ラムネに鯨を閉じ込めた

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今年も寂しいほどに蒸し暑い夏がやった。 アスファルトの上で焼かれながら喘ぎ足掻く蝉と、無情に響く風鈴の音。 こんな日は、あのひと月を思い出す。____傍らのラムネ瓶と共に。 青い夏空の下、蝉時雨の降る教室で、僕は長い髪の君とただ座っていた。 「今年で最後だね。…高校生の夏」 そう言って目を伏せる、長いまつ毛が君に影を落とす。 「あのね、初めて言うんだけど、お父さんの転勤が急に決まって、今年の秋には引っ越さなくちゃいけなくなったんだ。…みんなと一緒に卒業したかったのにね。」 そう悲しそうに笑う彼女に僕は何も言えなくて…。 僕は彼女に憧れていた。小さい頃からいつも僕の前に立っていて、弱虫な僕の手を引いてくれていた。 ___今思えば、僕はあの時恋をしていたのだと思う。 恋の魔法がそうさせたのかもしれない。僕は君と一緒にいたかった。 だから 「…ねえ、ほんとに今年で最後…なんだよね。」 「うん」 「じゃあ、さ。…お願いがあるんだ。」 「うん、なに?」 息を吸い込む、そして、精一杯の言葉を吐き出す。 「__今年の夏だけでいい、僕のそばにいて…」 彼女は一瞬驚いたように目を開いた。 彼女が驚くのも無理はない。 …今まで僕から彼女にお願いすることなんてなかったから。 多分これが最初で最後のお願いになるんだろう。 彼女は明るくてみんなの人気者だったから夏休みに遊びに沢山誘われるだろうし、事実去年も日ごと違う友達といる姿をよく見かけた。 だからもちろん断られると思っていた、そして彼女を困らせてしまったと言う罪悪感が湧き出してきて… なんでもない、と言おうとした。 が、『な…』まで言いかけて遮られる。 「いいよ。最後の夏は君と一緒にいてあげる。」 はにかむ彼女に僕の頬はたちまち熟れたスイカのように染まっていく。 頬がヒリヒリと熱くなる。 「だからちゃんと楽しませてね?」 くっくっと意地悪な顔をして声を立てる姿に、僕の頬はとうとう溶けた。 それからは毎日毎日、彼女を楽しませることだけ考えて、色んなところに出かけた。 川、海、山…は虫に刺されるのがイヤ、と言われて行かなかった。 二人で埃染めになるまで遊んで、遊んで…、 そしていよいよ夏休みの終わり、近所でも1番大きな花火大会があった。 お囃子が風に乗って運ばれて、昼間から人の熱気と声とざわめきで溢れていた。 そこで僕は彼女と最後の待ち合わせをした。 やがて人の群れの中から君がひょっこり現れて、小さく手を振ってくる。 僕は駆け足で駆け寄っていく。 彼女は勿忘草の色をした綺麗な綺麗な浴衣を着てきた。 ____その姿は儚げで、今すぐにでも蜃気楼のように空へ消えてしまうんじゃないかと思った。 僕はなんだかたまらなくなって、彼女の手を引いて飛び出した。自分の心臓が耳になったようで周囲の音も、「待って」の声も聞こえなかった。 そのまま走って、走って、走って…。 そのうち走り疲れて、足を止める。 ふっと息をつくと彼女が肩を上下させながら言う。 「…急に、急に走り、出して…どう、したの。」 息も絶え絶えに話す彼女を見て、ようやく自分が勝手に走り出してしまったと自覚する。 「…………ごめん。」 「大丈夫。…それより座ろう?疲れちゃった。」 「ラムネ、飲む?喉乾いてるよね。」 そう言ってラムネの1本を僕に差し出して、手に当てる。 ヒヤッとした感覚と瓶の中で上へ登って行く小さな泡が幽かに見えた。 「…どこで買ったの?」 すると彼女はにっこり笑う。 「縁日のラムネ屋さん。ちょっと待たせちゃったお詫びに、お祭りまわる時に一緒に飲もうと思って」 「…ごめん。ほんとに。」 「いいよ。また、少ししたら行こう。」 罪悪感を感じて、視線を頭上に向ける。 そこには絵の具を混ぜて塗りたくったみたいな突き刺さるまでの青。 そして…その中にただ一つだけ、 真っ白で大きな雲が浮いている。 「あ、あれ鯨みたい。」 その雲を指さして、彼女が細く呟く。 「くじら?」 「うん。青くて大きな海で、一人ぼっちで泳いでる白鯨。」 こちらに笑いかけてくる。 「私の名前____イサナって言葉も、くじらの古い名前なんだってさ。」 「…いさな」 彼女の名前がコロンと口から零れた。初めて呼ぶのにしては、軽い感触だった。今までよべなかった分の思い出やら感情やらが、その言葉に乗る。 「なあに?」 彼女はいつもと変わらない。初めて呼んだのに、いつも変わらない笑顔を浮かべているだけだ。 僕はそれがなぜだかたまらなく嬉しかった。 「ねえ、また一緒に過ごせる?」 その問いに、君は小さくうん。と呟いて 「またいつか。大人になったら。」 そして彼女は眉を下げて困ったように笑う。 僕は紅くなる頬を悟られないようにこくんと頷き、そして最後の一口を飲み干す。 わ舌の上でしゅわっと泡がはじけて、甘くびいどろが溶けていく。 僕はなんだか哀しいような愛しいような気持ちになって、青く透明な瓶を空へとかざす。 揺れたビー玉がキン、と音を立てた。 透き通る青空の海で、ひとりゆうゆうと泳ぐ白鯨を空になったラムネびん越しに捕らえる。 ラムネの中の白鯨とビー玉、それから君の困ったような笑顔。 僕はこの夏を一生忘れないように、逃がさないように、ぎゅっと瓶の口を指で押さえる。 ____ひゅうと僕らの横を風が駆け足で通り過ぎていった。 頭上にはただ、雲ひとつない青空が広がっている。
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