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僕が内科総合受付の長椅子に座っていると、お経が聞こえだした。
「あ、いいたいいた、らがいた、ねがいた、いいたいいた、だれかつれ……」
声の主は高齢の女性だった。
目をつむったまま、三十歳くらいの男性が押す車椅子に乗っている。
男性は介護施設の職員のようだった。
車椅子は僕から数メートル離れた待合室の入口近くで止まった。
僕は読経の声に耳を澄ませる。
驚いたことに、女性が口にしているのは経文ではなかった。
「あゝ、痛い痛い腹が痛い胸が痛い、痛い痛い誰か連れてって、痛い痛い……助けてえ、誰か助けてえ。痛い痛い、どっか連れてって……」
女性は息継ぎのときも音を途切れさせることなく、痛みを訴え続けていた。
それがまるで、お経を上げているように聞こえたのだ。
「順番だから、待ちましょう」
男性は車椅子のブレーキを確かめると、女性の耳元に語りかけた。
僕の横からひそひそ声がした。
男性の口ぶりが素っ気ないと、花柄のブラウスを着た女性が文句を言っているのだ。
自動血圧測定器に腕を突っ込んだ、別の中年女性が相づちを打った。
「ほんとよ。あんなに痛いって言うのだから、受付に聞きに行っても良さそうなものよね」
「誰か、先生呼ぶとか出来ないのかしら」
付き添いの男性はこの状況に慣れているようだった。
「順番だから、ね。もうちょっと待ちましょう」
女性に言うのではなく、他の人々に向かって言い訳しているような口ぶりだった。
女性はひとときも休まずに「痛い痛い」をくり返していた。
そばに行って声を掛けようかとも考えたが、止めた。
おそらく自分の声で頭がいっぱいだろうから、僕の言葉は耳に届かないと思い直したのだ。
僕は祖父に生前、よく聞かされていた。
「歳をとると、どこが悪いわけじゃあなくっても、体があちこち痛むものさ」
だからと言って、祖父の口から「痛い」という言葉が漏れたことは一度もなかった。
僕の印象では、女性はかなりせっかちか、苦痛を堪えることが出来ない性分のようだった。
突然、待合室が暗くなった。部屋の気温が二、三度下がったようだ。
「おばあさん、そんなに痛むのですか」
去年成人した僕より二つ下くらいの、すらりと足の長い少年が待合室に入ってきた。
西洋人かと思うほど鼻が高く、鼻筋がとおっている。
グレイのスーツに身を包んだ立ち姿はまるで、ファッション誌のモデルのようだった。
驚いたことに、彼には矢印型の鉤がついた尻尾が生えていた。
歩くたびに背中でゆらゆらと揺れている。
飾りものじゃないと気づいて、僕は身を固くした。
少年は女性の前で足を止めると上体を屈め、手を太腿に置いた。
「どうして欲しい?」
「連れてって、誰かどこかに連れてって」
「いいよ、願いは叶えたげる。それには契約書に署名してもらう必要があるのだけど」
高齢の女性は、「なんでもいいから早く」と返事をした。
少年の目元に小じわが寄った。
「痛みも苦しみも、無くなるよ」
そのかわりに、魂を取り上げるのだ。
僕は女性に忠告しようと立ち上がりかけたが、そんなことをしたら悪魔を敵にまわすと気がついた。
「契約書を用意してくるから、待ってなよ」
病院外に書類を取りに行ったのだろうか。
少年は急ぎ足で去った。
待合室が明るくなり、音と匂いが戻ってきた。
少年の姿をした悪魔は、なかなか戻って来なかった。
「順番だから、ね。待ちましょう」
少年が去って、三回目の「待ちましょう」だから、十五分ほど経った後のことだ。
僕の目の前に、天使が立っていた。
先ほどの悪魔と双子ではないかと疑うほど、容姿の似た少女だった。
淡いグレイのドレスを着て、背中に白い羽を生やしている。
「君はなぜ、彼女がせっかちだと思うの」
少女は、僕に話しかけてきた。
「胸も腹も、痛いのだと思う。でも一本調子で繰り返すだけだし、休みなく唱え続けていられるのは、それほど切迫していないからでしょ」
少女は眉を吊り上げた。
「君は怒ってもいいと思うけど」
僕は返答につまって、顎を引いた。
「そりゃあ、『痛い痛い』は聞いていて気分のいいものじゃないし、いい歳してみっともないと思う。でもそれだけで、怒るほどのことじゃないだろ」
僕の返事を聞いたかどうか分からない。
顔を上げると、少女は姿を消していた。
ふと気がつくと、お経が止んでいた。
顔を向けると先ほどの場所に女性の姿がなかった。
順番が来たらしく、女性と介護士の男性は中待合室に移動していた。
安心したのか、車椅子に座ったまま眠りこけている。
僕はもう驚かなかった。
男性は横のパイプ椅子に腰掛けていて、疲れのせいか目を閉じていた。
「ああ、間に合わなかったか」
ふたたび現れた少年が悔しがった。
背中で尻尾が揺れている。悪魔の方だ。
僕は好奇心に負けて、少年に話しかけた。
「遠くまで行っていたのかい」
少年がはっと僕を見た。こちらに気づいていなかったのだ。
僕は声をかけたことを、たちまち後悔した。
少年は僕を頭の天辺から足の爪先まで眺めると、溜め息をついた。
「君にはもう関係ない話だが。まあ、そうだ。オフィスまで契約書を取りに戻ったのだよ」
悪魔は金ぴかの腕時計をちらりと見て、じゃあな、と手を振った。
止せばいいのに、僕はまた声をかけた。
「そもそも何の契約なのさ」
「魂を代価に、苦痛を取り除く契約さ。魂がなければ、肉体や心がいくら痛んでも平気になる。生きる苦しみから解放されるのだよ」
「どうしてあのお婆さんを狙ったんだ」
「近ごろは魂の契約件数が減っているからね。またとない機会だったのに」
悪魔は契約書を二枚丸めてごみ箱に放り込むと、煙になって消えてしまった。
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