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その日の午後、傘を差して伊佐美氏に指定された場所に向かうと亮先生が待っていた。『雄山』と書かれた古い表札を見ながら引き戸を叩く。
「和真、体は大丈夫なのか?」
「ええ、この通り」
袖をまくると「これは堪えそうだな」と言った。
「何ともありませんよ」
「あれだけの怪我を一夜で治すなんて相当負担がかかっているだろう?」
首を傾げると「おまえの魂に」と先生は付け足した。返答に困ってナガスネを探したけれど見当たらない。都合が悪いといつも姿を消すのだ。
「待たせたな、入られよ」
姿を見せたのは雅彦の曾祖母、雄山マツ子だった。後ろからひょっこりと伊佐美氏が顔をのぞかせる。
「まっちゃん、湯のみが足りん」
「あんたは味噌汁の椀でも使ってな」
「二十年ぶりやいうのに連れない」
二人のやり取りに呆気にとられると「早よう入りなされ」とまるで自宅のように手招きをした。
「あの、お二人は敵同士では」
「堅いこと言うな、旧知の中なんや。若い頃のまっちゃんは美人で勇ましゅうてどんだけ求婚を断られたか」
「余計な話をするんじゃないよ!」
土間にあった箒ではたかれた伊佐美氏は「おお怖い」と言いながら奥の間に入っていった。マツが咳払いをすると先生が笑って頭を下げる。
「先日は息子がお世話になりました」
「あんたに似てなかなかの頑固者だね」
「僕ではなく、妻ですよ」
先生が「僕」なんていうのを初めて聞いた。マツは困ったように口を結ぶ。
伊佐美氏はマツに協力を仰ぐと言ったけれど、この人はイツセの守人だ。先生もなぜ礼など言うのだろう。俊を時逆に導いた張本人なのに。
マツは居間に座布団を並べながら言った。
「ミカツキの魂が娘にあるとわかった今、イツセ様がどう動くかわからぬ。取り返しがつかなくなる前にあの御方をお止めしたい」
「それが守人の本来の役目やからの」
じいさん一言多いよ、と言ってマツは台所に下りた。本来の役目、そんなことは考えもしなかった。
器の本来の役目とは何なのだろう。
奥の和室が勇也がいた。トレーニングウェア姿で正座をし、筆を手にしている。
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