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エピローグ
公園の芝生を歩くのに、多分彼女のハイヒールは最も向いていない。
俺は公園の端にあるジャングルジムの頂上に座っていた。夕方になった頃だ。ぼんやり空を眺めていると、柔らかな草を刺す微かな足音と気配が近付いてきた。
振り返る。それから、笑った。
平成は、少し迷うような間を置く。でも表情には出ない。俺は口角を上げたまま、彼女の言葉を待つ。
「どうしていつまでも、信じて待っていられるのですか」
様々な言葉を呑み込んでいる。でもなんとなく、その意味は分かった。
不器用な人だ。思わず吐息に笑いが混じる。馬鹿にした訳じゃない。可愛らしいと感じた。
「いつまでも、って云うほど時間は経ってない。個人的にはな」
云いながら、視線を逸らす。俺はさっきからしばらく、彼女のことを考えていた。本人を目の前にしていると、少し気まずい。
「他にどうしろって云うんだ?」
思わず、強い言葉になった。しまったな、と思いながら言葉を継ぐ。
「……低く歌う練習か?」
しかしそれも、どこか皮肉っぽくなる。平成との会話は、少し難しい。
「貴方の声は低いです」
そういうことじゃない。なかなか冗談の通じない人だ。肩をすくめる。
「貴女がそう云ったんだ」
「どういうことです?」
「知らないのか。『五二㎐の鯨』は声が高過ぎるから、話し相手がいないんだ。だから独り語る鯨の声は、歌声だと云われている」
なるほど、と平成が頷く。次の言葉を決める前に、彼女が口を開く。
「歌は好きですか」
「どうだろう。鼻歌はたまに歌うよ。でも好んでカラオケには行かない」
「どうしてここに?」
「質問にまとまりがないな」
「会話することに、慣れていないので。思いついたことを訊ねています」
「そう。別に俺は沈黙が嫌いじゃない。無理に話さなくても、沈黙さえ心地好さを感じる関係が理想だと思ってる。気を遣っているつもりなら、止めて良い」
また、平成は迷ったような間を置く。きちんと答えていないから、困惑してしまったのだろう。
「今のが会話だ。貴女がしていたのは、ただの質疑応答。疑問形が多くて、面白みが足りなかった」
「そうですか」
「うん。ま、答えないのも不誠実だから、今からが答えだ。俺はね、風を待つのに、分かり易くよじ登りたかったんだよ。丁度いいのがこの遊具だっただけさ」
「風、ですか」
空を仰ぐ。停滞した世界、その夕暮れ空もなかなか美しい。
「何かが起こる時には風が吹く。それはちょっとした仕草で動く微かな空気の流れでもあるし、気圧で生じる大きな力でもある。その前提が時間の流れだ」
「哲学のようですね」
「それは、俺もちょっと思った。まあでもそう小難しいもんじゃないさ。単純に、ここには風がない。だから、どうしようもないから、風を待っている。そのためにちょっと高いところに登った」
足を組む。平成は、少し黙った。だから続ける。
「俺は多分、貴女のことをどうしようもなく愛している。でも同時に、悪いけど、どうしようもなく嫌いだ」
複雑な心だ。だって。
平成を振り返る。いろいろな感情が入り混じりそうだった。堪えて、笑う。
「だって、貴女のせいだ。貴女がいなくなったからだ。きちんと反抗期を迎える前に、貴女は俺の前から消えた」
最初の記憶。俺の中にいる、高い声の鯨。その一部に、『彼女』がいる。
だから、分かった。彼女が吐いた嘘が。
「『初めまして』。それが嘘だったんだろう? 母さん」
平成は、彼女を見る人間が、最後に愛した女性の三〇歳の姿をする。
それを聞いて、笑う。虚しかった。でも同時に、納得もしていた。混沌とした、紫色の感情だった。
俺は、確かに空っぽだったのだろう。他人に注げるだけ、愛を持っていなかったのだろう。だから誰も、抱いた女性でさえ、きちんと愛せなかった。
俺はきっと、物心付く以前は、普通の子供だった。どうしようもなく、母を純粋に愛していた少年だった。
せめて彼女が、正確には彼女が姿を模した人間が、俺を置いて死ななければ。でも母は死んでしまったから、俺は少しだけ悪い方に歪んでしまった。それを正してくれる相手がいなかった。根元が曲がってしまったまま、以来ずっと、生きる選択だけして成長してきた。
俺たちは藤棚のベンチまで移動した。並んで腰を下ろす。
「だからわたくしは、宗方恵美(めぐみ)で、吾妻(あづま)ミチヨで、町田紬です。あらゆる愛の形をしています。そして吾妻ミチヨ様にとって、わたくしはまた、宗方恵美でした」
「俺の母は、随分人気者だったんだな」
「そうですね。吾妻ミチヨ様には、子がいませんでしたから。きっと宗方恵美は、死ぬまで良き話し相手だったのでしょう。ですが、彼女はわたくしより前の時代で、命を落としました。わたくしは、わたくしを生きた人間のことなら何でも知っていますが、宗方恵美のことは分かりません。ですので宗方恵美の内面までは、再現できないのです」
私はそっと息を吐いた。少しだけ、感嘆が混じっていた。
「優しいんだな。貴女は」
「それは、貴方にとって褒め言葉ではないのでしょう?」
「そうかもな。少なくとも俺は、自分より若い母を見たくはなかった」
「貴女によく似て、美しいですか」
「……そうだな。いや、違う。俺が、その顔に似てるんだ」
順番的に、そうでなければおかしい。平成は頷く。
それから、俺は彼女の匂いを思い出した。彼女の声を思い出した。平成は、そこまで誠実に再現する。人の内側、触れられない部分にだけ、空白を残して。
「約束です。わたくしは、貴方を元の時代に戻す手助けを致します。具体的には、一之瀬涼様の現実に、少しだけ介入します。貴方を思い出すきっかけを作ります。でも」
一度、呼吸を挟む。続きを語るための息だ。平成はまだ、呼吸をしている。
「わたくしは、貴方の母の愛を語って聞かせることができる。貴方の過去の不幸を、少しだけ和らげることができる。かも、しれません。だって貴方は、戻れば、この世界のことを忘れてしまう。ただ、真実を聞けば、貴方の気が変わってしまうかもしれない。ここに残ることを選択してしまうかもしれない。……聞きますか?」
自分でも思った以上に、判断は早かった。俺は、首を振った。
「充分だ。嘘を嘘だと云えば、それは真実だ。そう、俺の友達の正義の味方が云った。誤解が誤解だと分かれば、もう、充分だ。……貴女は、母は、俺を愛していたんだろう?」
それで充分だった。もしかすると俺は、それを知った時、死にたくなるかもしれない。煙草を吸うように、当たり前のことように、そっと死に手を伸ばすかもしれない。そんな気がする。
その空白も、不幸も、全て俺の痛みだ。愛しい苦痛だ。快楽よりもずっと素直で、俺を欺かない。それでいい。なにより。
「俺は、彼に否定されたいんだ。きちんと正しく。叱られるために、帰らないといけない」
だから、少しも揺れたくない。悩みたくない。分からないなら、それでいい。
俺は藤棚から立ち上がると、助走をつけて、ジャングルジムを駆け登る。靴底を引っ掛けて、大きく三歩。
その頂上で、私は、風を感じた。
振り返る。そして、笑う。
「見つかった。かくれんぼはおしまいだ。さようなら。……きっと、今でも貴女を愛しているよ」
平成は、夕暮れを見つめていた一之瀬のように、静かに、眩しそうに目を細めて、泣いていた。
五二㎐の鯨の鳴き声は、少しずつ低くなってきているようだ。
少しずつ、誰かに気付いて貰えるように。孤独な鯨は、微かにこちらに近付いてきている。
名前のない彼の病室には、入り口にネームプレートが出ていなかった。
ベッドが左右二つずつ並ぶ室内。入り口から見て一番左奥のカーテンだけが、静かに閉まっていた。
それを開く。そこに眠る彼を見て、短い時間息を止める。
「……オレ、思い出しましたよ、進さん」
スーツが似合う背の高い彼には、薄い青の病衣は似合わない。枕元に立って、顔を近付ける。
眠る彼の表情は穏やかだ。少しだけ髭が生えている。それでも彼は、やはり恰好良い。
「見つけた、宗方進さん。貴方はここにいる」
少し開いた窓からは、まだ春を引きずった初夏の、心地の良い風が吹き込んでくる。
風が、カーテンに少しだけ隙間を作った。柔らかく真っ直ぐな日差しが、彼の目元を掠める。
ふる、とその瞼が揺れた。
オレは五二㎐の鯨を見つけた。
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