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1
無意識に誰かの名前を呼んだ。その反動で目を覚ますと、頭は鈍くて体が怠くなっていた。
僕はベッドの上で人には見せられない情けない格好をしている。上半身にシャツを一枚着ている状態で下半身は裸だ。その上、真夏の暑さで汗だくだった。床には丸まったティッシュが二つ落ちている。そばにハーフパンツとトランクスも落ちていた。
僕は昨日の晩に自慰を行い、それが終わった後、下半身は脱ぎっぱなしのまま寝たのだ。
二階の自室を出て一階へ降りトランクスとハーフパンツを洗濯機に入れてから、僕はシャワーを浴びた。風呂の鏡の前でぼやけた頭のまま〝サキュバスと愛し合った〟と呟いた。射精による精神面の怠さの責任をサキュバスという存在しないものに被せた。
風呂を出てから自室で髪の毛をドライヤーで乾かし、学校へ向かう。僕は高校生で通う高校の名は真鉄高等学校。偏差値は低い。どんな人間も受け入れる学校だ。僕は頭が悪い。おまけに射精による疲れをサキュバスのせいなどと言えるほどの夢見がちな幼さを抱えている。
おかしな思考を進めながら下駄箱で靴をローファーに履き変えて、教室へ向かう。
教室の扉を開けると、僕に気付いたクラスメイトの皆越良枝が近付いてきて「遅かったわね」と冷たく言う。表情は無表情で目が怒っている。
「今日は部活の朝練があること忘れてたの?」
「忘れてないよ」
「そうだよね、朝練は毎日あるからね、忘れるわけないよね」
「ごめん」
「これで何度目よ、あんたが来ないだけで私の仕事が増えるのよ、勘弁してよね」良枝はそこまで言って席に戻った。席に戻った良枝と話し始めた女子生徒二人が僕を睨む。良枝から僕を悪く言う言葉を聞いたのだろう、勿論僕が悪いので、僕は睨まれて当然だ。
僕の所属する部活動は硬式テニス部。
良枝は男子テニス部のマネージャーである。
僕は朝練をさぼる、というより寝坊してすっぽかすことが多々あり、そんな部活に対する姿勢が中途半端な僕を良枝は嫌っている。
学校が終わり家に帰ると、母親の知世が台所で夕食の準備をしていた。
僕の家は三人家族だ。父親の明と知世と僕。ペットはいない、三人だけで暮らしている。
台所まで行き「ただいま」と僕は言う。
知世は料理を作りながら笑顔を作り「おかえり、もうすぐ夕飯だからね」と僕の方を見て言った。
この家では父親である明の帰りが遅いので、僕だけ先に夕食を食べて、知世は明が帰るまで夕食を食べずに待つ。
自分の部屋に鞄を片付けてから僕は食卓で夕食を食べ始めた。
目の前に知世が座り「最近学校はどう?」と聞いてきた。この質問を知世は僕に対して一ヶ月に一度はする、一ヶ月に二度することもある。知世にはそういう癖がある。
「普通だよ」と僕は答える。
毎回同じ僕の答えに知世は「ふぅん」と呟きつまらなさそうな顔をした。
夕食での会話はそれ以外無かった。
食後に僕は部屋に戻り、ベッドに寝転がった。
学校から帰った後、趣味も無く友達もいない僕にはすることがない。
テレビも、漫画も、ゲームも、小説も、カラオケも、楽しめない、僕は娯楽を求めずに生きている。おかしな人間だ。そんな人生を楽しめない人間なので将来の夢もない。
それでも僕も人間の三大欲求は持ち合わせていて、ご飯を食べ射精も好きで当然毎日夜は寝る。
僕はいつもと同じ理由、食後の運動だということにして、ズボンとパンツを脱ぎ下半身に付いている突起を手で動かし始めた。
真鉄高等学校の制服を着た架空の顔の無い女子とのセックスを想像して僕は気分を盛り上げた。
少しの時間で先端から液体は発射された。
僕は息を切らしながら満足感に浸り、頭がぼやけた感覚に襲われながら、下半身とベッドに付いた液体をティッシュで拭いた。
ティッシュをごみ箱に捨てた後、僕は暑いのでパンツのみ履き、目を閉じた。眠りに就くまでには三分も掛からなかっただろう。目を閉じる前に見た、壁に掛かっている時計は六時五分を示していた。
2
その日、僕は夢を見た。
女性の声が聞こえる。
「ねえ目を開けてよ」
その声を無視すると再び声が聞こえる。
「目を開けて」
僕がその声が僕に向けられたものだと気付いた。だが、質問が何を尋ねているものなのかわからず、答えられないでいると、女性は説明を始めた。
「私の体に乗っかってるのに寝ないでよ」
女性の言葉にいやらしい響きが込められていて、僕は目を開けて女性を見た。
その時、僕は自分が夢の中にいることに気付いたが、そんな情報は一瞬で頭の中から消えた。
僕は果てから果てまで白く何も無い世界の中にいて、僕以外に唯一存在する存在、裸の和風美人の上に乗り、和風美人の下半身と僕の下半身は重なっていた。
僕はすぐに下半身がびくつき和風美人の中に液体を出した。
「今日も中出し、あんた本当に私のこと好きなのね、まあ妊娠はしないけど」と和風美人は笑う。
僕の心臓は目の前の魅惑的な状況に対し激しく動いていて苦しさを覚えながら、またおそらく顔を赤くして「あなた、誰ですか?」と和風美人に質問した。
和風美人は「さあ誰でしょう?」と言ってからかうような作り笑顔をして、僕は状況がわからず「どうしてこんなこと」と呟く。
「そっか、そうね、私の正体を知らないと意味はわからないね。私はサキュバスよ、あんたと気持ちいいことしてあんたの生気を抜き取るのよ」と和風美人は答えた。
「サキュバス……」僕は驚いた。
「あんた面白いよね、射精をした後にはその日は私と愛し合ったってことにする、そんな男いないわよ、さて、今日は挨拶をしたかっただけ、もうお別れよ。また会おうね」とサキュバスはそこまで話し、またさっきのように笑顔を作り僕を抱き寄せ僕の唇に自分の唇を押し当てた。
僕は目の前の世界が消え、切り替わるように映る目の前の暗闇を見つめた。
目の前は暗闇だが、馴染んでいるベッドに寝ていることはわかったので、ここが自分の部屋であり、夢から目を覚ましたのだと理解出来た。
そして家の中の誰かの声が耳に届く。父親の明の声だ。
僕はさっきまで見ていた夢のことを思い出し一人で恥ずかしくなり僕は誰にアピールするわけではないが無心を装う為に壁に掛かった時計を見た。
時計は十二時五分を示していた。
次の朝、あの夢を見た後徹夜をした僕はとぼとぼと学校に向かっていた。今日は射精をした日の次の日だが、夢のお陰で眠れなかったので朝練には行ける。
僕は夢に出てきた和風美人、サキュバスのことを頭に浮かべた。
あの人はとても綺麗な顔と体をしていた。顔は今まで見てきた全ての女性を上回ると僕は評価した。そして女性の体を直接見たことは無いが、あんなに男の下半身を元気にさせる体は無いだろうと僕は思った。
サキュバスと高校生のクラスメイトの体を比べると、弾力性やめりはりが違うと思った。
クラスメイトは服を着ているのでわからないが、おそらく……そこまで考えたところで僕は自分が良枝を想像していることに気付いた。
もしかして射精をする時に頭に浮かべていた女子のモデルは良枝だったのかと思い、自分が良枝に対して惹かれていたのかもしれないと思った。
学校に着いた時、時間は六時よりも前で、六時半からの朝練には間に合った。僕はまだ誰もいない部室で準備をして、部室の隣のテニスコートに出た。
テニスコートには良枝がいて、開口一番「今日は早いわね」と冷たく言う良枝を見ると、登校中に考えていたことを思い出し意識しそうになったが、良枝の振る舞い、話し方、顔付きが昨日より幼く感じて、僕は反対に前よりも良枝を意識せずに、むしろどうでもいいという気持ちになり、それをそのまま態度に表し、ごめんとだけ返して良枝を放って仕事を始めた。
良枝にとって自分が優位に立っていない状態が勘に触ったのかもしれない。「何よ……」と悔しそうに言う良枝の声が聞こえた。
部活動の中で一度、部員の一人が打ったボールが壁に当たり僕の方に跳ね返り僕の左のこめかみをかするという事故が起きた。こめかみに僅かな切り傷が出来て出血したので、保健室に行くことになった。
保健室で処置してもらい、こめかみに絆創膏を貼ってもらった。その後テニスコートに戻る為廊下を歩いていると、良枝が後ろから駆け付けてきた。
僕が突然の出来事に黙っていると、良枝は「大丈夫?もう処置は終わったのね」と声を掛けてきた。心配そうな顔をしている。僕は良枝からこんな顔を向けられたことは無かった。良枝から気遣いされている、こんなことは初めてだ。
「大丈夫だよ、ありがと」と言うと、良枝は僕から目を逸らし、ならよかったわと小さく呟いて、早く戻ってきてよと言って僕に背を向け走り去った。良枝の態度がいつもみたいに偉そうではなく違和感を覚えた。
テニスコートに戻るとチラチラ見てくる部員が何人かいた。健太郎も僕を一瞥したが、その目からは僕に対する何の感情も感じられなかった。ただ、目の前の練習に集中しているようだった。
ふいに志摩くんと僕を呼ぶ声が聞こえた。
声の方を向くと、その声は良枝のもので、良枝は微笑んで僕を見ていた、瞬間、僕は今まで向けられたことのなかった良枝の微笑みがおそろしく思えて後ずさった。
「なんで身を引くのよ。今日話したいことがあるから一緒に帰ってくれない」と良枝はその誘いを何でもないことのように言う。冷静を装い「いいよ」と返事をしてから、僕の頭の中は、初めて女子と下校する、しかし相手はサキュバスには劣る女子、僕を嫌っている良枝は何を話したいのだろう?という文字列が並んだ。
「じゃあ部活終わったら校門で待ってて、多分私の方が帰る準備に時間かかるから、じゃあとでね」と片手をあげて、良枝は部活動に戻った。
僕は練習に身が入らず今日の良枝の言葉一つ、仕草一つが頭にすぐ浮かぶ状態だった。サキュバスには劣る女子だと良枝を軽く見ているのにこの有り様、僕は自分が情けないと思った。いつもみたいに出来が悪いことを情けないと思っているのではなく、女性に対して節操が無い自分を情けないと思う状態が新鮮で僕はその状態の自分に酔っていた。
良枝の方はいつもと変わらない様子で部活動に励んでいた。
そして部活が終わり、僕は誰もいない教室から自分の鞄を取った後、校門付近で立ちながら良枝を待った。
良枝は何の話をするのだろう。僕は説教をされるのか、部活をやめろと言われるのかなど悪い方向に考え、萎縮していた。今の事態を良い方向に考えられないくらい、僕が良枝から良い評価を受けていないことはしっかりわかっている。だから怖いのだ。
帰りながら楽しく話している生徒にちらりと見られることに耐えながら、五分程待っただろうか。
良枝は現れた。
「ごめんね、待たせて」良枝が僕相手にまたしても気遣いをした、僕はこの後何が起こるのかが想像もできず身震いした。
3
僕と良枝は帰る方向が途中まで同じだ。理由は二人の家が同じ住宅街の中に建っているからだ。
近所というほど近くはないが僕達は小学校と中学校も同じだ。
中学生の頃、勉強の出来た良枝が何故僕でも行ける高校に進んだのかは知らない。
今日そのことを質問してみようかと僕は少し強気な気持ちも生まれ始めていた。未体験の出来事に巻き込まれ気持ちが昂ってもいる。しかし良枝と目が合うと萎縮した気持ちが大きくなる。
校門を出て最初に通る交差点で信号待ちをするまで良枝は話し掛けてこなかった。何かを躊躇っているようだった。
目の前の信号が赤から青に変わる瞬間、良枝は「中学一年の時さ……」と切り出したが、青信号に気付き言葉を止め歩き出した。
僕は中学一年生の時に何かあったかと考えたがわからない。
歩道の真ん中辺りで良枝は咳払いを二回して「私、今から告白するからちゃんと聞いてね、その後に質問するから」と、いつもより早口で僕のいない方向を見ながら言った。
わかった、と僕は答えた。僕はもう思考を止めた。一緒に帰ろうの後に告白するからという、そんな僕を悩ます状況で更に悩ます言葉を掛けられて、冷静でいられないからだ。昨日まで良枝は僕を嫌っていたはずだ、今日の急展開の連続にまともに向き合ったら壊れてしまう。
「小学校高学年辺りから中学一年生までの間の志摩くんって、私から見て落ち着いていて勉強の出来そうな感じだったのよね」
「だから私、志摩くんとずっと話してみたいと思ってた、これが告白ね、で、次に……質問ね」
僕は過度の期待から落とされて一瞬言葉が耳に入らなかったが、良枝はこう続けた。
「志摩くんは中学二年生になってから何かいつも眠そうで、ぼーっとしてる感じに変わったのよね、それで私はあんたに興味を無くしたんだけど」
中学二年生、僕が自慰を覚えた学年だ。
「でも、今日のあんたは何故か中学二年生になるまでの賢そうな雰囲気とも、それからの馬鹿に見えるのとも違う、なんか馬鹿ではあるんだけど、なんか大人びたものを感じたのよ」
……。
「ねえ、あんた本当はどういう人間なの?」
「そんなの知らないよ、僕は自分を作って生きてないから、いつも素でそうなんだから答えようがない」
「……。答えないわけね、そう。だけど私は絶対探り出すからね」良枝は不満そうな顔をしていた。
その後は話すことはなく別れるところまで黙って並んで歩いた。
良枝と挨拶を交わし別れて帰宅してからも、僕の頭の中は良枝の質問の答えを探し続けていた。
本当はどういう人間なのか、と質問されて答えに悩むというのは少数派か?多数派か?わからないが、人間というのは自分の個性を簡単に答えられるほど自分を上手く客観視できるものなのか?
その問いは全部わからない。
家に帰りパジャマに着替えてから、僕は知世の作った夕食を食べ、昨日もしたのに今日もいつもの質問をしてきた知世にいつもと同じ答えで誤魔化し、僕は自分の部屋に入った。
ベッドに寝転び、良枝の質問、そして良枝、良枝、良枝と、良枝について考えていたがじきに気分に変化が訪れ、サキュバスの方へ思考が進んだ。
胸にいやらしさとどきどきした感情が流れ、僕はいつも通りズボンを脱ぎ始めた。時間は七時過ぎだった。
処理が終わり満たされた僕は、ぼんやりした頭で良枝のことを考えようとしたが、睡魔に襲われ、眠りに就いた。
眠る寸前、サキュバスに会いたい、と強く願った。
目を開けると、目の前は白い世界だった。ここは前サキュバスと会った夢の中だとすぐにわかった。しかしサキュバスがいない。僕が周りを見渡し何も無いので不安に駆られると、右肩を二回軽く叩かれた。
僕は驚き、咄嗟に前方に逃げて右後ろを向くと、右手を伸ばしたサキュバスがきょとんとしていた。今日は下着は身につけていたが、大事な部分のみ隠しているような際どい格好だった。そして今日気付いたがサキュバスにはギザギザの黒い翼があった。それはあまりにも小さく僕の掌くらいの大きさで、前の時は背中に隠れていて見えなかったのかもしれない。
「翼を気にしてるの?、私ね、まだサキュバスの中で赤ん坊だから生えたてなのよ、だから小さい」
「……」僕は緊張していて返す言葉が浮かばなかった。
「緊張してるの?まあわかるわよ、まだ二回目だものね、で、今日もするの?」そう言いながらサキュバスは微笑んだ。
「いや、今日は話だけ……」かろうじて返答することが出来た。
「なぁんだ、つまんない、私の本領発揮出来ないじゃない……まあいいや、何を話すの?」
「実は、今日学校で──」僕は良枝の見え方が変わったこと、良枝の態度の変化、良枝からの質問をサキュバスに話した。サキュバスは「良枝さんが気になるのね、あんた良枝さんとどうなりたいの」と聞いてきた。
「いや特にどうなりたいとかは……無い」と僕は返す。
「うん、ならどう思われたいの?、なんでそんなに悩んでるの?」
「それは……」僕は迷った。だが恥ずかしくても素直に気持ちを言うことにした。
「良枝には……好かれたい、今日普通の態度をされて嬉しかったから、また嫌われるのが怖いから答えが出せないんだ」
サキュバスは笑顔で僕の意見を聞いてくれた。そしてサキュバスは口を開いた。
4
目を覚ますと、朝の五時だった。
僕は自分の意見を言った後、サキュバスが最後にくれたアドバイスを思い出す。
この助言をサキュバスが言うと僕の目は覚めた。
何故か僕の頭はすっきりとしていた。頭というより気持ちが。
五時十分になり、僕はまだ早いが部活動に行く準備をした。
準備を終え、僕は自分の気持ちとサキュバスのアドバイスを頭の中で反芻しながら学校へ向かった。
朝、部室に向かっていると同じく女子の方の部室に向かっていた良枝とタイミング良く顔を合わせた。
僕達は挨拶を交わす。
良枝は僕と目を合わせないようにし怒りを見せてきた。
「昨日のことだけど」部室に入ろうとする良枝に声を掛けた。良枝はドアノブから手を離し僕の方を見て「答える気になったの?」と真顔で聞いてきた。
「いや答えられないよ」
「はあ?」良枝は眉間にシワを寄せる。
「答えは僕にもわからない、だからこれから見つけてほしい、良枝自身に」
「……何が言いたいの?」
「僕は昨日良枝と一緒に帰った時楽しかった、だからこれからも仲良くしてほしい」
「あんた……志摩くんって変わってるのね、よくわからない。だけど、だから興味が湧くのね。…………いわよ、私は志摩くんのこともっと知りたい」
この後、僕達は各自部活の準備をして、時間がくれば練習に取り組んだ。
良枝の方はわからないが、僕の方はいつもより練習に集中することが出来た。
僕はサキュバスにもらったアドバイスを思い出す。
自分の素直な気持ちを伝える。人間関係を作るにはそれが必要よ。
この言葉のお陰で僕は良枝と良い関係を作ることが出来そうだ。前にサキュバスを見てから良枝が幼く見えたと思ったが、それでも僕は良枝に話し掛けられて嬉しいのだ。だからこの結果になれて僕は満たされた気持ちになっている。もしかして幸せ、という感情かもしれない。
僕はサキュバスに感謝をした。
その日の帰りはまた良枝に誘われ一緒に帰ることになった。
良枝と並んで歩くと緊張もする、だけどやっぱり嬉しい。うん、僕は幸せなのだ。
「今日はなんか嬉しそうね、なんか良いことあったの?」
「多分今良いことの真っ最中だと思う」
「……本当に馬鹿ね」良枝は顔を背けた。顔が少し赤い。
「そういえばどうして中学一年生の時に話し掛けてこなかったの?」僕は質問した。
「ああ、それね、聞かないでよ、私自分から喋ったことない男子に話し掛ける勇気が無かったのよ、今はもうそんなことないけどね」
「そっか」
僕達は昨日と同じところで別れた。別れる前に良枝に携帯の電話番号を聞かれ、連絡先を交換した。
帰ってから夕食を食べると知世が「学校はどう」と聞いてきた。僕は「嬉しいことばかりだよ」と答えた。知世は首をかしげ「よくわからないけどなら良かったわ」と言った。知世は僕の報告を聞いて嬉しそうだった。
僕が部屋のベッドで寝転ぶと良枝からメールが届いた。
メールには"明日一緒に部活行こうよ"と書かれていた。
僕はその日は何もせずに寝た。夢は見なかった。
次の日、土曜日、朝良枝から電話があり、家を出る準備をした僕は良枝が選んだ待ち合わせ場所に向かった。
そこは帰り道で別れる場所の近くの喫茶店の目の前だった。
僕が行くと良枝は喫茶店の前で携帯を見ていた。
僕に気付くと良枝は「おはよう」と言い、僕もおはようと言うと、行こうかと言って良枝は歩き出した。
今日は土曜日なので授業は無く、午前中の部活だけだ。
なので、部活が終わった後良枝と一緒に帰ると、今朝の待ち合わせ場所の喫茶店で昼御飯食べよと言われた。
僕は母親の知世に昼御飯がいらないことをメールで伝え、良枝と喫茶店に入った。
「志摩くんはなんでテニスを始めたの」良枝はアイスティーを何も入れずそのままで飲んでいる。
僕は紅茶に砂糖を入れる自分を子供だと感じながら「何となく、面白そうだったから」と答えた。
「ふぅん」
「良枝はなんでマネージャーをしてんの?、運動神経いいのに」
「何となくよ。運動好きじゃないし」
「そっか」
会話が途切れると、ちょうどご飯が届いた。良枝はサンドイッチ。僕はハンバーグセット。
良枝は丁寧にいただきますと手を合わせてからサンドイッチを食べ始めた。僕もそれを見て同じようにいただきますと手を合わせた、本当は普段ご飯を食べる時何も言わない、良枝に礼儀知らずと思われたくなくて真似をした。
良枝が三つあるサンドイッチを一つ食べ終えた時に、一つ質問をしてきた。
「志摩くんはどうして真鉄高校に入ったの?」
「他にいけるところがなかったからだよ、そもそも探すのも面倒だったから、高校ならどこでも良かった」
「ふぅん」良枝はアイスティーを一口飲んで二つ目のサンドイッチを手に取った。
「良枝はどうしてこの高校に入ったの?」と僕が聞くと良枝は「内緒」と言って、サンドイッチを食べることに集中している様子を見せた。なのでそれ以上掘り下げて聞けなかった。
二つ目のサンドイッチを食べ終えた良枝は再び質問をしてきた。
「志摩くんは好きな人はいるの?」
いきなり突っ込んだ質問をしてきたな、と思いつつ、僕は「いないよ」と即答した。
それを聞いた良枝は僕の目を見つめそれからアイスティーを飲んだ。
それから良枝は三つ目のサンドイッチを食べ始めた。意外と食べるペースが早い。せっかちなのだろうか。僕の方はまだ半分も食べれていない。
やっとご飯が半分ほどになった時にサンドイッチを完食した良枝が質問をしてきた。何故サンドイッチ一つにつき一度質問をしてくるのかはわからなかい。
「志摩くんはどんな女性が好みなの?」
「和風の……美人」と僕は答えた。
「ふぅん、そうなんだ」良枝は意外そうな顔をしてから、アイスティーに視線を移しよくわからないけどと呟いた。
良枝はその後僕が食べ終わるまで話し掛けてくることはなく窓の外を見て考え事をしているようだった。
僕が食べ終わると、良枝は帰る?と聞いてきた。
僕がうん、帰ろうと答えると、良枝は一瞬寂しげな顔をしたが、すぐに戻り、お手洗い行ってくるわ、後で返すから払っといてと言って店の奥のトイレに向かった。
僕は伝票を持って二人分のお金を払って外へ出た。
レジ前の店員がありがとうございましたと明るく言う。
その声が何故かすぐにもう一度発せられ、外に出た僕は入り口を見ると良枝が外へ出てくるところだった。
良枝は僕の方に来て「帰るわよ」と言った。少し声が冷たくなっていた。前のように。何故だ。
僕達はその後良枝がお金を返そうとして僕は断るがいいからと無理矢理お金を返してくるやり取りはしたが、それ以外に会話はしなくて、じゃあねと言い合って解散することになった。
良枝は早足で帰っていった。やっぱり良枝は怒っていると思ったが、原因はわからなかった。
僕も家へ帰った。
家に帰ると知世が、友達とご飯食べてきたの?と聞いてきた。僕が頷くと、家にも連れてきていいからねと微笑んで言い知世は台所に戻っていった。
僕は部屋に行き、夕食まで寝ることにした。いつもだったら気持ちに整理がつかない時には〝気持ちいいこと〟をしてから寝るのだが、何故か良枝のことを思うとそれをする気にはならなかった。
僕はそのまま寝た。夢は見なかった。
「……、ご飯よ」と知世の僕を呼ぶ声で目を覚ました。辺りはまだ明るいが六時を過ぎていた。
僕は一階に降りて台所に入った。
料理は明太子スパゲティだった。僕の大好物だ。たくさん作ってあって、知世にどうしてこんなにたくさん、と尋ねた。すると、あんた最近学校が楽しそうじゃない、なんか母さんまで嬉しくなってきちゃって、あんたの大好物作ったのよと笑顔で言った。
ありがとう、と言うと、いいえこちらこそと知世は返してきて、あんた変わったわね、なんか前より良くなったよと言った。
「そうかな」と僕は返す。そしていただきますと手を合わせて、スパゲティをフォークに巻き付けた。知世はその様子を見て微笑んでいた。
なんか良いことばっかだな、大丈夫かなと僕は思ったが、昼の良枝とのやり取りを思い出し、そんなことないかと少し気が滅入った。
満腹になるくらいスパゲティを食べて、僕はごちそうさまと言って、皿を知世に渡した。知世は僕がご飯を食べ終わるまで必ず僕の向かいに座りながら待つのだ。
知世ははい、と嬉しそうに皿を受け取って流しで洗い物を始めた。
自分の部屋に戻り僕は携帯電話を開いた。
たまにはネットを見てみようと思い、検索エンジンで"高校生女子 気持ち"と検索してみた。
しかし見たい情報が出てこないので、言葉を少し変えた。
"高校生女子 急に不機嫌"と検索すると、一番上に女性を怒らせる男の特徴というサイトが出てきた。僕はそのページを開いた。
そのサイトはいくつか女を怒らせる男の特徴が項目に分けられていて、一つ一つ内容を見ていく。共感出来ないものが多いが、下の方に進んでいくと一つ気になるものがあった。
"誘ってほしい仕草に気付かない男"僕は良枝が僕を誘っていたなんて考えもしなかったが、何故かこの項目が他人事ではない気がした。
その項目の内容は、鈍感な男はまめに女性の動きを見ましょうというものだった。正直、僕は自分が鈍感な男に当てはまると思ってないが、念のため覚えておこうと思った。
続けて、他の項目を見ようとサイトの下に進んでいこうとした時、電話が掛かってきた。
携帯の画面が切り替わり皆越良枝 090-~~~と表示された。
僕は電話に出た。するといきなり怒っているような早口でもしもしと良枝は言った。
僕も同じ言葉を返すと、良枝は明日空いてる?と聞いてきた。僕は質問の内容がわからず一瞬考えると、良枝はまたしても早口で明日暇かって聞いてんのよ!と捲し立てた。暇だよと返すと、良枝は朝集合か昼集合かどっちがいい?と聞いてきた。僕が黙ると、わかった昼集合がいいのねと言った。僕はわけがわからず何の話?と質問すると、良枝はごめんね、急だけど明日一緒に行動するわよ、文句無いよね?と捲し立てる。僕は黙ると怒られると思い、うん大丈夫と答える。途端、良枝は機嫌が良くなったように、はーいありがとー、なら昼の一時に前の喫茶店で待ち合わせね、じゃあまた明日と言って電話を切った。電話越しでも良枝の笑顔が想像出来た。
僕はいきなり埋まった明日の予定に対して、ではなくデートをするということに実感がわかず少しの間携帯電話を握って呆然とした。
その状態から抜けてまず頭に浮かんだ言葉は、良枝は何を考えているんだ?だった。
その後、僕は明日着ていく服を選んだ。
「青いGパンに……半袖の……薄い赤シャツ……と黒いリュック」これが僕の精一杯だ。僕はこれで明日に臨む。それらを学習机に付いてきたシンプルな木の椅子に乗せて僕は部屋の電気を消して寝る準備をした。
今日は射精はしないつもりだ。サキュバスにまた助言をもらいたいと思ってもいた。
ふと明日のことを考える。初デート。一緒にご飯を食べてどこかで遊んでその後は……。僕はあらぬことを想像した。気持ちはそっちの方へ走っていき、僕はパンツを脱いだ。
精子を拭いたティッシュを捨て短パンを履いた後はすぐに眠りについた。
5
目を開けると夢の中の白い世界に来ていた。
突然「おはよう」という声が聞こえ後ろを見るとサキュバスが両手を上にあげ伸びをしていた。僕と目が合うとあくびをした。寝起きのようだ。
「緊張してる?これから初デートだもんね」
「あぁ、実はね、私、あんたの感情が伝わってくるのよ、申し訳ないけど全部筒抜け。考えてることもだいたいわかるよ」
「そうなのか」
僕は少し恥ずかしくなったが、サキュバスは実生活には関係のない存在なので気にする必要も無いと思った。そもそも裸の付き合いもしている。しかし僕はサキュバスのことを見た目と性格の軽さ以外何も知らない。
僕はサキュバスについて質問をすることにした。
「何個か聞きたいんだけど……」
「何?」サキュバスは微笑んでいる。
「サキュバスの正体は何なの?、僕の妄想なのか、それとは別の……」
「ナイショ」
答えを言う気のない態度に僕は少し苛つく。
「……サキュバスは何がしたくて僕の夢に現れる?」
「ナイショ」
「……わかった、もうサキュバスについては聞かない、だけど一つお願いがある」
僕の頭の中に良枝の姿が浮かぶ。
「サキュバス、前みたいに僕を助けてくれるか?」
サキュバスは「今日は何を困ってるの?」と言った。
目を覚ますと窓から光が差し込んでいた。僕は時間を確認する。11時半頃だった。僕は風呂に入り、その後昨日準備した服に着替えた。昼ご飯を食べ終わり時刻は12時前。僕は少し早いが家を出て喫茶店に向かった。
知世には友達と遊びに行くと言った。これなら嘘ではない、良枝との関係は友達と呼んでもいいくらいにはなっているだろうから。
恋人、ではない、知り合いでもない、やっぱり友達で合っているだろう。
12時半頃に喫茶店前に行くと、既に良枝は待っていた。良枝は緑色のスカートにフリフリの付いた白い半袖シャツを着ている。
僕に気付いた良枝は一瞬眉間にシワを寄せ横顔のまま僕を睨んだが、僕が近付くに連れその表情は和らぎ、僕がそばに行きおはようと言う頃には僕の方を見て微笑んでいた。良枝もおはようと返してきた。
二十分後、僕は家に最も近い図書館の一階の椅子に座り、勉強する学生のそばで悪魔の種類が書かれた本を読んでいた。
良枝はどこにいるかわからない、図書館のどこかで大人が読むような難しそうな本でも読んでいるのだろう。あくまで僕の想像だが。
図書館デート。共に昼食を済ませてから待ち合わせ場所に来ていたので、出会ってすぐに僕達は図書館に向かった。ここでのデートは良枝の提案であり、また僕は予想外の中に入っている。最近の良枝と行動するといつもそうなる。
……楽しいのだが、良枝のことや自分の体裁を気にしてどうすれば良くなるか悩み過ぎて頭が割れそうになる。
僕は本を読み始める前に昨晩のサキュバスのアドバイスについて考えた。
「最後まで良枝を怒らせずにデートを終わらせるにはどうすればいい?」僕はそう質問をした。それに対してサキュバスは「自分の心ばかり気にしてないで、彼女の心を気にして考えること、彼女の気持ちがわかれば怒らせることは無いから」と言った。
つまり良枝の気持ちを考えろ、ということだろうな、と僕は考えを再確認し、悪魔の本を開いた。
本を開く時に音をたててしまったので近くの学生が気が散ると言いたげな目を向けてきたが、僕は気にしないようにして悪魔の本を読み始める。
見つけた、序盤を少し進んだところでサキュバスについて書かれたページがあった。
サキュバス……男性の夢の中に現れ男性を魅了し生気を奪い取る悪魔。またの名をリリン・デーモン。サキュバスという名前の由来は不倫相手としての愛人、恋人を指すsuccubaから。サキュバスを本当の恋人と思ってしまう男性はサキュバスにとって良いエネルギー資源となる。また男性形は──。
夢中で読んでいると後ろから声を掛けられた。
「そんなの興味あるんだ」振り替えると、本を数冊持った良枝が眉間にシワを寄せていた。
「いやただの勉強だよ」僕は誤魔化し、良枝が持つ本について質問した。
「あぁ、全部料理の本だよ、借りようかなと思って」
良枝がそう言った時に近くで勉強をしていた学生がしびれを切らして、勢いよく勉強道具を片付け別の席に移動したので、僕達も場所を変えて話すことにした。良枝は料理の本を借り僕は悪魔の本を元に戻して、その後、二人で図書館の玄関に繋がる廊下に行くと、勉強の合間の休憩をしている女子高生が立ちながら何人か話していた。
良枝は女子高生を一瞥し玄関へ向かう。僕も付いていく。どうやら出るつもりらしい。
玄関の目の前で、良枝はこっちを見て帰ろう?と聞いてきた。僕はそれを聞くの遅いだろと思いながら、うんと答えた。
僕達は図書館を出た。日差しが眩しく僕達は同時に目の前に手を広げた。それに気付いた良枝がこっちを見て、ふふっと笑う。
僕は冷静を装うとしたが、気持ちを抑えきれず目を逸らす。
良枝は急に機嫌が良くなったように声が少し高くなり、行くわよと大きな声を出した。
先を歩く良枝に僕は付いていった。
次の遊び場所は僕達の住む住宅街の中の公園だった。何やら良枝は僕に質問したいことがあるらしい。道中でそう言われた。その質問は歩きながらではしないから公園に行くわよと言われた。僕は文句を言わずに従った。良枝に流されることは苦ではなかった。
良枝が公園のベンチに座ったので、僕も少し間をあけて隣に座る。座る瞬間良枝は横目で僕をじっと眺めたが、僕にはその目線の理由がわからなかった。
良枝は図書館で借りた料理の本を一冊手に取り真ん中くらいのページを開き、僕を見て口を開いた。
「ねえ」
「何?」
「志摩くんって確かスパゲティが好きだったよね?」
「そうだけど、なんで知ってんの?」
「何言ってんの、志摩くん二年生になった時の自己紹介でそう言ってたじゃない」
「あぁそうだったっけ」僕は安堵した。
「実はたまたま私もスパゲティ作るの得意なんだよね。……麺を茹でる方じゃないよ、ルーの方だからね」
「そうなんだ」良枝は何が言いたいのだろう?
「だからさ、今度私のスパゲティ食べてみない」
「え?」僕は固まる。またも予想外の事態だ。
「嫌なの?、志摩くんに料理のアドバイスをもらいたかったんだけど」
「……どういうこと?」僕はわけがわからずそう聞き返した。
「あーそっか……志摩くんは知らなかったね。いいわ教えるわ。私ね、料理人になりたいんだ。人に私の料理を食べてもらうこと。それが私の夢なの」
そう言って良枝はにっこりと……口をアーチ型にして優しい目付きで笑った。
夢。僕には無いものだ。そして今僕は良枝に今まで持たなかった感情を抱いた。良枝のこの笑顔をもっと見たい、良枝のことをもっと知りたい、という思いだった。
僕は夢を語る良枝に言葉を投げ掛けることが出来なかった。こんな綺麗なものを僕が手を加えてはいけないと思った。
その後僕は料理のこと考えとくよ、と良枝が怒ることはわかっていたがそう返した。その返事に対して良枝は料理の本を強く閉じ、うん待ってるからと言い、じゃあそろそろ帰ろうかと言って立ち上がった。
そうして僕達のデートは終わった。
その後家に帰り寝る前に日課のごとく射精を済ませ眠った僕は夢を見た。
白い世界の中で僕はサキュバスにデートで感じた思いを打ち明けた。
「……あんたは彼女のことをもっと知りたいけど、あまりにも彼女が可愛くてこれ以上関わるのが怖くなった、そういうことかな?」サキュバスは落ち着いた声で僕の意見をまとめた。
「可愛くて、かはわからないけどそうだと思う、僕は良枝があまりにも……うーん、とにかく良枝と関わることが怖い」
「その関わることが怖いってのも嫌われたくないってことだよね。いいじゃない、あんたまたしても彼女を怒らせたんだから、もう怖いことないでしょ、全くせっかく怒らせないためのアドバイスあげたのに……あんただめだめね」サキュバスは溜め息を吐く。
「うん、ごめん。てか前から言いたかったけど良枝は彼女じゃないからね」
「知ってるよ」サキュバスはもう一度溜め息を吐いた。
「悪いけどもう時間だわ、あんたもっとしっかりしなさいよ、彼女と良い関係を築きたいならね、じゃあ、またね」
サキュバスのその言葉と同時に目は覚めた。目の前は明るい。朝になっていた。
僕は寝坊をしなかったのでゆっくりと起き上がりぼやけた頭で思考を始める。
今日は月曜の朝。憂鬱な気分になる。その理由は今日は学校が始まる日だからだけではなく、良枝を怒らせていてそれをなだめる方法が思い付いてないことも気分を沈ませる。
「あぁ」嘆く声を出しつつ僕は学校へ行く準備を始めた。
登校中、僕は良枝の機嫌を取る方法を考え続けた。
しかし、良い案が浮かばぬまま、良枝と待ち合わせに使っていた喫茶店の前を通ると曲がり角から良枝が出てきた。
僕の心拍数は急激に上がり思考はあたふたした。
万事休すと思った時、それまで僕を見つめていた良枝はにこりと笑いおはようと挨拶をした。
僕の頭の中に疑問符が並ぶ。
おはようと返しながら、僕は良枝のことが全くわからなくなってしまった。
僕はまず、良枝に昨日はごめんと謝った。良枝は何のこと?と聞いてきた、顔は怒っていないが口調が冷たい。
「料理のことすぐ返事しなくて」
「その事か、いいわよ、嫌なら食べてくれなくても」
「いや、ごめん、食べるよ」
「そんな怒らせたくないからいやいや食べるなんてことされたくない」良枝は眉間にしわを寄せる。僕は断ったら怒るのは誰だよと思った。
僕は良枝の機嫌を取らないといけないと思い意を決して思いを打ち明けることにした。
「本当に嫌じゃないよ、昨日返事が出来なかったのは、料理を語る良枝があんまりにも……、あんまりにも」恥ずかしくなり言葉に詰まった。
「あんまりにも、何よ」良枝の顔付きは少し優しくなった。
「綺麗だったから」言いながら顔がほてった。
良枝はからかってるの?と言い眉間にしわを寄せようとするが、同時に緩む口元を抑えようとして変顔をしているようになっている。
「私、綺麗なんて言われたことないよ、志摩くんは本当に変人ね」良枝は怒るふりをするのは諦め、微笑みながらそう言った。
「本当に私のスパゲティ食べてくれるの?」良枝は少し不安そうな顔をした。
「良枝がいいならどれだけでも」僕はそう答えた。
「わかったわ、じゃあ準備が出来たら連絡するから、だけど多分夜になると思うよ、それでもいい?」
僕は知世のことが頭に浮かんだが、まあ知世は何も言わないだろうと思い「いいよ、いつでもいいよ」と答えた。
良枝はありがとうと言った。暖かい声だった。
その後、僕達は別のことを話しながら学校に向かい、学校に着くとそれぞれ部活の準備を始めた。
その日は授業中も楽しい気分で過ごせて時々良枝と目が合うと珍しく良枝は笑顔を見せてくれた。
この最近の良枝と関わる日々、この日々は楽しい。僕は学校生活を楽しいと思ったことはないが、今は楽しいと思える。
僕は良い気分のまま午後の部活に励んだ。
しかし部活の最中に、今まで時々からかってきていた健太郎が話し掛けてきた。一人で。
「よお」健太郎が言う。
「どうしたの?」僕が聞く。思えば健太郎に対して普通に接するというのはやったことがないと思った。僕はまた小言のようなことを言われると思った。
ところが健太郎は爽やかに笑って「最近お前良い顔してるじゃん、良枝ともなんかこそこそ話してるしさ、もしかして良枝とできたのか?」と聞いてきた。
できたって何だ?、付き合ったってことか?と僕は解釈し、それはないよと答えた。失敗だった。
良枝は僕のその言葉を聞いていたと後にわかる。
健太郎はだよな、だけど仲良さそうにしてるじゃん、まあ頑張れよと言って離れていった。
僕の心臓は動きを増していた。健太郎が離れてから少しの間僕は自分が呼吸を止めていたことに気付く。健太郎に持つ苦手意識がそうさせていて、今回初めて普通の会話をしたが苦手意識は消えなかった。
部活が終わり、僕は良枝に誘われ一緒に帰ることにした。
帰り道、良枝は笑顔で話すがどこかいつもと違う感情を抱いているように見えた。しかし僕にはそれが何なのかわからなかった。
僕達が別れる道の近くを歩いている時、突然、良枝はねえ志摩くんと切り出した。
僕は何?と聞く。
「今日志摩くん部活の時健太郎と話してたよね」
「話したよ」僕は良枝が健太郎を下の名前で呼ぶことに嫌な感情を覚えた。
「私、聞こえてたよ、志摩くんが話してたこと」
「志摩くん、私と付き合ってるって思われて嫌だった?」良枝の顔はまたしても今まで見たことない表情を見せていた。良枝の少しつり上がっている鋭い目は今は悲しみを表していた。
「嫌じゃない、嫌なわけないよ」と僕は答える。既に僕は良枝に心の内を曝け出すのを躊躇わなくなってきていた。
良枝は黙り込み、目元を袖で強く擦ってから「ならよかった、ごめんね、変なこと聞いて、それと今の質問は忘れて」良枝の顔は普段の強気な顔に戻ってきていた。
「わかった」僕はそう答えながら良枝の僕に対する気持ちがわかった。まさか僕が人に想われる時が来るなんて、そう思った。
それから僕達は話すことなく別れ道に着き、また明日と挨拶を交わし別々の道へ進んだ。
僕は最後に複雑な気持ちを覚え今日の学校生活を終えた。
人に好かれる、それだけのことがたくさんの感情を生む。単純な嬉しさ、それに続いて、自分でいいのかという罪悪感、嫌われたくないという恐怖、自分次第で相手が離れてしまうという不安が心に並ぶ。
僕は帰宅してからも良枝のことが頭から離れない。どこか浮かない顔をしていたのだろう。
夕食の時、知世は今日は元気ないねと言ってきた。僕は別に何もないよと答えた。知世は心配そうな顔をしていた。
夕食を食べ終え、僕は自分の部屋に籠った。
良枝のことが頭から離れない。どうして僕なんだろう?、その疑問が解消したくても出来なかった。
これは考えても意味は無いかもしれない。どうして僕を選んだのかを知るのは良枝だけだから。僕がどれだけ考えても答えはわからない。
いつか教えてもらおう、僕はそう決意して眠りに就いた。射精はしなかった。夢も見なかった。
6
「けほん、けほん」
僕は今教室で良枝と一緒に昼御飯を食べている。サンドイッチを手に持ちながら良枝は眉間にしわを寄せ咳をしている。風邪を引いたらしい。
それでも休まないところが良枝らしいと思いながら、僕は母親の作った弁当の具を箸で取る。
「そうだ」サンドイッチを一つ食べ終えた良枝が口を開く。
「今度、前言ってた理想の女の人の絵見せてよ」良枝はぎこちない笑顔を作る。風邪でしんどいのだろう。
どうしてそんなもの見たいのだろう?と疑問に思いながら、僕は「絵下手だけど、それでもいいなら」と返した。
良枝はいいよ、と言って笑顔を作った。
良枝に好かれていると気付いたあの日以降、僕と良枝は距離が縮まった。もう友達と言うには近すぎるくらいだと僕は感じていた。
僕は良枝をどう思っているのだろう。よくわからない。良枝と一緒にいたい気持ちがある、しかしこれが好きだという感情かどうかは、恋愛経験の無い僕には判断できない。ただ良枝とはこれからも仲良くしたい、その為に付き合う必要があるなら僕はそうしたい。どんな風でもいい、良枝と関われるなら。僕の気持ちはそれだけだ。……と思う。
その日はその後特に大きなことは無く平穏に学校生活を終えた。
僕は家に帰り夕食を食べた。
夕食はオムライスで、知世は今日はなんか浮かない顔してるねと言ってきた。息子をよく見ている親だな、と思った。知世に隠し事は出来ないかもしれない。
その後は寝るまで何もせずベッドの上で仰向けのまま動かず天井を眺めていた。
何時間が経ってから眠くなり僕は電気を消して眠った。寝る直前に明日の数学の小テストの予習をやっていないことを思い出したが、まあいいか、朝やればと思い、眠りに就いた。
その日は夢を見た。白い世界でサキュバスが現れる夢だ。
サキュバスは一方的に勉強はちゃんとやろうねと言った。その言葉を受け取り僕は返事をしようとしたが、その前に目が覚めた。
朝になっていた。
昨日良枝は風邪で苦しそうだったが、今日は学校に来るだろうか。
僕はそんな心配をしてから学校に向かった。
朝練の時、良枝の姿は無く僕はもしかしてと思った。
朝練が終わり教室に行っても良枝はいなかった。良枝は休みだ、と僕は思った。
昼休みになり、僕は一人でご飯を食べようとすると健太郎が話し掛けてきた。
「よお、お前の彼女大丈夫なのか?」健太郎は笑ってはいるが、軽さが無く無神経とは感じられない口調だった。良枝を彼女と言う部分は間違っているが。
「ただの風邪だよ」と僕は返した。
健太郎はそうか、寂しいなーと今度は軽口のつもりらしく、にやにや笑いながらそう言って廊下にいる友達の方に向かっていった。
僕は特に苛つくことも無く平坦な心のまま弁当箱のふたを開けた。
放課後、部活が終わり帰ろうと校門を通り抜けようとすると携帯電話が鳴った。
電話が掛かってきており、相手は良枝だった。
僕は何の用事だ?と疑問に思い電話に出た。
もしもしという元気そうな声が聞こえた。良枝の声だ。
僕はもしもしと言ってからどうした?と良枝に聞いた。良枝は一瞬間を開けてから、あんたこれから暇?と聞いてきた。
暇だけど、と返すと、良枝はならこれから私の家に来てよ、料理作るからと言った。
僕は風邪なんじゃないのか?と思いながらも、わかった、いいよと言い、良枝と何時に良枝の家の行くかを決めて電話を切った。
電話を切ってから頭のすみに追いやっていた事実を認識し、僕の心拍数は上がった。
これから、生まれて初めて女子の家に行くという事実が僕の頭の中を占めた。
僕は早くも恥ずかしい気持ちになりながら家に帰るために早足で歩き始めた。
自宅で知世に夕食を外で食べてくることを伝えると笑顔でいってらっしゃいと送り出してくれた。
「いらっしゃい」良枝が笑顔で言う
L型の垣根に囲まれ、少人数ならバーベキューが出来そうな広い庭を横切り玄関のチャイムを押すと良枝がすぐに出てきた。
「待ってたよ、入って」良枝はとても楽しそうでいきいきとしていた。
「お邪魔します」と良枝の両親にも聞こえるよう大きめの声で言うが、すぐに誰もいないよと良枝に教えられた。それを聞いて僕の心臓はどんどんやかましくなっていく。
顔を赤くしながら良枝についていくと食卓に座らされた。
「実はもう作ってあるのよ、学校さぼったくらいだからね」
なるほど、と思う。真面目な良枝が学校を休むほど、料理が大事なのか。
「はい、どうぞ」良枝はスパゲティーの盛られた白く丸いお皿を僕の目の前に置いた。
「ナポリタンよ」良枝はそう言い笑顔を作る。
次にフォークを渡されて僕はいただきますと言って、フォークにスパゲティーを巻き付けた。
良枝のナポリタンは美味しかった。甘く優しい味で、次から次へと食べてしまった。
十分もたたずに完食した僕に、良枝は食べるの早いよと苦笑した。少し不安そうでもあった。
「美味しかったよ」素直に感想をのべると、良枝は「そう」と呟き俯く。その仕草は照れ隠しだと思うが顔は微笑みを隠しきれていない。
「その一言で十分だわ、アドバイスもらおうと思ってたけど、思えば素人の意見聞いても意味ないもんね。食べてくれてありがと。今からどうする?もう帰る?」
料理を食べる約束の時に、アドバイスをしてほしいと言われていたことを忘れていた僕は、良枝のその言葉に助けられた。
「うん、帰るよ」そう言ってから、ごちそうさまと言って良枝に皿を渡したが、すぐにごめん、僕が洗うわと言い直し皿を引っ込めた。
「いいよ、私が洗うよ」と言って、良枝は皿をひょいっと僕から取った。
意思の弱い僕はその勢いに負けて、わかった、よろしくと言ってしまった。
皿を流しに置いてから、良枝は「もう帰るんだよね? 私コンビニに行きたいから途中まで一緒に行っていい?」と聞いてきた。
「うん、行こう」僕達は玄関を出た。
家の鍵を閉めた良枝と並んで歩き始める。外はもう暗くなっていて、暗闇に半分体を奪われた月が星をつれて輝いている。街頭に照らされながら隣を歩く今日の良枝は見たことのない美しさを放っていた。
今までは僕に向けて鉄壁のような圧力を持っていた良枝なのだが、今この瞬間はむしろ僕を自分の方へ引き込もう、寄せ付けようという雰囲気を感じた。だからこそ、僕は良枝から目が離すことができなくて、目が合うと、良枝に「何みてるの?」と怪訝な顔をされた。
「好きだよ、良枝」とっさに僕は本心を明かした。
場の空気が変わり、良枝は目を見開き、僕は自分が何を言ったのか理解した。
「いや、あの、人として良枝が好きで、あっと良枝のナポリタンがすごい好きだよ、うん」僕は誤魔化すだけ誤魔化してみる。
良枝は前を向いてため息を漏らして黙った。何を思っているのか言う気はないらしい。
僕も前を見て歩くと、いくじなし、と聞こえた気がしたが、良枝を見ても僕には関心のない様子で前を見て歩いていた。
その後は会話もなくコンビニに到着した。
良枝は今日はありがと、また学校でねと表情を作らず味気もない挨拶をして、僕がうん、またねと言うと早足でコンビニに入っていった。
怒らせたらしい。
僕はその日の晩自分のベッドに寝転がり、帰り道のことを振り返った。
気付いたら眠っていて、いつものごとく白い世界に入り込んだ。
サキュバスも帰り道の良枝のように無表情で僕をみていた。
7
「そろそろあんたも飽きてきてるでしょ」サキュバスは急に口を開いた。
「なんのこと?」僕が聞くと、サキュバスは「得たいの知れない私からアドバイスをもらうって状況も変化がないとつまらないわよね」と持論を語る。
「どういうこと?」質問ばかりしながら僕は自身が理解が遅くて会話しづらい存在だろうなと思った。
「私はサキュバス、人間の生気をもらって生きている夢魔だって、あんたは思ってるわよね、だけどね、その姿はただの仮面であって、正体は全く違うものなのよ」
僕は黙って聞く。
「私はね、あんたのことよく知ってるでしょ、そう他人とは思えないくらい、そりゃ当然よ、私はあんたから生まれた存在なんだから」
「私はサキュバスなんかじゃない、その名前を使ったのはあんたの歪んだ性癖が関係してるだけで、正体は違う、私はあんたの理性そのものよ、別の言い方をすればまだ幼いあんたの心が追い付いてないから機能してないだけで、本当は持っている〝正しい考え〟〝理想的な考え〟というのが私。あんた、志摩くんは今成長期であり必死に成長したいと思っている、だから私は夢に現れる、あんたの成長を上手く進ませるために私は存在する」
「この言葉に一切嘘は無いわ、私は神秘的な存在なんかじゃなくて、あんたが必要だと感じてる考えをあんたに意識的に持たせる、あんたの機能の一部よ」
「話はそれだけよ。大事な機能をこんな淫乱な姿にさせるなんてあんたは本当に変態ね。どうかその異質な性癖は彼女にばれないようにしなさいよ。嫌われるかもしれないからね」
「あんたまた彼女を怒らせたらしいけど、今回は自分でなんとかしなさい、だってあんた今回のことは私に頼るまでもなくもう解決方法わかってるんだから」
僕に口を開かせず、話し続けたサキュバスが口を閉じた瞬間に僕は目を覚ました。
幻想的なものが本当は現実的なものだとわかった日の朝は、とても目覚めが良くて頭が冴え渡ったものに感じた。
「おはよう」部室に入る前に会った良枝は無表情だがいつもと変わりなく挨拶をしてきた。しかし僕がおはようと返すと、はい、と言って去っていった。いまだに怒っているらしい。
僕はその時、漠然と今日良枝にどう接するかを決めた。
僕は昼休みまで良枝に話しかけもせず、昼休みの時に良枝に部活が終わったら少し話したいと告げた。
良枝はぶっきらぼうにいいわよと言った。
僕はこれで自分の思い通りに進む、と思ったが、放課後に予期せぬことが起きる。
部室へ向かっている時に、健太郎が今からカラオケに行くんだけど、お前も来ないか?と誘ってきた。部活はさぼる気らしい。
僕はごめん、やめとくと断ったが、健太郎は良枝も来るぞと言い、僕の心は少し乱れた。
話があるって言ったのに、なんで? と思った。
僕が黙っていると健太郎はじゃあ行こうぜ、俺もお前と話したいんだと言って、僕の手を引っ張った。
僕が思考を放棄して健太郎についていくと、下駄箱の前で、志摩くん? と僕を呼ぶ声がした。
その声は良枝のもので、健太郎は良枝を見てばつの悪い顔をして、じゃあな志摩と言って、校庭へ出た。
「ちょっと今から部活でしょ」と良枝が声を張り上げるが、健太郎は行ってしまった。
残された僕に良枝は何してんのよ? 志摩くんもさぼる気だったの? と問い詰めてきた。
「違うよ」と僕は答えた。
「ならいいわ、行こ」と良枝は歩き出した。
僕は黙ってついていこうとしたが、やっぱりやめた。意を決して声をあげた。「僕が好きなのは、スパゲティーじゃない、あと人として良枝を好きだと思ったこともない」
振り返った良枝は驚きを隠せない状態で僕を睨む。
「僕は一人の異性として、男として良枝が好きだ」言葉と同時に僕の左目から涙がこぼれた。
「私も志摩くんが好きよ、だけど話は部活が終わってからにしない? それとも健太郎みたいに二人でどこか行っちゃう?」良枝は微笑んだ。悪い微笑みだった。
「部活はいつでもできる」と言って僕は良枝の手を引っ張り外へ向かって走った。
「ちょっと志摩くん! かばん持っていかないと!」
その声を無視して僕は走った。良枝をつれて。学校の近くの高台まで。
高台を登り、二人で夕日を眺めた。周りには誰もいない。二人きりだ。
「きれいでしょ」僕が聞くと、良枝は「うん、きれいよ」と返した。
夕日に染まるビル、マンション、住宅街、森などを眺めながら、良枝はいきなり「志摩くんは私でいいの?」と聞いてきた。
「僕の意見はどうでもいいよ、それよりも良枝の返事が聞きたい」
良枝は優しく微笑み「もちろんよ、私は好きでもない男に夢を語らないわよ」
「これからよろしく」良枝は僕に手を差し出した。
僕はそれに応じる。
「よろしく、良枝」
「これからは拓海くんって呼ぶからね」拓海とは僕の下の名前だ。
そんな感じで僕と良枝にスポットライトを当てた物語は終わりを迎える。
その日の夜、僕は寝る前に〝良枝〟と呟いた。前に、サキュバスと出会った日の朝に呟いたように。
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