待合室

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僕はほっと息をついた。 なにも知らずに眠っている、高齢の女性の横顔を見る。 「二度と悪魔に狙われなければ良いけれど」 「その心配はないね。彼女はこれからも通院するたびに同じことを繰り返すだろうけど、もうあいつに気づかれることはないから」 少女がいつの間にか僕の隣に座っていた。 「悪魔は『またとない機会』と言っていたようだけど、違ったかな」 僕の問いに、天使は目を見開いた。 「本当に分からない? 君はお人好しだね。彼女が見つかったのは偶然、ということ。私たちはここに、所用があって来ただけだから」 僕は首をひねった。 「君たちが現れたのは、お婆さんのお迎えとばかり思っていたんだけど」 少女は花の香りの溜め息をついた。 「悪魔はいつもどおり、私の邪魔をしに来ただけ。たまたま居合わせなければ、彼女になんて注目しなかったはず。魂の売買契約を交わせそうだったから、飛びついたのだと思う」 あの女性は契約などしなさそうだと思ったが、それよりもまず聞きたいことがあった。 「君は? なんでここにいるんだ」 「私はね、君を迎えにきたの」 「僕が死んでいる、ということ?」 僕はやっとの思いで、考えを口にした。 「ううん、半分だけ正解。君はね、死にかけているの。身体はそこの集中治療室にいるよ」 少女は真上より、やや左ななめの天井を指さした。 「君は昨日、ここで診察を待っている間に容体が悪化して、重体となった。ほかの人に割り込まれたせいでね。それでも彼女を憎まない心根が天国の門を開いた、ということ」 少女は立ち上がると、天使の羽を広げた。 僕は差しのべられた手を取り、立ち上がる。 「僕が待っていたのは診察じゃなかったのか」 身体から離れているせいだろうか、実感が湧かない。 言われてみれば待合室にいた人びとは、誰も僕に気付かなかった。 「天国は遠いのかな」 「遠くないけど、待合室があってね。受付を済ませてから中待ちまで、時間が掛かるかな」 「そこでも順番待ちか」 少女は手を合わせ、ごめんね、と言った。 「もしかして、天国には待つことが出来る人だけが入れるのかな」 高齢の女性はまだ、中待合室にいる。 僕の視線を追ったのか、少女が首を左右に振った。 「そんなことはないよ、生前の行いを調べて総合的に判断しているから。天国はたしかに、地獄へ行くより難しい。天使の介添えがなければ、待っている間でも地獄に落ちてしまうから」 「じゃあ、悪魔はお婆さんを地獄に落とすつもりだったんだ」 少女は眉間にしわを寄せ、また首を振った。 「あいつは私が君と会うのを邪魔しに来ただけ」 「僕には関係ないって、悪魔は言っていたけど?」 少女は手の甲をくちびるに当てた。 頬がゆるんで、笑い声がもれる。 「お人好しだね。あいつは、『もう』関係ないって言ったの。君はそのとき、すでに天国への付き添い人、つまり私に会っていたでしょ? お互いの業務を直接妨害するのは規約違反だから、それで手を引いただけ」 なるほど、と僕はうなずいた。 「悪魔ってのは、人間を地獄へ誘うのだとばかり思っていた」 「悪魔の仕事に、『地獄へ連れて行く』という職務はないの。案内なんて要らないんだよ」 少女は人差し指を立て、左右に振ってから僕の足元をさした。 「放っておけば、人間はみんな地獄に落ちて行くのだから」 ぽっかりと、僕の真下に穴が開いた。 底が見えない暗闇の中に、ちらちらと赤い閃光が走っている。 生温かくて、硫黄臭い風が吹き上がってきた。 天国の受付で、どれほど待っても構わない。 そんな気分にさせられる光景だ。 「できれば中待ちまで、付き添いをお願いします。たまに話しかけてくれると、とても嬉しいんだけど」 僕は翼を広げた天使に深々と頭を下げた。 「気が早いなあ。ICUに入っているだけで、君はまだ生きているのに」 「せっかちなのは、天使や悪魔の方じゃないか」 「医療が発達したせいで、死期が分かりにくくなっていてね。延命治療とか、脳死判定とか。医者の手で蘇生させられてしまう、なんてことも頻繁に起こるようになった。だから契約だけでも、事前に交わしておかないと」 天使の羽に手を突っ込むと、紙とペンを取り出した。 「同意書をよく読んで、この枠内に署名してもらえるかな」 少女は目尻を下げて、魂もとろけるような笑みをつくった。 (了)
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