめん、女の人は苦手なんだ」と僕は言う。 「そっか……。もう暗くなってきたね、そろそろ帰らない?」 「あぁそうしよう」と僕は言いながら、深美に何か一つ、あなたを信用していると思わせることをしたいと思い、携帯電話を取り出した。  僕は「矛盾してるようだけど僕は深美さんを拒否してるわけじゃないんだ、むしろさっき言ってくれたことを信用したいと思ってる、だから、その、証拠として良かったら電話番号交換してくれないか」と言った。行動はナンパだが、僕はそう思うことも出来ず、この行動をするだけでかなり気力が削られた気がした。 「いいよ、私から教えてあげる」深美は少しおかしい僕の挙動に嫌な顔を見せず、少し間を置いてからそう言って携帯電話を取り出した。  そして電話番号を交換してその日は二人共帰ることにした。  これが僕と深美の出会いだ。 2  翌日、大学には行かず昼に深美に会いに行くと深美はキャンバスに絵を描いていた。目の前の都会を描いているようだった。  深美は百七十センチは越える身長にボーイッシュな格好、上がり眉に怒ってるようないかつい目つき、一文字の唇に日本人離れした高い鼻。話したことが無い人には怖いと思われるだろうが、実際には笑うと優しさに溢れた顔を作る。  そして今日も真っ赤なベレー帽を被っていた。 「お、来たね」深美はこっちに手を上げ笑顔を作る。  僕はまだ深美が僕に対して良からぬことを考えているかもしれないという考えが拭えない。  しかし反対に深美を信用したいという想いも生じてきている。僕は手を振り返した。  深美と関わることでこれからどうなるかはまだわからない。しかし良い結果になると信じたい。  深美は高台から深美の絵を見つめている僕にこっちおいでよと手招きし、今日の為に余分に椅子を持ってきていたらしく僕を隣に座らせ、あんな遠くからじゃなくてそばで私の絵を見てと言ってキャンバスに絵を描き始めた。  深美は速筆で見る見るうちに目の前の都会の景色がキャンバスの中にそっくりそのまま組み立てられていく。組み立てられていく、そうそんな表現をしたくなるような、深美は景色の全体図を書いてから一部分一部分を一つずつ丁寧に着色させ完成させてから次に進むという描き方をしていた。  その日は夕方まで深美の絵が描き進められていくのを眺め、そのまま解散となった。  二人共大学生という身分である以上毎日は会えないので、次会う日は連絡して決めることとなった。  家に帰り、僕は道夫に会うと「おい」と呼び止められた。軽い声ではない、怒っているようだ。 「お前性懲りも無く女と遊んでいたな、川で一緒にいるの見たぞ、お前自分に何があったのか忘れたのか」道夫は紛れもなく怒っていた。僕を心配してるのだ。僕は「大丈夫だよ、そういう関係じゃないし、それに前の女の子は少しおかしかったんだ、今日一緒にいた女の子は普通の子だよ」と言い訳のように言う。  腕を組んでいる道夫は「女と関わるなとは言わん、しかし早すぎないか、退院して早々なんて、次同じようなことになったら俺は知らんからな、家から出てけよ、大学も自分で通え、お前はお前が山から落ちて俺がどれだけの思いをしたかわからんからそんな行動が取れるんだ、次何か起きてもお前の責任だ、だからよく考えて行動しろよ、じゃあな」道夫は自分の寝室に向かった。  深美とのことで道夫との関係に亀裂が入った、深美とはもう会わない方がいいのかもしれない、僕はそう思った。 3  意見というのは簡単に変わるものだ。  一過性、その言葉に最もくっつきやすいのは意見という言葉だろう。  僕は今、いつもの場所で再び深美の隣に座り、絵の完成を待っている。 「昨日は描ききれなかったけど、今日は完成までいくよ」と深美は言う。確かに素人の僕が見ても全体の構図は完成していて後は全体の半分の着色だけなので、七割くらいは完成しているように見える。  都会の一部分を切り取られたこの絵の完成図は、深美の頭の中にはもう出来上がっているのだろう。  深美が絵描きとしてどれほど凄いかはわからないが、少なくとも美大生の中では群を抜いているのではないかと思える。  僕がその思考を巡らせた時間から一時間が経過し、深美は筆を止めずに「もうすぐ出来るけど、この絵、青海君もらってくれない?、青海君の為に描いたものだし」と聞いてきた。  僕は後で金を取り立てるんではないか、もしくは失敗作だから僕に押し付けようとしているのではないか、という発想が出てきて、またしても返事が出来なかった。  深美は僕の返事が無いことを気にしていないようにそのまま絵を完成させた。  そして「ねえさっきの質問だけど、どうして何も言わないの?」と聞いてきた。少し苛立っているようだ。  僕はそれに対して「もらえないよ」と答えた。深美は「どうして?」と僕に聞く。僕は「大事なものだろ、せっかく自分で作ったんだから深美さんが持てばいい」と返す。  深美は「さん付けなんてしなくていいよ、そんな距離を取らないで、それで青海君、本当のこと言ってよ、君が何を悩んでいるのかわからないと私も青海君を助けようが無いから、ね、お願いだから、私に助けさせて」と寂しそうに微笑んだ。  私に助けさせて。その言葉はいつか聞いた私を追いかけてという、相手のエゴを主張する言葉と対立するものに感じた。僕は深美は藍とは違うのだと思うことが出来た。深美の言葉に裏の意味など込められていない。そう思えた。  僕は深美に、今僕は人の言葉がそのまま受け取れず悪くしか取れない状態になっていると明かした。  そして、その絵を受け取ることも何か裏があるのでは無いかと思ってしまうんだと正直に告げた。  深美は聞き終わった後、そうと呟き「青海君は最初からそうでは無いのよね?、何かあったからそうなってるのよね?」と確認してきた。  僕はその通りだと答える。人のせいにしたくなかったが、誤魔化すこともしたくなかった。  深美は僕に「青海君は、そうなる前の元の自分に戻りたい?」と聞く。僕は頷く。  深美は「多分私から働きかけても意味が無いのよね、変わるのは君だから。なら青海君、君の方から私を信じれば元に戻れると思い込んで、君がそう思う分には裏の意味も嘘も存在しないでしょ」と言い、それから「その第一歩として青海君は私の絵を見れば救われる、だからその絵が欲しいという自分の意志を持って。知ってる?人間って思い込みで百八十度変われる生き物なのよ、青海君だって例外じゃない」と言った。深美は反対の意味が最悪の意味にならないように言葉を選んで話してくれているようだ。  深美、どうして僕のためにここまでしてくれるんだ。  僕はその疑問をそのまま口に出した。  深美は「青海君のことが好きだからよ、恋愛とかじゃなくてね、まあ簡単に言うと放っておけないのよ」と頭を掻きながら苦笑して答えた。  深美は変わっているなと僕は思い、何故か笑いが止まらなくなった。  深美はどうしたの、青海君と言いつつ若干後退りしている。  それでも笑いが止まらない。そして僕は、僕も君が好きだと言った。  深美は赤面してじゃあねと言ってそそくさと帰ってしまった。  僕は人生で初めて人に好きだと伝えた。しかし今回のは愛の告白ではなく、人としてのものだ。  だが、深美はそう思ってないだろう。それから一週間音信不通になった。 4  一週間ぶりに深美と会った時、僕は顔を赤くした深美に「私は会ったばかりの男と簡単に付き合うような軽い女じゃないからね」と叱咤された。  僕は「僕は君のことが人として好きなんだよ、女としてじゃないよ」と答えた。  深美はえ、と呟ききょとんとした。  その後、僕と深美はいつも深美が絵にしている都会を散策することにした。 「青海君、前より顔色良くなったよ」と深美が言う。 「そうかな、実は僕色々やってるんだ、精神科医に通ったり、兄と人を信じられるようになる練習とか」 「ふぅん、精神科医ね、それは必要無いと思うけどね、青海君は正常だと思うよ。というよりお兄さんいたんだ、話聞く限りいいお兄さんね」 「そう、本当に良い人だよ、両親を亡くしてからは兄が僕の親代わりをしてる」 「そう。親がいないのは悲しいよね」  その会話から間もなく深美は立ち止まり都会の中の一軒家を見つめた。 「どうした?」と僕が聞く。 「ごめん、何でもない、これからどこ行こうかって思っただけ、どこか行きたいところある?」深美は何かを隠しているように見える、いやまた僕の悪い癖が出ているだけかもしれない。言葉はそのまま受け取らないといけないと僕は自分を戒めた。 「もうそろそろ十二時になるし昼御飯でも食べようか」と僕が言うと、深美はそうしよと言い微笑んだ。  ご飯を食べた後は、僕は大学の講義を受けるつもりだったので、深美とは別れた。  今は大学生になってから二度目の冬を迎えている。  もう少しで冬休みだ。冬休みになればもっと深美と会えるかもしれないと思い僕は自分がそれを楽しみにしていることに気付いた。 「次何か起きてもお前の責任だ」という道夫の言葉が頭に浮かぶ。  わかっている、もう僕は恋なんてものはしないよ、兄貴。  深美を好きになることは無い。そう決意を固めたところで、講師が教室に入ってきたので、僕はノートを開き筆箱からシャープペンシルを取り出した。 5  純当大学は冬休みに入り、深美と会う頻度は増えた。美術大学の方も冬休みに入ったらしい。  十二月の終わり頃僕と深美は何度目かの都会散策をしていた。深美が毎度提案するこの都会散策の目的は何なのだろう。  僕は会話が途切れた時にそれを質問した。 「よく都会の散歩するけど、これって理由とかあるの?」  深美は何故か食い付くように即答した「無いわよ、だって私都会嫌いだしね」深美は感情的にそう言った。  僕はよくわからないと思った。  僕は続けて「都会が嫌いならどうして都会の絵を描くの?」と質問した。  落ち着きを取り乱した深美は「敵地視察よ」と言い悪戯っぽく笑った。  僕はわけがわからないと思った。  その後は深美がなんか冷めた、今日は帰るわと言って解散となった。  その日の深美は最後までよくわからなかった。  なんで都会を歩くのか、なんで都会の絵を描くのか、か。  確かにどうしてだろう。いやその理由を私はわかっている。  まだあの日々に未練を感じているのだ。  あの日々に戻りたいと思っているのだ。  青海君にこれを話したらどんな言葉が帰ってくるだろう。  だけど青海君なら何かを変えてくれるかもしれない。  次会ったら全部話して、こう言おう。  私はお母さんにもう一度会いたい、と。 6  以前都会の話をしたからか、一月三日の今日、僕と深美はいつもとは違い森の中で絵を描いていた。  深美は前の都会でのことは一切話さない。一心不乱に森の絵を描いている。  僕はいつも通り隣に用意された椅子に座り呆然と深美の絵の完成を待っていた。  絵の構図が完成して後は着色するだけとなった時にトラブルが起きた。  雨がぽつぽつと降り始め、次第に土砂降りとなったのだ。  濡れていく絵と僕と深美だったが、深美は絵が台無しになるのは仕方無いと言うように、僕に向かって、何座ってんの、雨宿りしないと、風邪引くよと僕の手を取り走り出した。  少し走ると小さな洞穴を見つけ僕と深美はその中に入った。  散々だわ、とベレー帽の水気を取りながら深美は呟いた。  僕は「そのベレー帽、いつも付けてるね」と言った。僕はこの発言を後に後悔した、無神経なことを言ったと罪悪感に苛まれた。  深美はそれについては何も答えず、少しの間、神妙な顔を浮かべ「青海君に聞いて欲しい話があるんだ」と僕を見つめて言った。 「私は都会で生まれた。生まれた日に父親は事故で死んで、それからは母子家庭で母親一人に育ててもらった、幸せだったのだと思う、優しいお母さんだったから、家事も仕事もこなして近所付き合いもちゃんとしてて、私の自慢のお母さんだった、だけどそれは私が中学校を卒業するまでしか続かなかった、私が高校生になると、頑なに再婚をしなかったお母さんは、無職のろくでなしの男の虜になって、その男の家に入り浸るようになった。そして間もなくお母さんは私を捨ててその男のもとに走った、そしてそれ以降私はお母さんと一度も会ってない、ただ今何処にいるかはわかってる。私はお母さんのことが忘れられないの、都会の絵を描くのもお母さんと過ごした日々に戻りたいって気持ちがあるから。私はもう一度お母さんに 会いたいんだ」  そんな感じね、ありがと、聞いてくれてと深美はお礼を言った。目には微かに涙が浮かんでいた。  僕は「お母さんに会いに行かないのか」と質問する。 「怖いんだ、私を捨てたお母さんを目の前にして私自分がどうなるかわからないから」 「なら僕が付いていくよ、もしもの時は僕が何とかするから」 「青海君……」 「深美には助けられたから、次は僕が君を助けるよ」 「ありがとう」深美は泣き始めた。  翌日、僕と深美は、深美の母親に会いに行くことにした。 7  私のことを青海君に赤裸々に語った次の日、私はいつもの丘で青海君と待ち合わせをした。  私は少し罪悪感を抱いている。私はお母さんのことで青海君にまだ隠している事実があるからだ。  それはこれから話すのだが、青海君は許してくれるだろうか。  許されるかどうか考える暇も無く青海君は現れた。 「おはよう」僕の声を聞いて僕の方を見た深美は目元が腫れていた。 「おはよう、今日はよろしくね」昨晩から何度涙を流し、何度決意を固めたのだろう。腫れている目元の中の瞳には強い意志が感じられる。  僕と深美は母親のもとへ向かった。  深美は以前都会の中で急に立ち止まり一つの場所を見つめたことがあった。  都会の中を歩いていた僕と深美は、深美がその場所の目の前に立ち止まったことで、歩みを止めた。  その場所、住宅街の中の一軒家を指差し「ここがお母さんの居る場所」と深美は言葉を辿るように言う。  その一軒家の表札には確かに、長谷川おくすり更生施設と書かれていた。  僕が表札の意味を考えている途中で、家の中から女性の叫び声が聞こえた。  その声は呂律が回っておらず聞き取り辛いが「どうして薬を隠すの?早く出してよ、私を殺したいの?」と言っているように聞こえた。 「ごめんね、青海君、このこと隠してて。言ったら付いてきてくれなくなる気がしたからさ、言えなかった。許して青海君」深美は俯いて声を震わせていた。 「もしかして深美のお母さんが──」僕が言い終わる前に「そう麻薬常習者なの」と深美が遮った。  深美は「私やっぱりお母さんに会うのが怖い、だけどもうすぐお母さんはもっと大きな病院に行くんだ、そういう通知が私のもとに来たの。だから今会っておかないともう二度と会えないかもしれない、青海君、私どうしたらいいかな」  深美は弱っていた。泣きそうになりながら声を絞り出していた。  僕は少し間を置いてから語った。 「僕は母親がこの世にいない、僕は母さんに会えるなら会いたいと思ってる、母さんがいた頃に戻れるなら戻りたいよ。多分、それは母さんの方も同じ気持ちだ、それは深美のお母さんもだと思うよ、子供に会いたくない親なんていない、深美、怖くてもお母さんに会うべきだ」  僕の顔を黙って見ていた深美は少し考え意を決して話し始めた。 「青海君、お母さんに会って私がおかしくなって、絵を描くのをやめるとか言い出した時には必ず止めてね」  深美は顔を上げて微笑んだ「約束だよ」そしていつもの明るい声色でそう言った。  僕は「約束する、深美に絵描きの夢はやめさせない」と返した。  ありがと、と言った深美は母親のいる家のチャイムを押して、名前を名乗り中に入っていった。  10分後、深美は家の中から出てきた。  ……顔色は良いものでは無かった。  深美は僕のもとまでゆっくりと歩いて来てこう言った。 「青海君、お母さんね、私のことをわからなくなってたよ」そして深美は崩れそうになりながら滂沱した。  僕は深美を抱き締め支えた。 「よく頑張った」僕は今は何を言っても慰めにはならないであろう深美に対して慰めの言葉を吐く。  深美は「お母さん」と何度も声を上げながら涙を流し続けた。  この次の日、更生施設の介護人の意思により、深美の母親は病院へ移ることとなった。  そして、その日、僕達は都会の見える川で絵を描いていた。 8 「昨日はありがとね、青海君」深美は明るく振る舞うが、いつもよりは元気がない。 「もう大丈夫なのか」僕は聞く。母親を見送らなくて良かったのかという質問は出来なかった。 「昨日は弱音を吐いたけど、あれくらいで折れるほど私は柔くないよ、ほらこうして絵も変わらず描けるしね」 「なら良かった」気丈に振る舞う深美にこれ以上心配するような言葉を投げ掛けられず僕はそう言うしかなかった。 「……青海君、本当にありがとね、青海君がいなかったら私はお母さんに会わずに逃げながら人生を送ることになってた。後悔を抱えながら生きて先に進むことが出来なかったと思う」 「青海君がいたから私は──」「お礼を言うのは僕の方だよ」僕は深美の言葉を遮った。 「深美がいたから僕はまた人を信じられるようになった、トラウマを抱えてどん底の状態で未来の見えない僕を救ってくれたのは君だよ、ありがとう、深美のお陰で僕は自分を取り戻せた、いや前よりも前進出来たよ、ありがとう」  深美は涙を浮かべ「青海君、私これからどれだけ経っても青海君のこと忘れない、もしいつか何もわからなくなった日が来たとしても青海君のことだけは忘れない。誓うわ」と言った。 「僕も、そうする、深美のことは死んでも忘れないよ」  僕達はその言葉を形にする為に抱き締め合った。  強く、とても強く。絆を深める為に僕達はいつまでも抱き締め合った。  その後、自分達の問題を解決した僕達は次第に会う回数が減り、大学生として最後に会ったのは就職する直前だった。  僕はスーパーマーケットふかみの会社員になると告げ、深美はイラストスクールのデッサンの講師になると言っていた。  最後に会った日、深美は「ここで出会ってからもう二年になるね、色々あったけど、青海君も回復して私もお母さんのこと吹っ切れて、お互い就職も決まったし、後はもう卒業するだけだね」と言い微笑む。  僕がそうだねと言うと、少し沈黙が生まれ、深美は「あぁ青海君との日々も終わりか、辛いよー」と泣き真似をする。 「きっとまた会えるよ」僕が言う。  深美は思い付いたように「そうだ、最後に告白するけど、私のこのベレー帽はお母さんが私の十歳の誕生日に買ってくれたものなの、それをずっと使ってる、あ、ちゃんと洗ってるからね、で、この帽子をもらったことが私が絵を描くきっかけで、この帽子が私が絵を描く理由なの」とベレー帽の端と端を両手で引っ張りながら言った。  続けて「ごめん、最後の最後に言うことじゃないね」と呟いた。  僕は「深美らしいよ」と笑った。  深美は「もう。馬鹿にしてるね」と怒ったふりをする。  そこから少し沈黙が生まれ、僕は「今までありがとう」と言った。そうしたら深美も同じ言葉を同じタイミングで言った。  二人は一瞬きょとんとしてそれから笑った。  僕達はしばらく笑い続けた。  僕達のこの二年はとても幸せな日々だった。  これで大学時代の深美との話は終わりだ。 三章 離さないで 1  ……そうだ。そういえばそうだった。  僕が倒れた日には重役に頭を下げている女性がいて、僕はその人を綺麗な人だな、と思ったんだ。  そして、その人は重役に謝っていたのだから、当然社内の人間であり、退社していなければここで働いているのは当たり前の話なのだ。  今僕はスーパーマーケットはやみ本社の受付に座っているそのお姉さんに、入社式に呼ばれた柴田青海だということを伝え通してもらおうとしている。相変わらず綺麗だ。童顔でもある。  柴田青海様ですね、承りました。どうぞこちらの部屋から向かって下さい、場所はご存知ですか?とお姉さんはそう聞いたので、知ってますと答えると、でしたら行けますね、こちらから向かって下さいと再度扉の方向に案内するように手を伸ばし、それが済むとパソコンを触り始めた。僕は少しでもいいから、お姉さんに倒れた日のことを触れて欲しいと思っていたが、それは叶いそうも無いので、僕は諦めて入社式会場に向かった。  受付の隣にある扉を抜け長い通路の突き当たりの右の部屋、そこが入社式の会場で、そこに入ると、何人かの役員と新卒の方は全員揃っていて、僕は遅刻をしたのかと一瞬頭に過ったが時計を見ると八時五十分前後なので間に合っている。集合時間は九時だ。新卒の人間が僕を含めて四人いて男三人の女一人だ。  僕は四角く四つに配置された椅子の空いている左後ろに座った。  隣に座っている新卒の男が、僕が座るとこちらを見ながら「俺、三島正吾って言うんだ、よろしくな」と話し掛けてきた。「柴田青海です、よろしく」と僕は頭を軽く下げた。  三島は髪の毛は刈り上げてあるが、眉毛が薄く、目力と自信満々な態度があり、おそらくやんちゃなタイプだっただろうなと感じた。  前方の席には地味な雰囲気の新卒の男と女が座っている。  その後九時を回り、役員が数名増えて、その内の一人、あの"重役"の男が入社式を始めますと言い手を叩いた。  それから二時間は、前で話す人間が何度か変わりながら、スーパーマーケットはやみの歴史、新入社員の心構え、君達にどうなってもらいたいか、主な仕事内容、最後に新卒一人一人の配属先が発表された。  前方の二人は偶然二人共本社勤務で、後方の僕はと三島は本社から最も近いスーパーマーケットはやみの支店に配属された。僕は店長代理のサポート業務、三島は野菜売り場をまとめる社員のサポートを任された。本社勤務ではない僕と三島も大卒なので最終的には人をまとめる方の人間になることが期待されているのだろう。  最後に勤務表が渡され入社式は終わり今日は解散となったが僕は自分の勤務地を見に行くことにした。  本社から出る前に受付の隣を通った時に、今朝の受付のお姉さんに話し掛けられた。 「君どこに配属されたの?」と聞かれた。お姉さんは話しながらも周りに人がいないのを気にしている。仕事中にお喋りは禁止なのだろう。 「えっと、その前にあなたの名前も知らないんですが」と言うと「あぁごめんね、私は鴨川岬よ、あなたは青海君よね、朝言ってたもんね」と返された。 「僕の配属先を知ってどうするんですか?」と僕は聞く。 「実はね、あなた病弱の噂があるのよ、だから私が青海君の様子を見る役目になったの、もし配属先がスーパーマーケットの方なら私様子見がてら買い物に行くよ」 「そうなんですか、それはもしかして島村藍という女性が関係してますか?」僕は言い終わった後歯を食いしばっていた。 「いや女の人の名前は出なかったけど、青海君大分前に本社の前で倒れてるじゃない、だからでしょ。私が青海君の様子を見るのを命じたのはその時あなたを社内まで運んだ、ここの社長補佐なのよ、名前は西城蒼馬さん」岬さんもいきなり知らない名前が出てきたからか少し自信無さげに話していた。重役の男は社長補佐だったのか、道理で雰囲気が他の社員と違うはずだ。 「わかりました、ありがとうございます、なら良かったです」僕はほっとしていた。藍の毒牙はここまで来ていないとわかったからだ。 「青海君、変わってるね、普通見張りを付けられたら馬鹿にされてると感じたり嫌がるはずものなんだけど、まあ私も監視する訳じゃないからいいわよね、とりあえずよろしく青海君」岬さんは握手を求めてきた。  僕もよろしくお願いしますと応え握手に応じた。  その時、入社式会場の方から出てきた西城さんが何してんのと岬さんに尋ね、岬さんが「まだ言ったら駄目でしたか」とばつが悪そうに言うと、岬さんは西城さんにこっち来てと言われ入社式会場の方に連れていかれた。  説教が始まるのだろう。というより見張りが付くことが僕には秘密だということを漠然とでも覚えているのなら岬さんは何故わざわざ僕にその秘密を漏らしたのだ。何がしたいんだ?怒られたいのか?  考えても仕方無いと思い僕は自分の勤務地に向かうことにした。 2  四月二日朝六時、起床したことで僕のスーパーマーケットはやみでの初出勤日が始まった。  今日は仕事というより仕事の紹介込みの研修らしい。  ちなみに研修期間は一ヶ月だ。それまでにシフト表作成等店長代理が行う裏方業務を身に付けないといけない。すぐに店長代理のポジションに付くわけではないが、店長代理が忙しい時に代わりに仕事をするのが僕になるのだ。その為に店長代理の仕事は完璧にこなせないといけない。まずは裏方を覚えることになるだろうと思い意気込んでいた僕は今日その予想を裏切られることになる。  僕は黒い長ズボンに紺色の目立たないシャツを着て、支店に向かった。出勤時間は七時で、六時に起きても自転車を使えば間に合う。  仕事中は目立たないラフな私服の上にエプロンを着て紙製の帽子を被るらしい。  僕は裏口から入り、他の従業員に挨拶をしながら、店長代理を探した。  従業員の一人に聞いたら店長代理はパソコンが置いてある店の裏の事務所にいるよ、と教えてもらえた。  その押し入れ二つ分くらいの大きさの一室の事務所は裏の出入り口から入ってすぐにあった。僕は通り過ぎていたらしい。パソコンは二台あり二つとも従業員が操作している。  僕は中に入ろうと思ったが着替えることを忘れていたことに気付きロッカーに向かった。まずい、あと数分で七時だ。  僕は着替え終わって事務所に入った。何とか七時までに入ることが出来た。 「失礼します、おはようございます、今日からここで働かせて頂く柴田青海です、店長代理の宇美さんいらっしゃいますか」と僕は質問した。 「はい、私が宇美です」とパソコンを操作していた中年の男性がこちらを見て笑顔で応えた。 「今日から店長代理のサポート業務をすることになりました柴田です、よろしくお願いします」僕は頭を下げた。 「柴田君ね、だけど柴田って苗字ここにもう一人いるから青海君でいいかな?、よろしくね青海君、じゃあちょっと付いてきて、職場の案内をするから」僕は席を立って表に向かった宇美さんに付いていった。  まずは仕事はレジ打ちと魚売り場と野菜売り場とデリカという惣菜売り場があり、ここらへんは惣菜、ここらへんは魚等生物、と店の紹介を受けて、まずは店のことから覚えてねと言われてからレジ打ちやってみる?、レジ打ちが一番色んな売り物のことを覚えられるから出来たら最初にやって欲しいんだけどと聞かれ、僕はやらせて下さいと答えた。  宇美さんはサービスカウンターでラッピングの整理をしていた女性従業員に一声掛けて、よろしくねと言い裏へと戻っていった。  残された僕に、ラッピングを一時的に片付けた従業員は「キャッシャーの、簡単に言うとレジね、チーフをやっている今井です、今から青海君にレジ打ちについて教えるから、ちょっと待ってて」と言い、レジを起動させて僕をその前に立たせた。  ここのボタンでスイッチが付くから次に従業員番号とパスワードを入力して、この画面になったらレジ打ちが出来るよ、従業員番号はその内発行されるから今日は私の番号を使ってね、この商品一覧って書かれた画面のボタンから登録する商品もあるけど、商品の登録は基本バーコードリーダーを使います、バーコードリーダーの使い方はわかる?、このボタンを押すと赤い光が出るからそれをバーコードに当てるだけよ、あとはこの緑色が生産前のかごで、こっちの赤色が精算後のかご、使い終わった緑色のかごはすぐにレジ前、君の右にあるかごの束に置いていって、それで登録した商品は精算後のかごに入れてね、あ、重たい商品は先に入れて軽い商品は上に置くようにしてね、あとお金を受け取り方は~という風だからね、こん なもんかな、大体わかった?、またわからないことがあったらいつでも聞いて、そばにいるから、じゃあ今からやってみようか。  一度に全部説明されてメモ帳を三ページ消費してしまった、メイン業務以外でこれだけ覚える量があるのだから先が思いやられる、しかしレジ打ちのやり方は客目線で何度も見てきたので何となくはわかる、それにそばに今井さんがいるとのことなので、躊躇い無くレジ打ちに挑戦する心構えが出来た。  これが就業未経験の僕の、人生での初仕事になる。  今は客が少ないので少し気が楽だと思っていたが、そもそもまだ開店前であった。   ということは今からの八時の開店を過ぎた途端に客のラッシュがやってくるのではないかと僕は思った。  僕の予想とは違い実際はそんなことは無く、九時になるまでは店内は静かだった。しかし九時を過ぎてから段々と客の入りは増え始め、十時前から十二時まで客のラッシュは続いた。レジ打ちの人数は六人いたがそれでも精算に来る客は多くレジ打ちは追い付いていなかった。僕は十時までは一人でレジ打ちをしていたが、それから十三時頃の客の量が落ち着く時間帯まで今井さんがメインでレジを打ち僕はお金を受け取りお釣りを渡すだけのサポートをやっていた。  それでも疲れた。結局初日は退勤時間の四時までレジ打ちをやらされ、その後僕は宇美さんに裏に呼ばれ、レジ打ち大変だったでしょ、お疲れ、また明日もよろしくねと帰ることを許された。帰り際に明日僕専用のタイムカードが発行されるので、その説明があるから今日より早く来てと言われた。  家に帰ると道夫はまだ帰ってきておらず、僕は僕と道夫の分の夕飯を作ることにした。  正直今立っているのもきつい。レジ打ちで約八時間立っていたからだ。今日は仕事と家事の両立は大変だと実感した日で道夫の苦労が少しわかった一日となった。 3  柴田道夫。僕の兄は建設関係の仕事をして家では家事をして更に僕が正しく生きられるように道筋を作ってくれた人だ。  僕は自分の兄、道夫を尊敬する。  僕はスーパーマーケットはやみの支店で働き始め一ヶ月が経った。その間にはほぼレジ打ちを任され、時々野菜売り場と魚売り場と惣菜売り場の仕事を任された。この一ヶ月、それ以外の仕事はさせてもらえておらず、店長代理の事務仕事は全く触れていない。  つまり一ヶ月の研修期間で店長代理のサポーターとして一人前になるというのは僕のただの願望で、一時の夢だったのだ。職務を全うするというのは遥か遠い先にある気がする。  それを同僚の三島に相談したら「お前のその悩みは下積みというものだろう、期待されてるから何でも任せてもらえるんだろ?、羨ましいぜ、俺の方は野菜と向き合うだけで、しかも売り場のチーフがいい加減な人で俺にどんどん自分の仕事を投げてくるぞ」 「僕にはお前の方がチーフの座に近い気がするよ」僕はファミリーレストランの机に頭を垂れる。  三島は肩を竦め「まあ頑張ろうや」と言って、その食事会は解散となった。  仕事が終わり、俺、柴田道夫は家に帰り、俺より先に帰宅し夕食を作っていた弟と話した。 「おかえり、兄貴」青海が包丁でトマトを切りながら俺に背中を向けて言った。 「あぁただいま」 「今日はミネストローネだから」夕食のことだろう。 「おう」と俺は言い、それから「今更だがお前もう大丈夫そうだな、そろそろもう一度彼女作ってもいいんだぞ、そして俺に紹介してみろよ」俺はにやにや笑いながらからかい混じりにそう言った。 「そうだね、まあ相手が見つかればね」青海は背中を向けたままそう言った。青海はおそらく怒りを噛み殺しているだろう。  何故なら俺は青海が入院してから今まで青海が女と関わる度に叱ってきたからだ。お前また繰り返す気か、と。そして恋人を絶対に作るなと釘を刺してきた。  青海はもしかすると俺に愛想を尽かしているかもしれない。今は端から見ると悪い関係に見えないが、これは惰性で今までの関係が続いてるだけなのかもしれない。  俺は青海の為に言ってきたんだけどな。  そう思いつつ、俺は青海に風呂入るわと言いその場から離れた。  その日はそれ以上青海と話すことは無かった。 4  その日、私の妹の岬は帰宅し私が玄関でおかえりと言う間もなく泣き始めた。  理由はまた仕事でミスを繰り返し、教育係の先輩に説教をされ、もう仕事辞めたら、とまで言われたそうだ。  最近はそういう時新入社員の、確か岬と仲の良いおうみ君という子が慰めてくれるらしいが、今日は会えなかったらしい。  私は岬の子供のように泣く姿に慣れているが、おうみ君という子は自分より歳上の女性のそんな姿を見て受け入れることが出来ているのが凄い。まさか付き合っていたりしないだろうか。いや岬に限って恋人など作れないだろう。ならそのおうみ君は下心を持って岬に近付いているのだろうか。それなら心配だ、岬はこれまで恋人を作ったことが二度あるが両方ともからかわれているか、体目的で近寄られただけのものだった。岬は一般的な人より幼い。  顔は美人だった母親譲りで私よりも優れた容姿をしているが、幼くて人として馬鹿なのだ。  岬は大丈夫だろうか。ただでさえ未だに仕事を覚えるのに苦労しているのに、そこで悲しみのやり場であるおうみ君に騙されているなんて知ったら、その悲しみは計り知れないだろう。  私はおうみ君という子に会わせてと岬に頼もうと思った。  しかしそれは頼むまでも無く、奇しくも次の日に岬とおうみ君は交際を始め、岬はおうみ君を家まで連れてきたのだ。  おうみという名前は青い海と書いて青海と読むらしい。綺麗な名前ではある。  私は家に来た青海君をじっくりと観察することにした。  岬を悲しませない為に。 5  夕方から夜に変わる頃に青海君は岬に連れられ私達の家に来た。 「初めまして、岬さんとお付き合いをさせてもらうことになった柴田青海と申します、これからよろしくお願いします」と言って青海君は頭を下げてきた。挨拶は出来るな、それに清潔感もあって礼儀正しい、立ち振舞いもきちんとしていて、そして顔も悪くない。少し髪は長めだが黒髪で真面目そうで悪い子にも見えない。好青年である。  だからこそ心配だ。裏があるように感じられる。こんな普通の子がどうして岬を選ぶのだ。  私はもう少し見てみる必要性があると思った。  私は青海君に夕食を提供した。  ご飯の食べ方もきちんとしていた。  まったく……青海君は普通を演じているのかと思えるほど悪い特徴が見当たらない。  どうしてこんな子が岬を──。  それは結局、その日青海君が帰るまでわからなかった。  なので私は青海君の帰宅後、岬の部屋に行き、青海君について直接聞くことにした。青海君はどんな子なの、と。 「良い子だよ」岬は笑顔でそれだけ言って黙った。続く言葉は無さそうだ。 「他に特徴は?」私は詳しく語る意志の無い岬から情報を探り出そうとする。 「そうだね、過去に辛い思いしているらしくて、それで大人びているね」 「辛い思い?」私が聞き返す。 「青海君は両親を早くから亡くしているのと、あと恋人に山から落とされたと言ってたよ」  私はそうなの、と言いつつ、頭では山から落とされた?何だそれはと思っていた。そして「うん、何となく青海君のことわかったわ、ありがとね、岬」とこの会話を終わらせた。  青海君の異常なまでの普通な態度は、少し若者らしくない、というより人として少し違和感があるのだ、あの普通さはむしろ普通ではない。おそらく両親の死か、山から落とされたという事実のどちらかが今の青海君を作ったのだろう、はっきりとはわからないが。  だが、何にせよ青海君は裏がある人間ではないことはわかった。悲しみを抱えて必死に生きている方で、岬を弄ぶようなこともしないだろう。  私はそこさえわかれば安心なので、岬におやすみと言い、岬の部屋から自分の寝室に向かった。 6  僕が岬さんの家に行く前の出来事、僕と岬さんが恋人になるまでの経緯を語る。  スーパーマーケットはやみの支店で働き始めてから一ヶ月が経った時、僕は本社に呼ばれ、西城さんと面談を行うことになった。 「調子はどう、青海君、仕事には慣れた?」と切り出され、僕は「いや今はまだ店長代理の一部の仕事しか任せてもらえてないので、仕事には慣れたとは言えません。しかし職場の輪の中には入っていけていけていると思っています」と答えた。面接ではなく面談なので堅苦しく話す必要は無いのだろうが、相手が相手なので僕はお堅い言葉遣いをした。 「そうか、店長代理候補の最初の仕事はレジ打ちからと決まっているからね、焦るとは思うけど地道に頑張って」西城さんはそう言って「あと元気そうで良かったよ、どうしても僕から見て君は病弱なイメージがあるから。仕事の評価も悪くないし本当に良かったよ。僕からの言葉は以上だけど、何か悩みとか不安なことや不満はある?あるなら今言って欲しい、君の意見が全部通るわけではないけど、もしあるなら店長代理に出来る限りのフォローはしてもらうから」と続けた。  僕は早く店長代理の業務をやらせてくれと言いたかったが「特にありません」と答え、面談は終わった。  僕が帰る時に、ちょうど退勤するところだった受付嬢の鴨川岬さんと会った。  僕に気付いた岬さんに「や、久しぶり」と明るく挨拶をされ、僕は「お疲れ様です」と頭を下げた。  僕と岬さんは途中まで帰り道が一緒だったので、並んで歩きながら帰宅した。  岬さんと話すのは楽しかった。少し間の抜けたことばかり言うので、こちらとしても上司相手という堅苦しい気持ちにならずに話すことが出来たからだ。  そして別れ際に連絡先の交換を頼まれ、僕は快くその申し出を受け入れた。  それから僕達は頻繁に会うことになった。  その後、六月二十日。岬さんと連絡先を交換してから十回以上は会っただろうと思われるタイミングで、僕は岬さんに呼ばれスーパーマーケットはやみの本社近くのwesternという名のカフェに行った。電話越しに大事な話があると言われた。  しかし結局カフェでは岬さんは終始もじもじした様子で、世間話しかしなかった。  僕は大事な話って何だったのだろうと思いながらもその日は岬さんと別れることになった。  そして、帰ろうとした僕がふと岬さんの方を見ると、こちらに手を振る岬さんが赤信号の横断歩道を渡ろうとして車に轢かれそうになっていた。  僕は咄嗟に岬さんのもとまで走り、岬さんを抱き寄せて横断歩道から離した。間一髪岬さんを避けた車はそのまま走り去っていった。  僕に抱かれて呆然としている岬さんは、何かを呟いた。僕にはそれが聞こえず、それよりも怒らないといけないと思い「何やってるんですか」と声を荒らげた。  僕の怒りを跳ね返すように少しずれている岬さんは「私青海君が好き」と周りの人混みを気にせず町中で叫んだ。  僕は唖然とした。  そして突然の告白に恥ずかしくなった僕は岬さんを引っ張りながら誰もいない静かなところまで走り、今の言葉の意味を聞いた。  岬さんは愛の告白だよと言った。  大事な話はこれだったのか。  僕は少し悩んだ。年齢差を気にしたが、思えばそれほど離れていない。あまり歳は変わらない。  しかし岬さんと話すのは楽しいという自分の思いに従い、その告白を受け入れることにした。  岬さんは心底喜んでいる様子でこれから家に来てよと言った。僕は呆れながらも、もうどこまでも付いていきますと思い岬さんの家に行くことにした。  その日が僕の人生で二度目であり、最後になるであろう恋人が出来た日だった。 7  七月になり夏が本格的に始まった頃、今日は仕事が休みの俺は昼間に家の庭で煙草を吸って考え事をしていた。青海についてだ。  最近、あいつはこれまでにないくらい溌剌としている。  何があったのかわからないが、良いことだ。  俺は今日働きに出ている青海が帰ったら、何か良いことでもあったのかと聞いてみるつもりだ。  僕が仕事を終え帰宅すると、薄暗い中道生が家の外で僕を待っていて、よおと言い手を上げてきた。 「ただいま、兄貴」 「おかえり、今日は仕事どうだった?上手くやれたか?」 「いつも通りだよ、ずっとレジ打ちで、もう一ヶ月以上それだけだからさすがに慣れたよ」 「そうか、頑張れよ」まずい、会話が終わりそうだ、と俺は思い、すぐに別の話題を出した。しかしその話題は失敗だった。 「青海、ところで彼女は作ったか?」と俺は聞いた。これは俺から聞いていいことではなかったのだ。少なくとも青海にとっては。  青海の顔付きは一瞬だけ険しくなり「彼女を作るなと言ったのは兄貴だろ、何言ってんだよ」言い終わってからは笑ったが腹を立てているだろう。 「そうだった、ごめんな。もうあれは取り消す、だから作ってもいいぞ、それかもし今いるなら教えてくれ、怒らないから」結果俺はそんな上から目線の言葉を使ってしまい、青海の目は怒りを帯びたと思えばすぐに冷めて「兄貴は僕のことを何でも決める義務は無いだろ、おせっかいはやめてくれ、僕のことは僕が決めるから、兄貴の保護者の役目は終わりでいいよ、もう干渉しないでくれ」と言った。  俺は青海の生意気な言葉に怒るべきかどうか迷ったが、これ以上関係を悪化させるのはいけないと反射的に思い「ごめんな、青海は好きに生きろ」と折れることにした。  普段の俺だったら怒っていたが、今回は俺が青海に生意気を言わせた。俺は怒ってはいけないんだ。  それでも湧いてくる怒りを表に出さない為に俺は「タバコ買ってくる」と言って家を離れた。  お互いがお互いに対して言い過ぎたという思いがあったのだろう、それからしばらくの日々、俺と青海と話すことは無かった。 8  今日、私は仕事が休みだ。  なので、青海君を海にでも誘おうと思ったが、生憎青海君は仕事だった。  姉も父親も仕事に行っていて、家で私は暇を持て余し、テレビを見ていた。  買い物でも行こうか。面倒臭い。  本でも読むか。それは苦手だ。  寝るか。いやそんな自堕落な行動は後ろめたくなるので嫌だ。  そんな私は起きていることを選択し、ソファに寝そべってテレビを眺めることを続けた。岬にはこれが自堕落と変わらないという発想には至らなかった。  青海君と会いたいなぁ、と思いながらそれほど面白くないバラエティを観続けた。  そのまま昼食時になり、岬は何か食べないとと思い、台所に向かったが何もない。料理しないと食べるものがない。いつも買い置きしてある私の好きなカップ麺達は一つ残らず旅立ってしまっていた。  私は少し悩み、頑張るか、と決めて、それに青海君に会えるじゃんと思い、青海君の働くスーパーマーケットはやみの支店に向かった。  カップ麺を十数個かごに入れて私は青海君のレジに並んだ。料理をしようという気はさらさら無かった。昼の三時で客は少ないので一人の客の会計が終わると私の番となった。  カップ麺のみのかごの中を見て少しだけ唖然としている青海君はいらっしゃいませ、と言ってから客が私だと気付き、お疲れ様ですと笑顔で言った。  お疲れ様と私は返す。 「非常食の買いだめですか?」と青海君は素早く商品をレジに通しながら聞いてきた。  確かにこの量を見ればそういう捉え方をするだろう、しかしこれは私の、家に誰もいない時のご飯であり、一ヶ月も経たずに消費される。  当然そんなことを言えば女性としての品格を問われるとはわかっているので、私は「そう非常食」と嘘を吐いた。  青海君は家庭的なんですねと笑顔で言った。そして私は家庭的な女性としてすぐに消費されるカップ麺の清算を終え、青海君のもとから離れることとなった。  私は俯き加減でカップ麺達をレジ袋に入れ、その後帰宅した。  やってしまった、青海君に虚勢を張ってしまった。しかもそれはすぐに明かされてしまうような嘘だ。  どうしよう、本当のことを知れば青海君は私を軽蔑するかもしれない。  私は家で一人、泣きそうになりながらカップ麺の熱い麺を冷ます為、息を吹き掛けた。 9  スーパーマーケットはやみの支店で働き始め三ヶ月が経ち、僕はようやくレジ打ち以外の仕事を任せてもらえることになった。  レジ打ちの次は惣菜売り場の手伝いをすることになった。  初日にはさすがに調理は任せてもらえず、この揚げ物はここ、この弁当はここ等、出来上がったものを置いていく係りとこの店の人気商品のメンチカツが出来上がり商品棚に置く前に小さい鐘を鳴らす役目を任された。  この鐘を鳴らすことで揚げたてのメンチカツが買えるという合図になり客は寄ってくる。  僕は惣菜売り場での業務初日はここはレジ打ちほど張り合いが無いなと思った。つまらないとすら思った。  その思いが態度に出ていたのだろう。昼の三時頃、惣菜売り場のチーフに、君つまらなさそうに仕事するねーと嫌みを言われてしまった。  それから僕は、暇になると他の従業員と楽しそうに話す惣菜売り場のチーフの、金光さんという中年の女性従業員から仕事と関係無いことでは一切話し掛けられることが無かった。  どうやら気に入らないと思われてしまったらしい。  その日仕事が終わり僕は少し落ち込みながらすぐに帰宅した。  この仕事に就いてから初めて落ち込む結果になった。  しかも惣菜売り場での業務はしばらく続く。大丈夫だろうか。  どうにか金光さんに好かれないと、苦しく仕事をすることになる。  僕は挽回するにはどうするか、と考えた。  翌日、僕はいつも以上に笑顔を作り、動きを全く止めず、とにかくやらなくても良い細かい仕事まで積極的に行った。  それを一日中続け、かなり疲れたが、帰り際金光さんに挨拶をすると、きょとんとした顔で、あらもう帰るのと言う言葉が返ってきた。  僕はその言葉がどれほどの意味を持つかは計れないが、だが、確実に悪い意味で言われたわけでは無いとはわかった。僕は満足感に浸りながらその日は帰ることが出来た。  それからしばらくそういう働きぶりを続けた僕は一ヶ月後過労で倒れた。 10  僕は惣菜売り場で仕事をしていたらばったり記憶が途絶え、気付いたら家の自室で寝ていた。  目の前には道生と岬さんがいたが、僕が気が付くと道生は部屋から出ていった。 「岬さん」と僕が呟いたのは、目覚める前に見ていた夢がとても悲しいものだったからだ。それは黒い世界の中で岬さんが僕の目の前で闇に溶け込むものだった。 「大丈夫?青海君?」 「すみません大丈夫です、何でもありません」僕はその夢を見たことが後ろめたくなり、岬さんの目を見ずにそう答えた。 「青海君、一ついい?」岬さんはいつもとは違い真剣な顔を見せた。 「何ですか」 「隠さずに言うけど、私って駄目な人間で、仕事も駄目で家でも何もやらない人間よ、ごめんなさい、前カップ麺を非常食って言ったのも嘘、あれはだらしない私のご飯なの、だからね青海君、無理しないで、倒れるくらいなら手を抜いてもいいよ。お兄さんから聞いたよ、青海君は仕事でも全力で家のこともやるって、お兄さんは最近働く青海君をこっそり見てたんだって、とても頑張っていたって、そう言ってた、青海君お願いだから私にこんな想いをさせないで、私青海君を失いたくない」岬さんは最後には泣き始めた。  そんな岬さんに僕は「岬さん、あの壁のポスターの英語どういう意味かわかります?」 「え、あのネ……パースパスってやつ?、ごめんわからないよ」 「あれはフランス語で離さないでって言う意味なんです、僕岬さんがそう言ってくれるならどこにも行きませんよ、いつまでもあなたのこと離しません」 「ネパースパスって言えばいいの?」 「岬さん、ふざけないでください」僕は笑う。 「いやいや、真面目だよ、わかった、青海君、これからずっと、わたしを離さないで」 end
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