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昼間はあんなにうるさかった蝉がアスファルトの上でもがいていた。
青空に焦がれて手を伸ばしているのか、そこにはもう青空なんてなくて、ただの夜が広がっているだけなのに。
星一つない真っ暗な闇の中、ひとりぼっちでブランコに揺られ、手には大人びたようにブラックの缶コーヒーを持った男の子がいる。
「…結局いつもの公園にきちゃったや、」
きっかけはぼくのことをおとなたちがずっとずっと子供だ、何もわかりやしないって言って遠ざけるからだ。誰もぼくのことなんて分かろうとしないのに、あの人たちはすぐにわかったように話す。
「…みんなみんなぼくがこどもだからって仲間外れにするんだ。ぼくはもうこどもじゃないったら。」
ぽつんと呟いた言葉はゆっくりと黒に混ざって消える。
遠くの方で四角いあかりがぽっとんぽっとん落ちていく、だんだん黒が濃くなっていく。
ぼくはもう大人のように振る舞える。1人でなんだってできる。こどもなんかじゃないさ。
そういって家を飛び出したのがちょうど…2時間前くらいかなぁ。
時計をリュックから取り出して見てみる。…ああもう11時なんだ。いつもは寝なさいって言われて9時に寝るのにね。
ね、ね、ぼくももうこんなに遅くまで起きていられるんだ、こどもじゃなくて「おとな」でしょう?
欠伸をひとつ噛み殺して冷たいコーヒーの缶を頬に当てる。
生ぬるい風の中、それはひやっこくて、なんだかちょっと寂しくなる。
ブランコがぎいっとなった。
いつもはずーっと誰かが座っていて、順番待ちをしているブランコなのに今はこんなにも静かで、怖い。
「おとなはブランコ乗らないのかな、なんでかなぁ。」
でも、そもそもおとなってなんだろう?
遅くまで起きていること?
こどものみんなに怒ること?
苦いコーヒーが飲めたり、お酒が飲めたりすること?
それならぼくだっておとなみたいにコーヒーくらい飲めるさ。
カシュッとプルタブを倒してぐいっと黒を飲み込む。
まるで怪我したところをすきな女の子に見られたとか、いやなやつに何も言い返せなかったとか、そんなドロドロに思い出したくない記憶にびりびりしたよくわからない気持ちを煮詰めて混ぜたみたいな味が口いっぱいに広がる。
いつもならぜったい吐き出すけど、がんばって喉に押し込む。
少し待ってようやくこくん、と小さな喉がうごいてくれた。
生ぬるい風が吹き抜けると、なんだか急に頭がクラクラするような感覚に襲われた。
ぼくは思わず目をギュッと閉じて、それから目をゆっくり開いた。
ぼくの目の前には黒猫がいた。
長いしっぽをぱたんぱたんと打ちながら艶やかな毛並みを街灯に照らし出す。それは大きく口を開け、一声
「にゃあお」
金色の目を細めてこっちを向いて鳴いた。
ぼくはブランコをそっと降り、ねこに近づく。
じっと声を殺して、息を潜めて何も言わないまま。
「なーお」
ねこは逃げようともせず、ただゆっくりとした足取りで前にいき、またこちらを向いて鳴いた。
ついてこい、と言われたようだった。
「ねこ、どうしたの、きみはどこにいくの。」
ぼくはねこに言われるまま足を早めて___駆け出した。
ねこを追いかけて細い路地を通り、木々の間を潜る。
時間がたち心細くなって立ち止まるとねこはぼくの足に頭を擦り付けて先へ先へと促す。
それに押されてぼくはまた駆け出していく。
四角い光がぽろりぽろり消えていき、真っ暗になりかけた街を駆け抜けていくとねこは急に止まった。
「どうしたの。」
ぼくは止まったねこを見下ろす。
ゆっくり顔を上げるとそこは広い広い水面があった。池なのか海なのか分からないけれど、とにかく広くて、星屑が反射して水に浮かんでいるようだった。
さっきまで空は真っ暗で星なんてなかったのに、ここでは星に手が届きそうなくらい。
きっと水面にお星様を砕いて散りばめたんだ。
ねこはぼくの方をちらりと見るとその水面に向かって跳ねていく。
「ねこ!」
ねこはおよげない。そんなふうに聞いたことがある。どうしよう、おぼれる!
…ドボン、という音がするはずだった。
ねこは浮いていた。それどころかまったく濡れていないのだ。
水面から5センチくらい高い空気のところで優雅に座っていた。
金色の目がこちらを向き、瞬きを数回する。
「行けってこと…?」
じっと見つめられぼくは意を決して飛び出した。
なるべく体を丸めて衝撃に備える…と、なにかがガタンゴトン左右に揺れ、静止した。
次の瞬間ぼくとねこはぽっかりと浮かんでいた。
おかしくてふしぎだった。ぼくらが浮いているのはいったいなにがあるからなんだろう?
透明ななにかがあるのか確かめようとしてとりあえずぺたぺたと触っていると、木のような、それでいて柔らかい布のような感触が周りを取り囲んでいることに気がついた。
木の葉に似た形をした透明はゆっくりと、静かに動き出した。
たまにきらきらとなにかが光った。
星のカケラに照らされるそのときは船の色が一瞬だけみえる。
それは優しい夢を見ている時の瞼の裏みたいな色をしていた。
「ねえ、ねこ。ぼくなんだかこの場所知ってるよ。」
しゃらしゃらと星屑が鳴る中でぼくはねこに話しかける。
「ここ、ぼくのおかあさんが読んでくれた絵本にでてくるんだ、ねえ、ここ
は夢なの?絵本の夢をぼくはみているのかな。」
「いや、ぼうや、ここは紛れもなく現実だ。現世____うつしよ、だ。夢なんかじゃないし、ましてや絵本の世界でもない。」
ねこが、喋った。
「そっかぁ。」
ぼくは大して気にしなかった。
「どうせここにきたニンゲンがその絵本にでもここのことを書いたんだろう。」
「ふぅん。」
「まあ、私が話してることに驚かないのは、おまえだからだろうな。
ほかのニンゲンは猫が話すことに驚くのに、おまえはちっとも驚かない。」
ねこはそれだけ言うと大きく伸びをしてうずくまってしまった。
それきり話しかけてもなんにも喋ってくれなかった。
やがてそれは静かにとまり、ぼくとねこはそれから降りる。
ついた草原の真ん中にはランタンの沢山ついた蔦のいっぱい絡まっているお店がぽつんとたっていた。
ねこがにゃあお、と鳴いて駆け出して、その店のドアの前に前足をつける。
やがてその姿はすうっと消えていった。
「ねこ」
ぼくもあとを追うようにドアに手を置くと、頭の奥で「カランコロン」とベルの音がした気がした。
____ぼくは、店の中にいた。
店の中は茶色い木の板張りであった。
そのところどころに蔦が絡まっていたけれど、汚いとかではなくて、むしろ綺麗な部屋だった。
絡まった蔦や、店の中の色々な場所に数え切れないほどのランタンが飾られていた。その形は一つ一つ違く、ランタンの光の色もまた違った。
青白いようなもの、暖かい色をしているもの、真っ暗で夜みたいなのに光として存在しているもの____。
店の中には(ぼくはまだ数年しか生きていないのに)懐かしいメロディーのオルゴールの音楽がかかっていて、だいだいの照明と、優しく照らす無数のランタンは、ぼくを夢の世界へ連れていくみたいだった。
ちいさな金平糖の入ったびんのある棚の赤いふかふかしていそうなブランケットの上には、さっきの黒猫が金の目を細めしっぽをぱたん、ぱたんとゆっくり上下させながら心地よさそうにうずくまっている。
「ごめんください。」
口をはくはくさせながら呟くと、どうやら奥にいたらしい店主がぼくに手をひら、と振ってくれた。
奥に佇む店主は男なのか女なのかわからないような顔立ちで、とにかく息を呑むほど美しいひとだった。
やがてそのひとは微笑んでこちらに近づいてき、棚から金平糖をとってぼくに手渡してくれた。
ぼくはお礼をいってからその金平糖を1粒口に入れ、舌の上でコロコロと転がす。
甘くて、優しくて、さっき飲んだコーヒーの嫌な味がすっと消えていった。
ぼくを見つめるその人の瞳はさっきの船のような色で、吸い込まれそうな、見透かしているような、心地いい夢のような感覚がした。
店主はやっぱりなにも話さずただ微笑むだけだったけれど。
それからしばらくそのひとを見ていた。
やっとのことで、ぼくはそのひとに質問することができた。
なぜかわからないけれど、口に出すのが怖かったんだ。
「…ねえ、あなたは、なあに?」
店主は微笑んだまま口を開いた。
なんだか優しくて、それでいて怖い表情をしていた。
「なあに、かぁ。そうだね、じぶんは____というものだよ。」
言葉が、わからなかった。
聞き取れてはいるのに、頭が理解してくれないみたいだ。違う言語?いや、人が話す言葉じゃないのかもしれない。
このひとの名前が、ううん、それが名前なのかもわからなかった。
「なにをいっているの?わからない。」
店主は笑って続ける。
「わからなくて当然さ。
このお店は『わからないひと』がくる店なんだからね。」
「わからないひと?」
「そうさ、たとえば自分が何者かわからなくなった人、自分の愛した人が亡くなってしまって心がわからない人、うまく自分の感情が言葉に出来ない人…そんな人々がこのお店に訪れるんだ。」
「へえ、」
そのひとの声は透明だった。透き通っていて実態がないようであった。
「じぶんはそんな人たちに『星』を売っているんだ、スっと胸に落ちるお星様、流れ星みたいなものをね。ぼくの名前がわからなかったってことは、きみもなにかわからないものがあるんだろう?」
目をじっと見つめられる。
ふんばっていないと吸い込まれてしまいそうだった。
コトンと言葉が落ちる。
「あのね、あのね、ぼくは____『おとな』がわからないんだ。」
「おとな?」
「そう、おとな。」
「ねえ、おとなっていったいなあに?遅くまで起きていること?コーヒーが飲めること?子供に怒ること?」
『おとな』ってなんだろう。
店主はそれを聞いて長いまつ毛に陰を落とし、柔らかな黄色がかった髪を揺らした。母のような匂いがした。
「ああ」
唐突に上の方から声がした。黒猫の声だ。
「なんだ。おまえのようなチビがくるから何がわからないのか期待してみれば、そんなことか。」
ぼくはムッとする。そんなことなんかじゃないのに。
黒猫が言葉を続けようとして____
「ちょっときみ、静かにしていてくれないかな」と店主にゲンコツをもらう。なんだか微笑ましい光景だった。それから店主は僕の方に向き直り、ごめんね、と小さく謝った。
「『おとな』か、それなら売れそうだよ。ただ、もちろんじぶんはそれを教えてあげるんだ。その分のお代はいただかなきゃいけない。それがないとじぶんは存在ができなくなってしまうからね。」
「でもぼくお金なんてもってないよ。」
ぼくが心配そうにちらとみると、そのひとはからころ笑う。
「お金なんてなんの価値にもならないよ。」
「じゃあなにを、」
「____そうだねぇ、では君からはウツツをもらおう。」
「きみは現世は夢、夜の夢こそ真という言葉を聞いたことがあるかな…さすがにないかな、」
「これはね、じぶんが少し前によく読んでいたとある小説家の言葉なんだ。そのときは新聞とかに掲載された小説を読むのが日課だったよ、いまではもう居ないけどね。まったく、ヒトの流れはとてもはやい、もう少し長くてもいいのにね。」
店主の言葉は楽しんでいるようで、物悲しさを含んでいた。
「よくわからないよ。」
「そうかい、まあとにかく君からはウツツをもらおう。大丈夫、なにも怖いことは無いさ。おまけして1日分だけでいいにしてあげよう。」
ぼくはしばらく考えた。
ウツツはよく分からないけど、それでこのひとが存在できるならいいかなぁ…。
「わかった。ぼくのウツツをあげる。教えて。」
ありがとう、そうそのひとはにっこり笑った。
「ぼうや、おまえは運がいい。取られるのがたった1日のウツツくらいでよかったじゃあないか。」
ねこはブランケットに強くしっぽを叩きつける。
「世の中にはわからないままでいなければいけないものもあるんだ。それを無理に知ろうとすれば、必ずそれだけの対価がかかるものさ。」
金の目が閉じられる。
ぴくっと店主の肩があがる。それからねこへなにかを向けるようにつぶやいた。
「わからないひと、がみんなぼうやのような『わからないもの』を抱えていればいいんだけどな。そううまくはいかないものさ。おとなになるってことはそういうことだ。」
「…どういうこと?」
聞いてみたけれど、答えは返ってこなかった。
店主は横目でねこをみて、ふいっとまた視線を戻す。蔦の絡まった壁に沢山かけられていたランタンのひとつを手に取りぼくにそっと渡した。
「このなかにきみのための星が入っているよ。割れやすいから気をつけて。割れたらもう二度ともどってこないからね。」
ぼくはそれをそうっと受け取って胸の前にぎゅっと抱き寄せる。
「さあ、見てみるといい。のぞきこんでごらん。」
恐る恐る中を見てみるとほうほうと暖かく光るその中に金平糖みたいにキラキラしたものが波のように漂っている。
直後、ぼくの頭の中をおとなとすごした思い出がぐるんぐるんと凄い勢いで回り出した。体中がカッとあつくなって、燃えてしまうみたいだった。
頭の中は苦くて酸っぱくて、コーヒーみたいだった。
その苦くて酸っぱいのはだんだんと消えていった。
甘くなるんじゃなくて、ただただ消えていく。
____静寂に包まれた。
「ねえ、店主さん。」
「…わかったよ、ぼくはおとながなにかわかったと思う。おとなっていうのは苦いことも酸っぱいこともなんだっていっぱい感じて、聞いて、考えて、そうやって好奇心に線を1本引くのがおとななんだ。自分が経験してきたことを大切にするのがおとななんだ。
だからぼくたちがおとなになるには手探りでいろいろ経験しなきゃいけないんだ。まだこどもでいなければいけない時なんだ。むりしておとなになることなんて出来ないんだ。だからおとなはぼくたちに好奇心に線を引いた世界をみせたくなくて仲間外れにするんだね。」
ぼくの両の目から大粒がころんころん流れだす。
「そうやって、苦くて酸っぱいのを何も感じなくなって、強くなるのがおとななんだ。」
店主の表情は嬉しいのか悲しいのかよく見えなかった。
____黒猫がにゃあおと鳴いた。
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