10人が本棚に入れています
本棚に追加
/31ページ
プロローグ
公園の芝生を歩くのに、ハイヒールは最も向いていない。
足を進める度に、細長い踵が突き刺さるように少し沈んだ。
意識して足音を消していたわけではない。でも私は静かに、公園の端にあるジャングルジムに向かって歩く。
その頂上に、スーツ姿の男性が座っていた。スーツだってハイヒールと同じくらい、公園とはミスマッチだ。
人は大人になるに連れて、公園が似合わなくなっていく生き物だ。公園を作るのは、間違いなく大人であるのに。
その反論は決まっている。公園は、大人が主に子供に向けて作るからだ。だが彼はそんな当たり前の反論を口にしない。静かに笑って、本当だと云う人間だった。
私は彼を『鯨(くじら)』と呼んでいる。
私がジャングルジムの傍まで近付くと、鯨はこちらを向いて綺麗に笑った。
美しく歳をとった男性の顔だ。完璧な角度に眉尻を下げて、瞳が消えてしまわない程度に目を細めて、歯を見せず上品に口角を上げる。小振りなカップの暖かい珈琲に、スプーン一杯のホイップクリームを浮かべたような、苦さにとろける甘さを含んだ笑みだ。あまりに綺麗過ぎて、彼の感情は分からない。
私は、彼が私のことを嫌っているのを悟った。
口を開く直前、私はたくさんの言葉を呑み込む。
「どうしていつまでも、信じて待っていられるのですか」
漠然とした質問だった。けれど、彼が上手く行間を読むことは知っていた。
吐息と一緒に短く笑って、鯨は肩をすくめる。
「いつまでも、って云うほど時間は経ってない」
もう彼は私の方を見ていなかった。マンションの間に見える空に目を向けているものの、恐らく何も見ていなかった。
「他にどうしろって云うんだ。低く歌う練習か?」
「貴方の声は低いです」
「君がそう云ったんだ」
「どういうことです?」
「知らないのか。『五二㎐(ヘルツ)の鯨』は声が高過ぎるから、話し相手がいないんだ。だから独り語る鯨の声は、歌声だと云われている」
なるほど、と頷く。納得はしていない。でも彼はきっと、皮肉を云ったのだ。
「歌は好きですか」
「どうだろう。鼻歌はたまに歌うよ。でも好んでカラオケには行かない」
「どうしてここに?」
「質問にまとまりがないな」
「会話することに、慣れていないので。思いついたことを訊ねています」
「そう。別に俺は沈黙が嫌いじゃない。無理に話さなくても、沈黙さえ心地好さを感じる関係が理想だと思ってる。気を遣っているつもりなら、止めて良い」
それが、ここにいる答えになるだろうか。それほど返事を求めていたわけでもないが、少し考える。
鯨はゆっくり呼吸するだけの間を置いて、また口を開いた。相変わらず前方の、何もない空間を見つめている。
「今のが会話だ。君がしていたのは、ただの質疑応答。疑問形が多くて、面白みが足りなかった」
「そうですか」
「うん。ま、答えないのも不誠実だから、今からが答えだ。俺はね、風を待つのに、分かり易くよじ登りたかったんだよ。丁度いいのがこの遊具だっただけさ」
「風、ですか」
鯨は体を反らせるようにして空を仰ぐ。
「何かが起こる時には風が吹く。それはちょっとした仕草で動く微かな空気の流れでもあるし、気圧で生じる大きな力でもある。その前提が時間の流れだ」
「哲学のようですね」
「それは、俺もちょっと思った。まあでもそう小難しいもんじゃないさ。単純に、ここには風がない。だから、どうしようもないから、風を待っている。そのためにちょっと高いところに登った」
ジャングルジムの細い鉄棒の枠に、鯨は器用に革靴の底を引っ掛けて立ち上がった。彼の体の芯はブレない。それが、ひたすら美しいフィクションのようだ。そしてじっと遠くを眺めて、呟く。
「俺は多分、君のことをどうしようもなく愛している。でも同時に、悪いけど、どうしようもなく嫌いだ」
なんとなく分かる。きっと混ざりかけの赤と青の絵具みたいなものだ。赤と青が、まだ強く自身を主張し合う半端な多色。紫になりきれていない、斑(まだら)な感情。
鯨が振り返る。やはりその綺麗な笑顔には、具体的な感情がない。
「だって俺は悪くない。俺が悲しかったのは、全部君のせいだろう?」
ああ、そうか。
そこでようやく、これが夢であることに気が付いた。
彼は私が嫌いだろう。でも、彼が私を憎むのは、Ifの世界だ。私が望んでいるだけの世界だ。
私は繰り返し、この夢を見ている。少しずつ少しずつ、私の感情で歪めている。
彼はもっと分かり易く足掻いている。息継ぎのできない世界で、どうしようもなく、低く歌っている。
最初のコメントを投稿しよう!