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続・エピローグ
「こんにちは」
自販機からアカマルを取り出すのに屈むと、頭上から声が聞こえた。
見上げる。そこに立つ人物の頭の横に、太陽があった。サングラスの奥でちょっと目を細めて、ようやく、その顔が見えた。
「……ああ。君は」
「一之瀬です。お加減はいかがですか?」
「うん。覚えてるよ。確か、一之瀬涼君だ。お陰様で、元気にしてるよ」
立ち上がると、見上げていた彼の顔が、目線の下に来る。はつらつとした、夏の光のような少年。一之瀬。呼んでみて、なんだか、妙に舌にしっくりくる名前だなと思った。
アカマルのソフトパッケージの銀紙の端を破って、取り出し口を作る。その反対側をとんとん、と指で叩いて一本抜く。一之瀬はその手元を、じっと見つめていた。
「あ、ごめん。煙、」
「大丈夫ですよ。進さん」
進さん、か。火を付け、口の中で煙と言葉を一緒に噛んでから、細く吐き出す。
「君、随分フレンドリーだね」
最近の若い子は、こうなのだろうか。火口から薄く立ち上る煙を目で追っていた一之瀬が、ぽつりと呟く。
「五二㎐の鯨」
「うん?」
「って、知ってますか」
少しだけ、吐き出した煙を眺めながら考える。思い出した。彼が口にするには、なんだか似合わない言葉だ。
「未確認生物だっけ。なんとなくは知ってるよ」
「……進さん」
「うん、なに?」
「貴方はもう、鯨じゃない」
「……うん。鯨、ではないけど」
「うん。おかえりなさい」
そう云って、一之瀬はくしゃ、と力が抜けたように笑う。綺麗な笑い方じゃない。でも、溢れるような愛嬌がある。
変わった子だ。行間が見えない。不思議な比喩だ。深夜の公園で倒れて、病院で目が覚めた時、枕元に立っていた少年。私を見つけてくれた少年。
ただそれだけだ。知り合い、ではないはずだ。
織部進之介。進さん、と呼べる名前の人格は、これくらいしかないはずだ。でも織部の記憶に、彼はいない。
あとは。いや、まさか。だってその人格は、彼が産まれる前には捨てている。時系列が合わない。
「君さ。前、何処かで会った?」
「多分」
「多分か。うーん」
「多分、忘れた夢の中で」
「詩的なことを云うんだな」
「そこで貴方は、オレの友達で」
友達。その言葉を聞いた時、耳の奥で微かに、水の中で爆ぜる空気のような音がした。
私を真っ向から見つめる、真っ直ぐな瞳。光のような。太陽に覗き込まれたような、眩しさ。純度の高い善性。私の悪を抉る。なんだ。デジャヴ。暗い海底に刺す光。水音。その中に。声。声が。
「一之瀬! 何やってんだ、行くぞ!」
一之瀬の後ろ、交番の扉から、小太りの警官が強く手招きながら顔を出しているのが見えた。
「あっ、はい!」
ぱっと、一之瀬が振り返る。視線が外れて、ようやく私は、息を詰めていたことを自覚する。
一之瀬は改めてこちらを向くと、踵を揃えて、深く頭を下げた。
「それじゃ、進さん。また」
「うん。元気で」
煙草を挟んだまま、片手を上げる。走り出した一之瀬の背中。淡い青の制服。その背を押すように、初夏の風が吹く。
さて。私も、仕事だ。
私は彼の追い風を、正面から受けるように、反対の方向に歩き出す。目的地までのマップを調べるのに、ブラウザ画面を開いて、おや、と思う。
検索結果画面。要約されたウィキペディアの一部が、イメージ画像付きで載っている。
『五二㎐の鯨』。仲間と通じることができない、この世界で、最も孤独な鯨。
耳の奥。水の音がする。泡が砕けて、上昇して。
そして水面で、空気に溶けるように、消えた。
私は検索欄から鯨の文字を消して、代わりに目的地を入れる。検索。画面が切り替わる。
「……さてと」
令和元年。新しい年号の、最初の仕事だ。メールを確認する。今から会う依頼人、待ち合わせの喫茶店で待つその人物の、特徴は。
白い、ワンピースの女性。
【終わり】
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