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ジャムのおじさん
私は、築四十数年のとある団地に家族と住んでいる。ここには、何かと不可思議な体験談や可怪しな人物が存在していて、改まって挙げていくと一冊の本が書けるくらいのエピソードがある。
今日は、私が住んでいる団地の、一番左の玄関の一階、仮に102号室としよう、そこに住んでいた人の話をしようと思う。
今から十数年前、私が小学生のとき、その人は六十代くらいの男性で、素性は詳しく知らない者のどこか精神を患っているような印象だった。
登下校や団地の前の公園で遊んでいたときなどに、その男性を団地周辺で見かけることは不思議と一度もなく、私は、母に聞くまでそのおじさんが同じ団地に住んでいる人だとは認識していなかった。
ただ、その人は私の学校のクラスメイトの間でもちょっとした有名人で、変な噂や冷やかしの種として話題に出ることがままあった。というのも、そのおじさんの風貌が、国民的人気アニメであるア○パ○マ○に登場するジャムのおじさんにそっくりだったため、私たちは都市伝説のキャラみたいにそのおじさんをからかっていたのだ。
私は、そのおじさんがどこか怖かったので、自ら接点を持とうとはしなかったが、クラスの男子などは、面白がって話しかけたり、後を追ったりしたときのエピソードなどを自慢げに話したりしていたので、私も友達同士の間でその人を「ジャムのおじさん」と呼んでいた。
ジャムのおじさんは、小学校の最寄りのバス停からバスを利用することが多く、私や友達は登下校の途中のバス停ですれ違ったり、実際にバスの車内で彼を目撃することがあった。
顔がジャムのおじさんに似ているというだけなら、一度話題になって終わるだけだろうが、彼はとても奇妙だった。というのも、いつもニコニコ笑っているのだ。優しい表情、という表現には当てはまらない不気味な笑いだ。かといって、たとえクラスの男子がちょっかいを出したとしても、反撃や叱咤など、何かしらの反応が返ってくることもなく、何事もなかったかのようにただニコニコ笑っているのである。その様が不気味で、クラスメイト達はますますおじさんに興味を持ってしまうのだ。
そんなある日、私は仲の良い友達の由佳と休日にバスへ乗り出掛けたのだが、その行きのバスでたまたまジャムのおじさんと同乗したのだった。
停留所でバスを待ちながら、私達はその日行く予定だった店のことや映画館の話で盛り上がっており、話の途中でバスが来た。
バスが少しずつ速度を落とし、停車する間に、前方の一人席にジャムのおじさんが座っていることにすぐ気がついた。
「ねえ、ジャムのおじさんがいるよ」
私は由佳に小声で伝えると、彼女は、
「うげー」
と、嫌な顔をした。私たちはジャムのおじさんからだいぶ離れた二人掛けの後部座席に乗り込み、そのままおじさんの後頭部を観察して笑ったり、
「どこで降りるんだろうね」
などと小声で話していたが、おじさんは後ろから見ていても不自然なくらい身動き一つしないため、しばらくしてネタも付き、別の話で盛り上がっていた。
それから間もなくのことだった。おじさんがバスの走行中にもかかわらず席を立ったのだ。そして、何を思ったのか、後ろの方へと歩き出した。
私達以外の乗客も、その行動に違和感を覚えた様子で、おじさんの笑顔がこちらを向いた瞬間に車内の空気がひんやりした感覚を覚えた。私達は、彼の次の行動を全く予測することができずに混乱していたが、表情は凍りついていたと思う。
ジャムのおじさんは、バスの揺れに合わせて体を揺らしながら一歩一歩、前進し、全く不運なことに私達のすぐ後ろの座席に座り直したのだった。
「ねえ、おじさんが真後ろに座ったよ」
由佳がすぐに私に耳打ちしたが、私は緊張で相槌を打つことができなかった。
それから、どれくらい時間が経ったのか、停留所をいくつ通り過ぎたのか、恐怖で覚えていない。おじさんは後ろに座ってから、ずっと同じ言葉を繰り返し言っていた。私は、そのとき初めておじさんの声を聞いた。おじさんの声は高くて、顔は見れないけれど絶対にあの不気味な笑顔でずっと言っているんだ、そう思うと泣きそうだった。
由佳は背もたれから五センチメートルくらい背中を離して座っている。私は、旋毛におじさんの吐息を感じ取りながら、由佳の手を強く握っていた。
「よし、決めた」
「よし、決めた」
「よし、決めた」
「よし、決めた」
ジャムのおじさんは、ずっと繰り返している。その言葉の意味なんてわからない。私は、体を硬直させながらおじさんが黙ってくれるのを祈って待っていた。
「よし、決めた」
「よし、決めた」
声はずっと続いていた。
しかし、次の瞬間、私達は金縛りが解けるように立ち上がり、由佳は停車ボタンを連打した。さらに予期せぬことが起きたのだ。私はその少し前に背もたれから僅かな圧力を感じたのを覚えている。由佳はすでに泣いていた。
私達の座っていた座席の隙間から、手刀のかたちで手が出てきたのだ。その手はちょうど私と由佳の耳の高さの空間にずこっと出現し、あと少しでもずれていたらその手に当たっていた。手は数秒でまた背もたれの隙間に消えていき、ジャムのおじさんの声もしなくなったが、私達はパニックを起こし、逃げるようにバスを降りた。
バスを降りた後は、ジャムのおじさんが乗っているそのバスを直視することなど到底できるはずもなく、私達は遠ざかる車体に背を向けて肩を寄せ合っていた。
それからジャムのおじさんに会うことは一度もなかった。母に後から聞いた聞いた話によると、ジャムのおじさんは病を患い入院するため団地から転出していった、とのことだった。
由佳とはそれからジャムのおじさんについて話すことはなく、学校でも自然とおじさんの話題は消滅した。
今思い返しても、不思議な体験としか言えない。ただ、月日が経った今でもあの出来事はトラウマであり、私はバスに乗るときには必ず後ろを確認するようになった。おじさんへの恐怖心は薄れてはいるが、あの不気味な笑顔は今も目に焼き付いて離れないのだ。
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