プロローグ

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プロローグ

 公園の芝生を歩くのに、ハイヒールは最も向いていない。  足を進める度に、細長い踵が突き刺さるように少し沈んだ。  意識して足音を消していたわけではない。でも私は静かに、公園の端にあるジャングルジムに向かって歩く。  その頂上に、スーツ姿の男性が座っていた。スーツだってハイヒールと同じくらい、公園とはミスマッチだ。  人は大人になるに連れて、公園が似合わなくなっていく生き物だ。公園を作るのは、間違いなく大人であるのに。  その反論は決まっている。公園は、大人が主に子供に向けて作るからだ。だが彼はそんな当たり前の反論を口にしない。静かに笑って、本当だと云う人間だった。  私は彼を『鯨(くじら)』と呼んでいる。  私がジャングルジムの傍まで近付くと、鯨はこちらを向いて綺麗に笑った。  美しく歳をとった男性の顔だ。完璧な角度に眉尻を下げて、瞳が消えてしまわない程度に目を細めて、歯を見せず上品に口角を上げる。小振りなカップの暖かい珈琲に、スプーン一杯のホイップクリームを浮かべたような、苦さにとろける甘さを含んだ笑みだ。あまりに綺麗過ぎて、彼の感情は分からない。  私は、彼が私のことを嫌っているのを悟った。  口を開く直前、私はたくさんの言葉を呑み込む。 「どうしていつまでも、信じて待っていられるのですか」  漠然とした質問だった。けれど、彼が上手く行間を読むことは知っていた。  吐息と一緒に短く笑って、鯨は肩をすくめる。 「いつまでも、って云うほど時間は経ってない」  もう彼は私の方を見ていなかった。マンションの間に見える空に目を向けているものの、恐らく何も見ていなかった。 「他にどうしろって云うんだ。低く歌う練習か?」 「貴方の声は低いです」 「君がそう云ったんだ」 「どういうことです?」 「知らないのか。『五二㎐(ヘルツ)の鯨』は声が高過ぎるから、話し相手がいないんだ。だから独り語る鯨の声は、歌声だと云われている」  なるほど、と頷く。納得はしていない。でも彼はきっと、皮肉を云ったのだ。 「歌は好きですか」 「どうだろう。鼻歌はたまに歌うよ。でも好んでカラオケには行かない」 「どうしてここに?」 「質問にまとまりがないな」 「会話することに、慣れていないので。思いついたことを訊ねています」 「そう。別に俺は沈黙が嫌いじゃない。無理に話さなくても、沈黙さえ心地好さを感じる関係が理想だと思ってる。気を遣っているつもりなら、止めて良い」  それが、ここにいる答えになるだろうか。それほど返事を求めていたわけでもないが、少し考える。  鯨はゆっくり呼吸するだけの間を置いて、また口を開いた。相変わらず前方の、何もない空間を見つめている。 「今のが会話だ。君がしていたのは、ただの質疑応答。疑問形が多くて、面白みが足りなかった」 「そうですか」 「うん。ま、答えないのも不誠実だから、今からが答えだ。俺はね、風を待つのに、分かり易くよじ登りたかったんだよ。丁度いいのがこの遊具だっただけさ」 「風、ですか」  鯨は体を反らせるようにして空を仰ぐ。 「何かが起こる時には風が吹く。それはちょっとした仕草で動く微かな空気の流れでもあるし、気圧で生じる大きな力でもある。その前提が時間の流れだ」 「哲学のようですね」 「それは、俺もちょっと思った。まあでもそう小難しいもんじゃないさ。単純に、ここには風がない。だから、どうしようもないから、風を待っている。そのためにちょっと高いところに登った」  ジャングルジムの細い鉄棒の枠に、鯨は器用に革靴の底を引っ掛けて立ち上がった。彼の体の芯はブレない。それが、ひたすら美しいフィクションのようだ。そしてじっと遠くを眺めて、呟く。 「俺は多分、君のことをどうしようもなく愛している。でも同時に、悪いけど、どうしようもなく嫌いだ」  なんとなく分かる。きっと混ざりかけの赤と青の絵具みたいなものだ。赤と青が、まだ強く自身を主張し合う半端な多色。紫になりきれていない、斑(まだら)な感情。  鯨が振り返る。やはりその綺麗な笑顔には、具体的な感情がない。 「だって俺は悪くない。俺が悲しかったのは、全部君のせいだろう?」  ああ、そうか。  そこでようやく、これが夢であることに気が付いた。  彼は私が嫌いだろう。でも、彼が私を憎むのは、Ifの世界だ。私が望んでいるだけの世界だ。  私は繰り返し、この夢を見ている。少しずつ少しずつ、私の感情で歪めている。  彼はもっと分かり易く足掻いている。息継ぎのできない世界で、どうしようもなく、低く歌っている。
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