『バ』ケモノ

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 その後、俺は事故物件とは真逆の新築マンションに引っ越した。友人達には驚かれたが、そろそろ腰を落ち着けようと思ってな、と適当に誤魔化した。  例のマンションにはまったく近付いていない。近寄って、また見てしまうのだけは避けたいのだ。顔を知られているから、今度こそ俺の命がなくなるかもしれない恐怖もある。小西さんに会えなくなるのはちょっと寂しいけど。  新築マンションに引っ越した当初は、あの時の体験がフラッシュバックして眠れぬ夜を過ごした。今はだいぶマシになってきている。きっかけは友人の何気ない一言だった。 「わからないから怖いんだよな。幽霊って」  そう、いつまでもあのバケモノが怖いのは、正体がわからないからだ。人間は未知のものを怖がる傾向がある。そこで俺は、恐怖を和らげるためにバケモノに名前を付けることにした。バケモノどもがどこからやってきて、なぜあのマンションに住み着いているのか分かるのが最良だが、そのヒントになりそうな情報は見つかっていない。そこで、第一発見者さながら命名したわけだ。色々と考えた末、決定した名前は――『バ』だ。これはあいつらの鳴き声から取ったもので、さすがに名前が一文字だけの動物や妖怪はいないだろうと思って名付けた。  そして、俺はこのバケモノのことを世間に広める活動を始めた。もちろん信じてもらえないし、一文字だけの名前は馬鹿にされる。例のマンションの名前も言わないから友人にも「またその話か」と飽きられている。これには理由がある。好奇心で見に行ってうっかり『バ』に遭遇して、何かあったら責任を負えないからだ。  俺は一生この話を続けるだろう。今はまだ信じてくれなくても良い。若造が怖くない怪談話をしているとでも思えば良いさ。でも、何回も繰り返せば心の片隅に残ってくれるはず。そして、部屋を借りる時に思い出すはずだ。少しずつ人の心に刻んでいくんだ。  特に覚えておいてほしいのは二つだけ。  マンションを選ぶ時は家賃が破格すぎる部屋と、一度も姿を見せない住民には気を付けろ。
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