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6. ため息は幸せが逃げると言うが、ストレスも逃がすらしい
「はぁ……」
自然とため息が漏れる。リッシュの目の前には立派なドア。そのドアをじっと見つめるリッシュ。
(しょうがない、行くか)
よもや叱責される事なんてないだろう。それどころか将軍であれば、どんな与太話でも興味を持って聞き入れてくれる。分かっているのだ、そういうお方だと。それでも毎回嫌になる。今回の馬鹿話は果たして……と。
トントン
「リッシュ・ハッター准将であります」
「良いぞ」
「は、失礼致します」
◇◇◇
「――ふむ、話は分かった。で、部下からの提案との話だが……アステルだろう?」
一瞬驚いた表情を見せるリッシュ。が、よくよく考えれば不思議な事ではない。何故ならこのやり取り、今回が初めてではないからだ。
「……は。さすがは将軍、ご明察です」
将軍と呼ばれた男は椅子の背にもたれフフフ、と笑う。
オラジル・マシー将軍。帝国治安維持部隊第一師団の師団長であり、帝都の治安の全てを取り仕切る責任者である。冷静で温厚、人格者として知られておりリッシュ達准将以下の者達にとっては良き上司である。しかし一方で、敵と定めた相手には一切の容赦をしない冷徹な一面も持つ。
「毎度毎度あの男は……面白い事を考える。現状の問題点に有効な手立てだけではなく、金や威光、先進性といった、いかにも陛下がお喜びになりそうなアメまで用意してくれるとは、至れり尽くせりとはこの事だ。向かいのカフェのセットメニューでさえこんなにも充実はしてないぞ? しかもタイミングも素晴らしい」
「タイミング、でありますか?」
「そうだ。今日の昼過ぎ、改めて陛下が厳命されたそうだ。国内及び帝都の薬物問題を打開せよ、とな。それを受けつい先程、薬物に関する事であればどんな些細な事でも報告せよ、と軍務卿より指示が飛んでいる。そこへ来てすぐにこの提案だ、他の将軍達に先駆けて軍務卿へご提案出来るというのはまさに幸運。私にとってはこの提案こそ大いなるアメ、という訳だ」
「は、左様でしたか……あ、ではあの……この話は上へ?」
「無論だ。今夜中には軍務卿へお伝えする。恐らくはこの話、通るだろう。目の前にこんな旨そうなエサをぶら下げられて、食い付かずに我慢できる程今の帝国の腹は満たされてはいない。いや、軍務卿の、と言い換えるべきかな?」
「左様ですか……」
またしてもアステルの思う通りになってしまうのか。
リッシュは辟易とした。別にアステルを憎い訳でもなく、嫌っている訳でもない。将軍も喜ばれているし、恐らく自分もこの提案により幾ばくか恩恵を受ける事になる。何より帝国の混乱を収める事が出来るかも知れないのだ、素晴らしい事である。
リッシュがうんざりとしているのは、こんな馬鹿げた話を上に持って行って良いのだろうか、と毎回思い悩む時間の事である。
理解ある上司、これだけ巨大な国になっても尚、守りに入らず常に新しい事を模索し実行しようとする皇帝陛下、そしてそんな陛下のお考えを忠実に体現しようとする帝国の姿勢、実に素晴らしい。
故にこの手の提案は余程酷いものでない限りは、途中で排除される事なく上まで通ってしまうのである。毎度思い悩むあの時間は全くの無駄ではないか? 自分の所で精査せず、丸々上へ上げてしまえば良いのではないか? しかし根が真面目なリッシュの性格上、そんな適当な仕事は出来ないのだ。だからこそのジレンマである。
「ふむ、疲れているな。アステルのお守りは大変か?」
油断した。顔に出てしまっていたようだ。
「いえ、そのような事は……」
「准将とアステルの仲が宜しくないようだ、そんな噂が流れている。知っていたか?」
「な……誰がそのような事を?」
「ま、おおよそ見当は付いているが……端的に言えばやっかみ、嫌がらせだ。私に対するな。優秀な貴様らを下に置いている私が、羨ましく見えるのだろう」
「嫌がらせ……そのような事が……」
「別に気にしてはおらん。それに噂通り、という事ではなかろう? しかしアステルは中々に癖が強い。准将の性格を考えると難儀する場面も多いと思うが……あまり邪険にせず上手くやれ」
「いえ、決して邪険になどという事は……」
「上手く操縦し利用しろ、という事だ。あいつは皇女殿下の覚えもめでたい。恩を売っておけば将来いい目を見られるかも知れんぞ?」
「は……」
「それでもその荷が重いようなら相談しろ。少しくらいなら背負ってやる」
「……は、過分なお心遣い感謝致します。しかしながら、その荷は私の職責において背負うべきものかと。潰れぬよう適度に手は抜きますゆえご安心を」
「ハハハッそうか、ならば良い。ただ、そうだな……近い内に二人でディナーにでも行ってこい」
(……は?)
「あの……二人で、とは……アステルとで……ありますか?」
「そうだ。店はこちらで探しておく。無論、私のおごりだ。仲の良い姿を世間に晒しておけば、くだらぬ噂などすぐに消えるだろう」
「あ……はぁ」
「あぁ、それと南門にいるバルマーウルフだが、私の名の下に保護したという事にしておけ。そうすれば研究所も無闇に手出しは出来ない。それと魔獣の専門家だが、少しばかり心当たりがあってな。変人揃いの研究所にあって、珍しくまともな部類の人間だ。良ければ私の方で手配しておくが?」
「は……重ね重ねのお気遣い、感謝致します。お手を煩わせる事になり恐縮でありますが、是非お願いしたく存じます」
「このくらい、どうという事はない。アステルにはまだ言うな、決定事項ではないからな」
「は。それでは失礼致します」
敬礼しリッシュは部屋を出る。そして廊下でしばし立ち尽くす。
(アステルとディナーだと? 一体何の罰ゲームだ……)
理解ある良い上司、それは間違いない。悪意はないのだ、故にたちが悪いとも言えるが。
「はぁ……」
思い足取りで自室へと戻るリッシュ。ため息は尽きない。
◇◇◇
「フンフ~ン、フンフンフ~ン」
薄暗い地下の廊下に響く鼻歌。ハイアーは微妙な表情でその鼻歌を耳にしていた。
「はぁ……」
思わず漏れるため息。これから起こる事を考えると、とてつもなく憂鬱になる。それは自分の身に起こる事ではない。しかしまともな神経の人間ならば誰しも目を背けるような、そんな凄惨な光景を目にしなければならないのだ。これも仕事だ、と割りきろうとは思うが、やはり嫌なものは嫌である。
「うん、これでよ~し」
テーブルの上には様々な道具。大きなハサミに小さなハサミ。金属製のハンマーに長さと太さの違う釘や針。ペンチにノコギリ、アルコールランプ等々……
どの道具もピカピカに手入れされており、丁寧に、且つ大切に使用されているのが分かる。女は満足そうに、時にうっとりと、自らが並べたそれらの道具を眺める。
「あっと、いけない、すぐに始めないと。時間がないんだったわ。新入りくぅ~ん、いいわよ~!」
女は廊下で待機しているハイアーを呼ぶ。
「失礼します!」
特別取調室。隊の皆が特取と呼ぶ部屋。ギギギ、と金属製のドアを開け、ハイアーはガラガラと車椅子を押しながら入室する。
「新入りくん、ここよ」
「はい!」
ハイアーは車椅子を女の指示する場所へ押す。道具が並べられたテーブルの前だ。金属製の骨組みに木製のパーツで組み上げられた、とても頑丈そうな作りの車椅子、それには当然人が座っている。両足、腹、胸、両腕等を革のベルトで拘束され、目隠し、口には猿ぐつわをかまされている。
「ふぅ~ん、商人、ね。新入りくん、現場にいたの?」
女は何やら用紙を確認しながらハイアーに問い掛ける。
「はい、マリアンヌさん。南門前で立ち回りを演じた商人の一人です」
「そ。新入りくんは見学していくのよね?」
「はい、副隊長からはそのようにと……」
ハイアーの表情が曇る。
「フフフ、そんな顔しないで。今日は軽めにしておくから」
「はい、あの……お手柔らかにお願いします!」
「うん、素直ね。素直なコは好きよ。それじゃあ最初の方、行ってみましょ~!」
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