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第一章 叶わない夢
1
「あんた、まさか柊信夫?、あーその顔やっぱりそうだ、私は私だよ、杉原加美よ、久しぶりね」股を開いて僕を受け入れている裸の彼女ははしゃいでいた。
僕は彼女のことを覚えていた。しかし気付いていないふりをしていた。
「あぁ、お前、高卒の政治家になるって言って大学を中退した女だ」僕、柊信夫は以前の彼女を頭に浮かべ胸が痛くなった。いつでも誰にもなれないものを探していた彼女は無謀な夢を追い掛けた。そして今目の前で変わり果てた姿で風俗嬢をやっている。
あんなに輝いていた僕の憧れの女子は、今こんな仕事をしていた。
僕はこの部屋で彼女を見た瞬間に立てた計画通り、出すものを出さず、途中の状態で彼女の体から離れ、さっとシャワーを浴び服を着て、帰るよと呟いて机の上に二万円を起き、部屋から出た。
彼女は焦りながら何かを言っていたが僕は無視して部屋から出た、そしてそのまま店から出ようとした。
店を出ようとしたその時、「お客さん値段が足らないよ!」とボーイが僕のもとに走ってきた。
加美もその様子を遠くから見ている。
僕はすみませんと素直に謝り恥ずかしくて泣きそうな心を隠しながらボーイに言われた値段を払った。
そんなこんなで、僕は元同級生の杉原加美と最悪の再会をした。
翌日、昼食時、学食を食べている僕は、突然現れた大学の同級生であり、友人の土屋浩に「童貞卒業はどうだったよ?しのぶ」と聞かれた。
「風俗嬢が加美だったよ、最悪だった」と僕は答えた。
「え、本当か」と浩は驚きを隠せずに「あいつ変わってたか?」と好奇心を見せてくる。
「あぁ変わってたよ」と答えた僕は昨日の晩の出来事を浩に語りつつ、学生の時の加美を思い浮かべた。
大学生だった頃の加美は破天荒だった。そして普段の行動も破天荒なら、目標すら破天荒そのものだった。誰もやらないことをやる、それが学生時代の加美の目標だった。
変わり者は人に好かれるのだという持論を持っていた僕は、人とは違うタイプの人間でありその独特な個性が好かれながらも少し浮いてもいた加美に対して、恋人になってあげてもいいという思いが僅かにあり、上から目線の恋をしていた。
僕は加美の人とは違う感性のもと作り上げられた考えを聞くのが好きで、おそらく僕が加美が大学を去るまでに一番話した男子生徒だろう。
ある時、加美は「信夫の友達にバンド組んでいる人いるよね、あの人は女子と話してばかりで昔の音楽すら知らないようだけど、本気でプロになる気あるの?」と僕に聞いてきた。
僕は誰も彼も加美みたいに特別な存在を目指してはいないと思いつつ、また彼が女に好かれる為にバンドを組んでいることを知っていたが、それらを口には出さず「あいつは今が楽しければいいという感じなんじゃないの?、プロにはならないと思うよ」と彼をフォローするような返答をした。
「そっか、彼にはちょっと期待してたんだけど骨が無いわね」
特別な人を求める加美はそう言い、お互いが口を開き辛い空気が漂い僕達の会話は終わりを迎えた。
そして今、目の前では浩が爆笑をしている。
僕の金が足りなかったエピソードが相当面白いらしい。
「あー面白い、で、お前は加美がそのままでいいのか?加美のこと好きだったんだろ?」
浩はこうやって突然相手の核心を突く。僕は浩のその部分は嫌いではない。
「僕なりにだけど……まあ加美のことは忘れるつもりだよ」と僕は誤魔化す。これは嘘だ、本当は今の加美を変えてしまいたい。
「俺はお前に何も言わないよ、言うまでもないだろうしな」そう言って浩はどこかへ歩いていった。
浩は僕のことをよくわかっている。
僕はいつも自発的に、勝手に動く奴なのだ。
その夜、僕は再び加美の働くダイヤモンドオアシスという名の風俗店へ向かった。
2
「信夫、お金大丈夫なの?」昨日のことか、はたまた風俗通いをすることへの心配なのか、ヤリ部屋の中で加美はそう言った。
「そんなことより加美」僕は切り出す。
「風俗嬢なんてやめて大学に戻れよ」と僕は続けた。
3
翌日。
「私は今の私が好きなの、後悔なんてしてない、って喚かれて引っ叩かれたのか」浩は口角を上げながらも同情した目線を送ってくる。
「あんたに私の何がわかるの、とまで言われたよ」
「まあお前は加美と仲良しではないからな、加美にとっては赤の他人に今の自分を否定された気分だろうな」
大学内で僕は昨晩加美を大学へ戻るよう説得して失敗したことを浩に話していた。
「もし加美が後悔してるんだったら僕はもっと強引になったけどな、そうではなさそうだった、全く後悔をしてなかった、あいつの信念は凄い」と僕。
「だけどお前は慈善活動で加美を説得したわけではないだろ、これはあくまで色恋沙汰で、お前は加美に戻ってきてほしいと思ってるんだろ、だから言い負かされるくらいなら諦めろよ」浩は真剣に言う。僕の為に真剣にアドバイスをくれている。
そのアドバイスは加美を勝ち取れ、と言うものだろう。しかしもう僕は加美に会いに行くつもりは無かった。
負けることにした。
そんな決意をした僕だが、大学からの帰り道に僕は未練たらしくダイヤモンドオアシスの周辺を彷徨いていた。
中に入るか迷っていた。
しばらくうろうろしていると、急に「あんた」という声が聞こえ、僕は声の方を向いた。
声の主は加美だった。
「何、また来たの」と加美は笑う。
「何をしに来たかはわかってるよ。だけど言っとくけど、私はもうこの仕事をやっていこうと決めたの、茶々入れないで、じゃあね、もう来ないで」加美はそう言って店に入っていった。
僕は加美を追い掛けることは出来なかった。
だが、何かが届いた気がした。私を止めて、そんな声が加美の言葉には隠れている気がした。加美は現状を後悔している、僕はそう感じた。
誰かの後悔という、僕が動く為の最大の理由を示されたというわけだ。
4
翌日、僕は講義を受けていた。今授業を行っている講師の神山は嫌味が無く教えるのも上手く、とても良い講師だ。あの時の村松という講師とは大違いである。だからこそ僕は胸が痛んだ。
僕は神山に向けて分厚い教科書を投げ付けた。過去に戻る為に。
その瞬間、視界は白い光で満ちた。
視界から白い光が消えていき教室内が映り始めた時、目の前には村松がいて講義を受けていた人間は全員こちらを見ていた。冗談混じりの拍手をしている生徒すらいる。
村松という講師は男子生徒に暴力を振るい女子生徒には手を出す質の悪い教師だった。この時の僕は村松の不真面目な授業態度に我慢が出来なくなり教科書を投げ付けたのだった。
村松は真顔のまま僕を殴り付けた。その時、僕は黒板の下辺りに僕が投げた教科書が落ちているのを確認し、そして、周りを見て、僕から見て同じ列の右端の席に加美が座っているのを確認した。
それらの状況を見て僕は、タイムスリップが成功したことを把握した。
このタイムスリップは僕の特殊能力であり、僕は過去に起こした過ちを再び行えば、記憶のみそのままで過ちを犯した時間までタイムスリップをすることが出来る。しかし僕は過去に行くことしか出来ず未来へは行けない。
今回僕が過去に戻ったのは、加美の大学中退を阻止する為だ。
今日は加美が大学中退の申請を出す七日前だ。
あと七日。僕はその間に加美を説得しなければいけない。
講義が終わり、僕は村松に呼び出しを受けていたが無視して加美に話し掛けに行った。
「加美、お前政治家になるのか?」単刀直入に聞いた。
「そうよ、しかも高卒のね」
「高卒の?」僕はとぼける。
「私、大学を辞めて政治家になるの、ね、高卒の政治家になるのよ、そうすれば滅多にいない特別な人間になれるのよ」
「無理だろう、無謀な夢だ」僕は訴えるように言った。
「私を信じてよ、私なら何でも叶えられるわ、じゃあね」同意しない人間に話すことは無い、と言うように加美はどこかへ行ってしまった。
一日目はこのやり取り以降話すことは無く終わった。
そして次の日。
「具体的にどうやって政治家になるんだ?」僕は理解を示したことをアピールしつつ加美に質問した。
「私の個性があれば票は集まるでしょ、私は今まで誰も思い付かなかったことを提案するつもりよ」
加美はそう語ったが、僕は知っている。
政治家活動を始めたばかりの加美は世間に政界のダークホースになり得るかと持ち上げられたが、加美は次第に自分が物珍しさから目立っていただけだという事実に気付き、やる気を無くす、そして演説の時に、町を生まれ変わらせるという漠然としたことしか言えずに聴衆に呆れられ、加美の政治家生命は絶たれる。僕はその後の加美の人生を知らなかったが、末路は風俗嬢だった。
僕は説得する方法を思い付かず今日も進展無しのまま一日を終えた。
そして翌日の三日目。
「加美、どうして政治家になりたいんだ?」僕が聞く。
「……理由は無いわよ、高卒の政治家。その立ち位置が欲しいだけ」
「そっか、ならもっと良い立ち位置があるよ」と僕。
「何々?どんなの?」加美は興味を示した。
「僕の恋人とか。ほらやっぱり女にとって特定の男を捕まえているかどうかは重要だぞ」と僕は必死に捲し立てた。とても恥ずかしかった。
「ふぅん、そう、もう話し掛けないで、私恋愛って言葉が一番嫌いなの」加美はわざとらしく足音をたてながら僕のもとから離れていった。
この後も僕と加美は話すこと無く三日目は終わった。
そのまま二人の間に壁が生まれたまま二日が過ぎた。
そして六日目、加美は僕の知っている予定より早く退学届けを出した。
僕は愕然としたが、届けを出してから退学が完了するまでに少しだけ時間があると知り、安堵した。
まだ加美を止められる時間はある。
僕は最終手段を使うことにした。
5
加美には弟がいる。
その弟はとても夢見がちで加美のことをヒーローのように捉えている。
また加美の方も弟の期待に応えないといけないという思いが強い。
以前、加美はそれを語っていた。
僕は加美の説得に加美の弟を使うことにした。
加美の弟は中学二年生だが、そうとは見えないくらい落ち着きがなく幼い。小学生のようだ。まあ中学二年生までは誰しも幼いことを許される。だが中学三年生になればもう許されなくなる。中学三年生の一年間は人生の分岐点であるからだ、周りの大人達からの見られ方も変わっていく。そしてその後高校生活を送り自分というものを知り、具体的に自分の道を決めていくのだ。
僕の初めてのタイムスリップも高校一年生の時に、中学三年生の頃に戻るというもので、それで通う高校まで変わることになるのだが、現在それは関係の無い話だ。
僕は下校中の加美の弟の多一に接触した。僕は多一と話したことはない。
なので僕は自身を変質者と変わらなく感じるが、どうせ未来へ戻るのだ、多少無茶をしてもいいだろう。
「あの、君、杉原加美の弟君だよね?、初めまして、僕は柊信夫と言います」笑顔で言った。
「初めまして、杉原多一です」多一は動揺している。僕に対してどう接すればいいかわからないのだろう。
僕は多一が話せやすいように加美という共通の話題、それでいて今回の要件を切り出すことにした。
「えっと、最近君のお姉ちゃん、元気が無いんだけど何か知らないかな?」と僕は質問する。
「柊さんはお姉ちゃんの何なの?」多一は食い付いてきたが、若干怒り口調だ。シスターコンプレックスで独占欲が強いのだろう。
僕は微笑み「友達だよ、だから加美が心配なんだ」と少し寂しげに言ってみた。勿論演技としてこう振る舞ったのだが、振る舞った後に僕はこれは僕の本心だと気付いた。
「僕はお姉ちゃんが元気無いように見えないけど」と多一が言う。
「そっか、じゃあ何か悩み事とかあったりしない」と僕が尋ねる。
「うん、お姉ちゃん僕の為に政治家になるって言ってくれてるんだけど、なんか無理してるように見える」
僕はこの流れはチャンスだ、と思った。
「僕の為に?ってどういうこと」と多一に聞いてみた。
「僕がお姉ちゃんに政治家になってってお願いしたんだ」
なるほどと僕は思う。
「多一君、お姉ちゃんのこと好き?」
「好きだよ」多一は即答する。
「じゃあさ、お姉ちゃんは本当は何がやりたいのかな、考えたことある?」
ここまでは良い流れだった。ここで多一が加美を縛り付けることをやめさせれば加美の退学は防げただろう。
しかし邪魔が入った。
「あれ信夫君、なんで多一と話してるの」それは大学からの帰りの加美だった。
僕は多一と話している内に加美の家のそばまで来ていたらしい。
加美は僕の目を睨むように眺めてから「信夫君、あんた、最近私にえらく関わってきてたけど、多一にまで話し掛けて何が目的なの」僕は加美に猜疑心を持たれた。
僕は今誤魔化せばその場しのぎになり加美を救うことは出来なくなるだろうと感じた。そして勝負を仕掛けることにした。
「加美、お前多一君の為に政治家を目指しているんだな」
「……だったら何よ」加美は眉をひそめる。
急に緊迫した空気に多一は大人しくなった。
「もし加美が政治家になれずに、道を踏み外したら多一君は罪悪感を抱くことになるだろうな」
「あんたさあ、何が言いたいのよ、人の決めたことに文句を言うのが好きなの?」加美の逆鱗に触れたらしい。
「違うよ、僕が好きなのは、加美だよ。僕はずっとお前のことを考えて動いていた」
僕の告白は加美の心に響いたのだと思う。
告白から三秒ほど僕と加美の時間は止まっていた。
それから加美は僕にそっぽを向いて、多一に帰るよ、と言って帰っていった。
しかし僕から加美の姿が見えるか見えないかのところになった時に、加美からメールが届いた。
内容は「私も信夫が好きよ」というものだった。
驚いた僕の顔を確認した加美は駆け足になりどこかへ行った。
そして翌日が訪れた。
僕は午後の今、大学内で講義を受けている。隣には退学届けを取り消した加美が座っている。
僕と加美は今日の午前中に交際することとなった。
加美は自分に距離を置かず自ら関わってくれていた僕に惹かれていっていたとのことだ。
加美は今までは多一の為に生きてきたけど、これからは信夫君の意見も聞くよ、と言っていた。
加美は大学に残ることにしたのだ。
こうして好きな人を救って僕の心は満たされた。
僕のタイムスリップは一方通行だ、もう加美が風俗嬢をしている世界に戻ることはない、これからはこの世界で加美と一緒に生きていく。
第二章 理想の相手
1
どしゃ降りの空の下、林の中を林田健は駆けていた。
時折足に絡まる草も腕を引っ掻く小枝も林田は気にしなかった。
林田は数分前に過ちを犯していた。
恋人だった女性を殺したのだ。
林田の頭の中には何度も恋人だった桜田絵美子の笑顔が浮かんでくる。林田は胸を切り裂くような後悔の念を抱え泣きながら走り続けた。
行き先を決めずに林の中をぐるぐると濡れながら走り続けた。
2
僕はその日外で散歩をしていた。
一人ではない。隣には加美がいる。
つまりデートをしている。
散歩道は僕の住んでいるアパート周辺の公園や街道等で、特に目的地は決めず、話すことを目的に歩き続けた。
決めたルートを一周し僕のアパートに戻ってきた時に、加美は「部屋に入ってもいい?」と聞いてきた。
僕が少し考え、いいよと言おうとした途端、同じアパートに住むおばさんがちょっとと声を掛けてきた。確かこの人の名前は園田だ。下の名前はわからない。
僕はおはようございますと言うと、園田さんはおはよう、デート?いいわねえと両手に手を添えて顔を赤くする。
どうやらからかいに来たらしい。僕はまたかと思った。
園田さんは人のやることにちょっかいを出すのが好きなのだ。
僕が呆れていると、園田さんは思い出したように「そうだ、近所の林で殺人事件があったの知ってる?若い女の子が殺されたのよ、ほら染谷川の隣の林よ、すぐ近くでしょ、怖いわよね」と言った。
僕はその話題には興味が湧き「犯人は捕まったんですか?」と質問した。
園田さんは「いや、それがまだなのよ、本当に怖いわよね」と不安そうに言って「ごめんねデート中にこんな話して、じゃあ私は行くから、じゃあね、彼女を大事にしなさいよー」と最後に余計なお世話を加えてアパートの一階の自分の部屋に向かっていった。
「確かに怖いね」と加美は呟いた。
僕は一瞬加美が園田さんのことを言っていると思ったが、すぐにあほかと自嘲した。
加美もその染谷川の林の近くに住んでいるので怖いだろう。まして加美は園田さんや僕とは違い若い女性だ、被害者と重なる。加美の怖いという感情は相当なものだろう。
その後夕日が沈み辺りは少し暗くなってきていたこで僕は加美を部屋には入れず、送っていくことにした。
「泊めてくれればいいのに」と加美は膨れっ面をしたが、僕はそれはまだ早いだろうと思った。
その日の夜、僕は殺人事件の犯人と関わることになる。
3
眠れなくて夜道を散歩していた僕は怖いもの見たさの好奇心に誘われ、染谷川の林の方へ向かった。
林は外から見るだけでも、心なしか不気味に感じた。僕はさすがに怖くなってきて、帰ろうとしたら、林の中から男の助けてくれぇという声が聞こえ心臓が止まりそうになった。
僕は悪戯かと思ったが、林の中から出てきた男の追い詰められている顔つきを見て、悪戯ではないと認識した。
男は若く見えた。おそらく僕とそう変わらない。二十代の半ばくらいだろう。
僕が固まっていると男は僕のところまで歩いてきた。僕は怖くて動けず逃げることも出来なかった。また追い詰められているようなこの男に対して何かを感じ少し興味も湧いていた。
男の名は林田健と言った。先程助けてくれぇと叫んだのは罪悪感から救ってくれとの意味だと林田は語った。林田は園田さんの言っていた殺人事件の犯人だった。
僕はそれを聞いても不思議と彼に恐怖を感じなかった。その理由は彼から後悔の念が伝わってくるからだろう。僕には林田が悪人には見えない。
「僕はどうすればいいんですか」と林田に聞いてみた。
「話を聞いてほしかっただけだ、悪かったな、俺は今から自首をしてくる」と林田。
「まだ何も聞いてませんよ、話したいなら聞かせて下さい、あなたが何故恋人を殺したのかを」
それから林田は語り始めた。殺人の経緯とそれからを。
キーワードは理想の相手。
二年程付き合っていた林田と絵美子は関係が冷めてきていることにお互い気付いていた。
初めに浮気をしたのは林田だった。会社の女性社員と交わった。
それは続いてしまい、じきに絵美子はその事実に気付く。
林田に問い詰めた絵美子は泣きながら林田のもとを去った。
二人は同棲をしていたが、そこからしばらく林田は一人暮らしとなってしまった。
林田が後悔をしながら生活している中、友達の家を転々としていた絵美子は、友達の紹介で歳上の男性を紹介される。
絵美子にとってその出会いは未知のものだった。運命を感じる出会いを初めて体感した時だった。相手の男性は絵美子の理想の相手となった。
そして絵美子も林田と別れたわけではない状況で、相手の男性と体を重ねる。そう浮気をしたのだ。
そして、話は殺人事件の日となる、染谷川の林の中に夜、林田を呼んだ絵美子は別れを告げる。
私は理想の男性を見つけたから──と。
その後の流れは早かった。感情的になった林田は絵美子の首を絞め、ずっと離さなかった。
苦しそうに悶えた絵美子が息絶えてから林田は自分のしていることを冷静に判断した。
人を殺してしまったと。しかも自分にとって大事な恋人を。
それから雨が降り始めどうしていいかわからなくなり錯乱した林田は一晩中林の中を走り回る。
朝になり雨がやみ眩しい日差しに照らされながら林田は身を隠そうと決意ししばらく誰からというわけでは無いが逃げ回った。
その後再び林に戻った林田は信夫に出会う。
そして今に至る。
僕は「あなたは後悔しているんですね」と林田に質問する。林田は泣きそうな顔で頷く。
僕は林田に同情していた。そして浮気をし始めた日を聞き出し、その場を離れた。
僕は林田を救おうと思った。
4
林田が浮気をしたのはちょうど一ヶ月前だという。
僕はその頃に何か自分を成長させる行動をしたか考えだが、思い当たらない。
ここ最近で新しいことをしたかと言えば、加美とのセックスくらいで、それは素人の女性とする初めてのセックスで、童貞卒業をした時だ。それは二ヶ月程前だ。
僕はその時に戻ることにした。しかし僕はあれから加美とは何度かセックスをしている。だが、過去には戻っていない。加美との初めてのセックスではこれは過去に戻るきっかけの成長過程になると思い一つ変わった行動をしておいたのだ。
僕は今アパートの自分の部屋で加美を待っている。
今からその加美とセックスをして、その少し変わった行動を再び行おうと思う。
僕が興奮して下半身に力が入ってきた時にチャイムが鳴り加美が訪れた。
僕は加美を迎え入れ、しばし会話をしながら、加美と体の距離を詰めていき、キスをした。
加美はそれを受け入れた。僕と加美の舌は口腔内をいやらしく動く回った。
「ん、うん、あ、はぁ」とキスの合間に加美は喘ぐ。
僕と加美は流れに沿って衣服を脱いでいき、ノーマルなセックスを始めた。
僕が加美の乳房を舐め回す中、加美は喘いだ。
そして、僕は加美の乳首から口を離し「もう一回あれしていい?」と加美に聞いた。あれとはセックス中の変わった行動のことだ。僕の下半身は出したい衝動を抱えていたが、僕は欲望よりも過去に戻ることを優先することにした。
僕は一瞬躊躇ったがいいよと言った加美の右目に触れるだけのキスをした。
加美がやだーと黄色い声を出した時、僕の視界は白い光に包まれていた。
光が消えていき現実世界が見えてくると、目の前には裸の加美がいた。そういえばそうだ、過去に戻ったら同じ状況に戻るのであった。
加美は急に動きを止めたであろう僕に「どうしたの?、続けてよ」と顔を赤くして微笑みながらいやらしい声を出す。
僕は今度こそ下半身の欲望に従うことにした。
その後、事後処理を終えた加美はシャワーを浴びてから、家に帰ると言った。僕は加美を送っていくことにした。林田は無差別殺人を行う人間ではないが、近い未来に殺人事件が起こる町の薄暗い中を加美一人で歩かせるのは心配だった。
加美を家まで送った後、僕は林田のもとへ行くことにした。その時に僕は失敗をしたと思った。
僕は林田の居所を知らなかった。
なので過去に戻ったはいいが変える手段を持ち合わせていなかった。
林田が犯行を行うまであと二ヶ月足らず、何も出来ないと思った僕は立ち尽くしてしまった。
5
闇雲に探す。それしか方法は無かった。
僕は大学には全く行かずにとにかく町中で林田を探した。
一向に見つからない。思えば僕は林田の苗字と見た目以外は何も知らなかった。
ところが僕は苗字という単語に引っ掛かった。そうだ、町の中から林田という苗字の家を虱潰しに調べれば、その内林田を見つけられるだろう、と僕は思った。
結果は見つからなかった、というよりも林田という苗字は多すぎて、また林田という苗字同士の家の距離は遠いことが多く、一軒一軒回っていったが、十件回っただけで四時間掛かってしまった。ちなみにこの町全体で林田という名字は127世帯ある。僕は気が遠くなった。
僕はそれでも染谷川近くの林田家を全部訪ねたが、林田は見つからなかった。
それから、僕は再び町を彷徨いながら林田を探し林田という表札を見つけたらその家を訪ねるという行為を繰り返し、気付けば半月という期間が過ぎていて、それが一ヶ月となるのはあっという間だった。林田は見つからず、僕はこのままでは林田を見つけることすら出来ずに過去に戻る前の日にちを迎えてしまうと怖れた。
毎日朝から夜までふらふらになりながら僕は林田を探しさ迷った。
しかし僕のやっていたことは間違っていなかった。
ある日の昼、公園のベンチで休んでいたら林田が桜田絵美子と思われる女性と一緒に僕の目の前を通りすぎたからだ。
しかしこの時点では僕と林田は知り合いではない。僕はどう話し掛けるか悩んだ挙げ句に、二人に目の前を通過されてしまった。
僕はこっそりと二人の後をつけた。
狙いは林田が一人になった時に、林田の家を確認すること。そして林田の家がわかればあとは林田が浮気をする時を待つだけ。林田は必ず一度は浮気相手を家へと連れてくるだろう。それを止めれば今回の事件は解決だ。
林田の尾行は成功しアパートに住んでいたことがわかった。そして林田の浮気相手だと思われる女性は後をつけた日の十五日後に林田のアパートに来た。一緒に部屋に入っていったので浮気相手だと思うが。
さて、どうするか。どちらを説得すべきか。いたずらめいた笑顔を見せる浮気相手の女性は悪いことをやっているとわかっているだろう。なので林田に彼女がいることを告げても効果は無い。
それに浮気相手だという確証が無い段階では何も出来ない。
今日は手詰まりだ。この場に絵美子などいれば林田が呼んでいたなどと言って林田の部屋に行かせられるのに。
そして翌日。僕は林田のアパート付近で待機し、朝の九時頃に林田がどこかへ向かう時についていった。
林田は喫茶店に入った。僕は林田と接触を持つ為に喫茶店に入ったが、林田の真向かいには絵美子がいた。
これでは接触出来ないと思っていると、僕は店内で予想外な人物を見つける。
それは加美であり理由はわからないが一人でコーヒーを飲んでいた。僕はとりあえず加美に声を掛け相席することにした。
僕はしばらく加美と話しながら林田のことを気にしていた。
そうしていたら、突然加美は「信夫君、さっきからやたらあそこの人を気にしてるけどあの人達がどうかしたの?」と聞いてきた。
タイムスリップを知らない加美には本当のことを言えないので「何でもない、何でもないよ」と誤魔化した。
加美はふぅんと納得してなさそうにように言う。この時、僕は加美の独占欲が強くそして加美は恋愛に対して面倒臭い人間だと知る。
加美は立ち上がり、僕と加美の席の会計を済ませ、林田の方向へ向かった。
僕は急いでそこへ行くと、加美は絵美子に「なんか私の彼氏があなたのこと気になるらしいから聞いてあげて」と言い放つところで、加美は僕を睨んだ後に店から出ていった。
林田も僕を敵意剥き出しの目付きで見ている。
何なんだ、この状況は。僕はこの場をどうおさめるかを考えた。
6
加美の問題発言の後、僕はこれをチャンスとするしか無くて、加美の勘違いに乗っかることとなった。
「いやぁ、僕にも素敵な彼女がいるんですが、あなたみたいな素敵な人には叶わないというか、とにかくあなたは僕にとって理想の相手かもしれないですね、ははは、勿論下心はありませんよ、ただダブルデートでもして頂けたら光栄だなぁと思います」と僕は冷や汗をかきながら捲し立てた。
林田は怒りを隠さない様子で何を言うか考えていたが、絵美子が「あはは、面白い人ね、ね、健、この人達とダブルデートしてもいいんじゃない?」とフォローしてくれた。
林田は溜め息を吐くと怒りがおさまったらしく「そうだな、まずあんた何者なんだ、名前も知らない相手とはデート出来んよ」と言った。
僕は今自分が林田の為に動いているということを忘れていて、この林田の言葉に純粋に感謝をした。
そしてお互いに自己紹介をしてダブルデートの日にちが決まった。
それは一週間後だった。僕はそれからも林田の動きを見てみようと思ったが、下手な動きをして失敗したくないとも思ったので、ダブルデートまでの間は大人しくしておこうと思った。
その一週間の間に林田が浮気を三回していたなどとは思いもしていなかった。
一週間後、ダブルデートの日が来た。
今僕はあの後許しを得て、話の流れでダブルデートすることになったから一緒に来てくれと頼むと、いいよと答えた加美と、デートの場所、遊園地へと行く前に、林田達との待ち合わせ場所に向かっていた。
待ち合わせ場所は遊園地の近くのかき氷屋。今はもう十月の下旬なのでかき氷屋には僕達以外に客はいなかった。
遊園地の方も今は朝の八時で混む時間帯だと思うが、二十分も待たずに中へ入ることが出来た。
基本的に四人で行動をしたが、段々と会話をする相手は定まっていって、二グループに別れることになった。
何故か僕の隣には絵美子がはにかみ立っている。
林田と意気投合した加美は林田と行動をすることになり、残された僕と絵美子は流れるまま組み合わされてしまった。
ぎこちなく会話をしながら僕と絵美子はアイスクリームを食べることとした。
アイスクリーム屋の前のベンチに座り抹茶のソフトクリームを食べる絵美子は、僕に質問をした。
「私のことが理想の相手っていうの、あれ嘘でしょ?、信夫君何か隠してるよね」絵美子は笑顔だった。
僕は絵美子が今言ったことには驚かなかった。絵美子が僕の嘘に気付いていると漠然とわかっていたからだ。
「そうだよ、詳しいことは言わないけど、君を救うためにやってるんだよ」そこまで言って何かをほのめかす僕は馬鹿だろう。タイムスリップのことなんて人に言えることではないのに。
「ま、私も詳しくは聞かないよ、なんかあほらしいしね、私にはあなたがただ人をからかいたいだけの出来損ないの男に見えるの、実際今回のこと加美ちゃんを怒らせて遊ぼうとしたんでしょ、今はそれが逆効果になってて焦ってるというところかな」
「そんなんじゃない、そんなんじゃないよ、僕は加美一筋だ、ただ君に嘘を吐いたのは本当だ、だけど君は知ってるんだろう、浮気されてるって、だからダブルデートを」
そこまで言って絵美子は僕の唇を人指す指で押した。
「それ以上は言ったら駄目よ、深入りはしないで」絵美子の目は激情を抱えているようだが静かに揺れていた。
「信夫君優しいんだね、思い付きでダブルデートを提案したのは私だけど、こんな収穫が得られるなんて思わなかったわ」
「ね、信夫君、私のこと理想の相手って言ったよね、それ私も言って良い?、私信夫君のこと好きになったみたい」
僕は飛び出そうな怒りを押し殺した。この女は林田に浮気されたことの仕返しがしたいために、誰でもいいから相手の男を理想の相手と謳い自分のものにして復讐の道具にするのだ。
林田はこんな女の為にあれほど悲しんでいたのか。しかしその原因を作ることも、こんな女を選んだことも、林田の過ちだろう。どちらも悪い。
プレーンのソフトクリームを食べ終えた僕は溜め息を吐き、これは乗り掛かった船だと思い、今回の目的は果たそうと決め、絵美子に一緒に観覧車に乗ろうと誘った。
観覧車はゆっくりと動き出し僕と絵美子に動く景色を見せた。
「ね、信夫君、さっきの返事だけど」絵美子は要求するように返答を求めた。
僕はここでけりをつける。要は林田が絵美子を殺す結末にならなければ良いのだ。
「僕は加美が好きだよ、だけどね、君が僕のことをずっと待てるのなら付き合ってもいいよ、だけど一つだけ林田は嫉妬心が強いのはわかるだろう?、林田には僕が君を誘ったって言って別れてくれ、そうすれば君には被害がいかないから」と、僕は告げた。
絵美子は優しいねと言ったが、そんな言葉はどうでも良かった。
観覧車を降りて、再び四人で集まった時に僕は加美に話があると言って林田達と離れた。
どうしたの?と加美は聞いてきた、僕が加美を特別扱いする、こういう時の加美は素直だ。
僕は加美に「僕のこと愛してるよね?、ごめん加美が林田と仲良さそうにしてたから確認したくなって」と言った。
絵美子との会話、林田のことで不快な気分になっていた僕は加美がどう返答したか聞いていなかった。しかし目の前は白い光に包まれた。
現代に戻った、僕は病衣を着ていて、痛む右腕にはギブスが付いていた。
僕は記憶が曖昧なふりをして加美に事情を聞くと、僕は林田に一方的に殴られ右腕を骨折したらしい。
僕は加美に「絵美子はまだ林田と付き合ってるのか」と質問をした。
加美はどうしてそんな質問をするのという顔を見せたが「そうだよ、だから絵美子を誘ったことになってる信夫は今ここにいるんじゃん」と答えた。
加美は、確かに今、誘ったことになってる、と言った。
ということは加美は僕が絵美子を誘ったというのが嘘であることを知っているんだな。
ならいいか、これで一件落着だ。
僕は加美に「そっか、ありがとう。せっかくお見舞いしてもらってて悪いけどなんか疲れてるから寝るよ」と言って目を瞑った。
加美のそう、じゃあ帰るねおやすみと言う声と病室から出ていく音が聞こえた。
恋愛異常者か、そう呟いて僕は本当に眠りに就いた。
林田達はこれからと上手くやれていくのだろう、何せ異常な愛情を抱える似た者同士なのだから。少なくともあれ以降も林田達と仲良くしている加美からは悪い報告は来なかった。
この一件はこれで終わりだ。
僕は今回の件で、自分がお人好しなのだと自覚した。
殺人犯になるような人間すら助けたのだから。
第三章 キョウコ
1
その日は非常に寒かった。今日は十二月の十五日で、この町では十日前から積もるほどではない量のぱらぱらの雪が毎日数時間単位で何度も降るという現象が起きている。
なので前よりも寒い思いをしながら、かつ自分の差す傘を鬱陶しく思いながら、僕は徒歩で大学へ向かっている。天候がこういう状態では無かったらこれから起こる僕の悲劇は防がれただろう。
僕の通う兼坂大学は僕の家の近所だ。生徒の頭は日本全体の大学生の平均より下であり、当然そこに通う僕も頭は良くない。だが僕は大学が好きだ。
大学の門を通り抜けたら、僕が学校を好きな一番の理由が目の前に現れた。
「おはよう」加美は微笑んでいた。
それから僕と加美は一緒に大学の中へ入り、下駄箱の前で人目を気にせず軽くキスをした。
その後はいつも通り講義を受けて今日受ける予定だった講義が全部終わり次第僕は帰ることにした。
加美はまだ講義を受けるらしいので、今僕は一人で帰っている。
大学と僕の住むアパートのちょうど中間エリアくらいだろうか。そこに建っているマンションの根っこの部分に周りに鳴き声を響かせる存在がいた。捨て猫だった、段ボールに入れてある。ちなみに子猫だ、生まれてからそんなに経たないのではないのか、と僕は思った。
衰弱しているように見える。当然だ、この天気で外に出されていたら死んでいてもおかしくないくらいだ。そう、雪が降る日が続き、放っておいたらこの子猫は死んでもしまう状況だった為僕は捨て猫を拾うことにしたのだ。
僕はどうせならアパートの管理人には秘密で飼ってみるかと思い、名前をどうしようかと思った。
ふと僕の頭にアイドルの顔が浮かんだ。そのアイドルの名前は小林杏子。僕は腕に抱えている子猫の名前をキョウコにしようと決めた。
2
僕は拾ったばかりのキョウコを自室をエアコンの暖房で温めてから置いていき、買い物に出掛けた。
キョウコの体は汚い。なので飼うのならまずは風呂に入れないといけないと思った。
僕は近所のスーパーで猫用のシャンプー。そしてブラシと子猫用の半生タイプという小袋に入った餌を三袋買った。
僕は楽しくなってきていた、動物の世話は生まれて初めてであり、未知の体験に心が踊っていた。
僕は早足でアパートの自室に戻ると、暖房の風が最も当たるところに移動していたキョウコをすぐに風呂場に連れていき、シャワーを流しお湯になるのを待ちながら、猫用シャンプーをすぐに使えるように吹き出し口を回転させ伸ばした。キョウコは怖いのか助けを呼ぶように止まることなく鳴いている。シャワーの音があるのでキョウコの鳴き声はアパートの隅にある、僕の部屋から三つ部屋を挟んでいる管理人の部屋までは聞こえないと思うので、僕は気にするのをやめキョウコを洗い始めた。
キョウコの毛は汚れていたのでさらさらはしていないが細く柔らかく、お湯で流す内に野良猫らしさも汚れと共に落ちていった。これだけで飼い猫らしくなっていく。
白の混ざる肌色の毛並みはシャンプーを付けて軽く擦りシャワーで流すと艶が出てきて、電気の光の反射で少し眩しいほどだった。
泡をきっちりと流した後は、キョウコの体が冷める前にタオルで水気を取っていった。ある程度取れてから、僕のベッドのそばに連れていき、ドライヤーで乾かした。キョウコはまだ子猫で、毛も短いので、三分も掛からず毛は乾き、ブラシをかけると我ながら綺麗に整ったと思えた。見た目はもう飼い猫そのものでシャンプーの匂いがそれを際立たせた。
完璧だ、と僕は思い、後は寝床とトイレを作り、餌を与えれば今日出来ることは終わりだろう。
今日のところは寝床は大きめの段ボール、トイレは新聞紙を五枚重ねて二度半分に折り畳んだものでいいだろう。僕はそれらを作ってキョウコを段ボールに入れた後、餌を一袋、小皿に乗せてキョウコの目の前に置いた。
キョウコは僕の方を見上げてから伺うように控えめににゃあと一言鳴いて半生の餌を食べ始めた。
僕はキョウコが餌を食べ終えるまで見つめ、時々僕の顔を伺うキョウコの頭を撫でた。
キョウコが餌を食べ終えて大人しくなり丸まってから微動だにしなくなったので、見ていてもつまらなくなり、僕は寝ることにした。
おやすみ、キョウコと隣にいる子猫に声を掛けてベッドに入った僕は小林杏子の顔が浮かび、自分を少し気持ち悪いと思いながらアパートの一つしかない部屋の電気を消した。
暗くなった部屋の中でにゃぁと、返事が聞こえた。
3
キョウコを飼い始めてから十日が経ち、昼寝をしていた僕は目を覚まし壁に掛かっている時計を見た。時計は八時過ぎを示していた。
クリスマスの夜になっていた。
加美との待ち合わせの時間から一時間程経っている。寝惚け頭の僕はキョウコに餌をあげ、部屋から出るのが面倒臭いと思い、誰もいない部屋にキョウコを置いていけないと頭の中で言い訳をして二度寝をした。
そして九時頃アパートの扉が誰かにノックされる音が聞こえた。
コンコンコン、コンコンコン。
僕は居留守をした。扉を叩く音は大きくなっていく。
コンコンコンコン。コンコンコンコン。コンコンコンコンコン。コンコンコンコン。
次に音が一瞬止み、その一瞬は僕に不穏な空気を感じさせ、その空気を破るように扉は勢い良く蹴り飛ばされた。
僕はさすがにこれ以上加美を怒らせられないと思い、扉を開けた。
扉の目の前には真顔の加美がいて、目が合った瞬間に僕は殴られた。
玄関で大きく転んだ僕は右頬の痛みを感じるよりも先に目の前の加美に対して恐怖を感じた。
「猫に構ってばかりだからこうなるのよ」十分後、散々加美に殴られて蹴られて立ち上がれなくなった僕に対して、加美はそう言って去っていった。
扉は開けっ放しで、玄関に横たわり動けない僕は思えばこの十日間、加美に誘われてもキョウコを理由にして断ってばかりだったことを思い出す。
これはなるべくしてなったことだ。僕はそう思い意識を失ったように見せ掛けて眠りに就いた。
目が覚めた時、僕はソファで寝ていた。僕の体には毛布をかけてある。ソファには加美がもたれて眠っていた。
窓の外から日射しが漏れている。
時刻は六時過ぎ。
どうやら加美はあの後戻ってきて、僕をソファまで連れてきてくれたのだろう。僕は加美に許されたということだ。
ベッドの横のキョウコの寝床の中でキョウコは丸まって眠っている。
こうやって、すぐにキョウコを気にする今の生活、キョウコのことばかり考えている僕に加美は苛ついているのだろう。
僕はキョウコの安否を確認し安心して二度寝をした。勿論安心したのには加美に許されたという事実もある。これでも僕はキョウコより加美の方が大事だ。
僕が次に目を覚ますと昼になっていて、加美はいなかった。代わりにテーブルの上には加美が作ったであろうオムライスと書き置きが乗っていた。
書き置きには"昨日は殴って悪かった、当然もとはあんたが悪いけど、あんたの食材でオムライスを作ったから許して"と書かれていた。
その後、オムライスを食べ終えた僕は、昼から外を散歩した。
偶然加美と出会えればと淡い期待を持って歩き回ったが、夕方になりキョウコの夕飯の時間が近付いてきたので、僕はアパートへ帰った。
4
加美を怒らせてから、加美とは連絡を取ることをせず、一度外で加美とすれ違っても挨拶すらしなかった。まるで初めて話した日以前に戻ったみたいで、恋人になってからこんなことになるなんて、僕はもうどうすればいいかがわからなかった。
キョウコよりも加美が大事、それを伝えればいいだけとはわかっているが、加美との間にはそれを伝えられないような壁があるように感じて僕は何も出来ない。
このまま別れを告げられるのを待つだけかと僕は思い始めていた。
一方、キョウコの世話の方は順調だった。
拾ってから半月が経ち、キョウコの体は僅かに大きくなったように感じる。
最初は大人しかったキョウコは今では部屋の中を自分の意志で動き回っている。高いところにも登れて食欲旺盛で見境が無いのでテーブルの上には人間の食べ物は置けなくなった。
そろそろキョウコはケージに入れた方が良いかもしれない。
爪は一昨日初めて切ったが慎重さを忘れなければ出来ないことはなかった。ただ不恰好になってしまったが。
僕は明日の夜、年末になったら、キョウコと年を越そうと思っていた。加美に連絡を取る勇気はなかった。
そして翌日になり、僕は本当に加美に連絡を取らず、夜を迎えた。
僕はアパートの自室で歌番組を見ながら、初詣に行くかどうするか考えていた。
十時半になった頃、携帯電話に一通のメールが届いた。
加美からだった。
メールの内容は"ねえ、もう別れるつもりなの?、私ずっと連絡を待ってたんだけど"だった。
確かに加美はずっと連絡を待っていたと書いている。
僕は自分が馬鹿だったと気付いた。見捨てられた気持ちを持っていた僕だが、それは加美も持っていたのかもしれない。
むしろ加美の方が傷付いていたのかもしれない。
僕は加美にメールで"初詣で会おう"と送った。
僕はこれで合ってるはずだと思ったが、上手くはいかなかった。
返信はすぐに来て"ごめん、それは家族と行くことになってるから、せっかく誘ってくれたのにごめんね"と書かれていた。
僕はそれに対して食い下がり、なら正月に行こうとでも言えば良かったのだが、僕はまあ仕方無いかと思いそれからしばらく加美と連絡を取ることはしなかった。
そして僕のキョウコを育てるだけの生活は何も変わらないまま時間は経ち、キョウコを拾ってから一ヶ月が経った。
その間に大学の冬休みが終わり時々加美を見掛けるが、話すことは無かった。
前にずっと待っていたと言われたのに、僕はまた自分から話し掛けることを躊躇っていた。
そしてキョウコを拾ってから一ヶ月半になり、僕は大学の講義を終え、アパートに帰った。
その日は久しぶりにぱらぱらと雪が降っていた。
僕はキョウコをケージに入れようと何度か思ってはいたが、実行はしなかった。
その日、アパートの自室に入った僕はキョウコの姿が見当たらなかったが、いつも通りどこかの部屋にはいるだろうと思い特に気にしなかった。
しかしキョウコは夕飯の時間になっても姿を見せなかった、これは異例なことで、今まではこの時間になれば必ず姿を見せていた。
僕はキョウコはもしかしたら外に出てるかもしれないと思い、自室の全ての窓を確認した。
トイレの扉が猫一匹通れるほど開いていた。僕は嫌な予感がしてトイレに入ると冷たい風が吹いた。目の前の突き出し窓が全開していた。
僕は駆け足で外に出た。
アパートの周りを隅から見ていき、アパートを一周してポストの下を見ると、そこにキョウコはいた。
その横たわって目を瞑っている姿は眠っているようだが、しかし息を吸った時の体の動きが無い。つまり呼吸をしていない。
キョウコは死んでいる。
タイムスリップをしたい、しかし僕はこの結果を受け入れることにした。
僕は生物の命を救うような伝説の人物ではなくて、タイムスリップを使って何でも自分の思い通りにするような人間でもない。
確かに後悔という言葉は嫌いで、僕がタイムスリップをするのは自分か誰かの後悔がきっかけの時が多い。今も後悔をしている。だが、もう終わりを迎えたのだ。
僕は今回の僕の過ちを消さずに、心の中に秘めることにした。
二度、同じ失敗をしない為に。
翌日、僕は大学で加美を見掛けた時に、加美に話し掛けた。
「今までごめん、これからは加美を放っておかない、もし良ければ明日どこかに行かないか」
僕がそう言うと加美は優しく微笑んだ。それは僕がキョウコと出会う前の笑い方だった。
第四章 過去の自分
1
僕は三つの選択肢にまで絞った。
一つは偏差値が少し高い、公立高滝商業高等学校、男女共学。
一つは偏差値の低い、受ければ誰でも入れると言われる私立日輪商業高等学校、男女別学の男子校。
一つは偏差値は高いが、倍率は低い、専門学校に近い高等学校、私立兼坂高等学校、男女共学だ。
中学三年夏を迎えた僕、柊信夫は進路を決めかねている。
出来れば友人の土屋浩の進む兼坂高等学校に進みたいが、しかし僕の入れる高等学校の中で最も偏差値の高い高滝商業高等学校にも憧れているのだ。
僕は迷っている。
何度か浩に相談をしているが、決まって返事は「俺のことは気にせずに進みたいところに進めよ」と言われ、すぐに勉強の邪魔だからどっか行けとあしらわれる。
浩は勉強が苦手で、志望校の兼坂高等学校にも何とかいけるかもしれないという実力だ、なので放課中も僕と話している余裕は無いのだ。
幼い僕はそんな浩の言葉を鵜呑みにして、浩とは関わらなくなり、それから浩と同じ高校に行きたいという気持ちも薄れ、一人で必死に勉強をして高滝商業高等学校に進学することが出来た。
浩とは卒業まで全く関わらず進路が別れたが、今どうしているだろうか。果たして浩は無事に兼坂高等学校に進学出来たのだろうか。
そして高校生活が始まって少しした頃に僕の家に訃報が届いた。それは土屋浩の死を知らせるものだった。
2
僕は浩が何故死んだのかを浩の葬式で浩の父親に教えられた。
「今まで私は浩に勉強を強いてきた、しかし浩の学力は伸びず、私はプレッシャーをかけることしか出来なかった、中学校三年になり浩は私の選んだ兼坂高等学校に行くと決め、今までで一番の努力をした、しかしそれでも届かず、結果は不合格だった。この時に私は浩を受け入れて誉めてやるべきだったんだ、なのに私は浩の努力を否定して叱りつけた、お前は私の子ではない、そんな言葉が中学生に耐えられるはずがなかったんだ、信夫君、君は浩の親友だったね、ごめんな、私が浩が死ぬきっかけを作った、本当に申し訳なかった」浩の父親はそう言って僕に向けて深く頭を下げた。
辛いのは僕よりもあなたの方なのに。
僕はそう思った。今回の件では浩と関わりのある人は皆悲しみ、そして後悔の念を抱いている。
自分が一緒に勉強すれば良かったなど。
僕は頭を下げたままの浩の父親の前で立ちくらみを覚えた。視界に映るものに白いもやが重なる。
何だ──?
その後僕は家に帰り、ずっと頭がぼやけている理由を考えていた。
友達の死がショックで頭にダメージが来ているのかもしれない。
しかし原因はわかっても解決法法はわからない。僕はぼやけた頭のまま眠ることにした。
だが、眠れず、僕は気を紛らせる為に勉強をすることにした。何となく、高校の勉強ではなく、中学三年生の教科書を取り出し、そこに書かれた内容をノートに書き写した。この勉強方法を初めてしたのは中学三年生の、浩に「俺のことは気にせずに進みたいところに進めよ」と言われた時だ。
僕にとって勉強のやり方の幅が広がり成長に繋がった瞬間だった。
勉強を始めた僕は頭がまとまらなくなっていき、次第に目の前の景色が白い光に包まれていく。
白い光が晴れた。
「……のことは気にせずに進みたいところに進めよ」という声が聞こえた。
目の前には中学の頃の教室、そして浩がいた。
3
理解が出来なかった。現実にはあり得ないことが起きている、つまり夢を見ている。そう思った。
しかし目の前の景色はあまりにもはっきりとしていて僕の一度経験した過去そのままだった。
夢ではない。僕はそう理解した。僕は過去に戻ったという仮説を受け入れた。
僕は過去に戻った理由は気にしなかった。何をすればいいかなどわからない。ただ、やらなければいけないことが目の前にある。
僕は浩の運命を変えると胸中で誓った。
4
浩を救う方法を考える前に、何故浩が自殺したのかを知らなければいけない。
僕は前の世界……で浩の父親が僕に語った言葉を思い出す。
"今まで私は浩に勉強を強いてきた"
"結果は不合格だった"
"私は浩の努力を否定して"
"私が浩の死ぬきっかけを作った"
……つまり浩は望むところへ進学が出来なかったこと、その結果父親の期待に応えられなかったこと、それを理由に死んだ。その二つの理由で、無くすべきなのは父親の過度の期待ではなく、浩が進学出来なかった事実だろう。
僕は浩を兼坂高校へ進学させようと思った。
その為に自分の時間を割かないといけない。自分の志望校への進学を諦めることは惜しくなかった。どっちみち辛いのだ。
浩は大きなお世話だと言った。お前の助けなんていらない、と。
僕はそれでも食い下がった、浩の勉強を手伝うと言い引かなかった。
全く引かない僕の強い押しに負け浩は僕から勉強を教わることにした。
それから半年間僕は浩と毎日勉強をした。
勉強を手伝う日々の中、僕は高滝商業高等学校に進めるほどの学力を身に付けられず志望校を兼坂高等学校にした。
結果は僕も浩も合格。
こうして僕は友達の命を救った。
これが僕の初めての時の進路変更だ。
その頃を思い出していた僕は加美の「何してんの、置いてくよ」という声を聞いて我に帰った。
友達を助け兼坂高等学校に進み、そのまま兼坂大学に進学し加美と出会えた。
僕は一切後悔をしていない。
僕は前を歩く加美を追いかけた。
end
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