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幕間~平穏なる日常⑦ ある朝食の風景②
目の前には大好物の鮭とほうれん草のクリームパスタが乗っている。フォークに巻いて一口食べただけでとても美味しく、普段なら10分と経たずに平らげてしまうだろう。
けれどどうしてだろう。こうもフォークが進まないのは。
逸夏はちらりと彼女の正面に腰かける青年を盗み見た。
椅子に深く腰掛け、きりっと背筋を伸ばし、逸夏と同じものを黙々と口に運んでいる姿は現実感がない。音すら殆どしない。
パスタに添えられた瑞々しいサラダも、逸夏の大好きなトマトがスライスされ何枚も載っている。ドレッシングも彼女の好みに違いない。
先に出されたコーンスープも間違のない味だった。なのに……なのに……。
「陸お兄様……」
逸夏は涙声で正面の青年に呼び掛けた。
「どうしたんだい?」
青年の声は穏やかだ。逸夏を責める気持ち何てこれっぽっちもないのかも知れない。
「わたし……いつになったら帰れるの……?」
青年はその問いに困ったように微笑んだ。
「それは……難しい問だね」
逸夏の従兄弟にあたる青年、陸は、フォークを置いててをテーブルの上で組んで小首を傾げる。
「僕は叔父さんに頼まれただけだし……叔父さんと婆様の怒りが収まらない限りは難しいかなぁ」
家出まがいの冒険はすでに逸夏の中では遠い昔のような感じがしていた。しかし、夜の夜中まで帰らなかった――正確には帰れなかったというのが正しいのだが――ことは父の逆鱗に触れてしまったようだ。
お仕置きとばかりに祖母の住む本家に放り込まれて、早一週間が経とうとしている。
学校だけは本家からもちゃんと通わせてもらえているのだが、正直もう家に帰りたかった。
本家は逸夏の通っている学校からは遠く、中学生でも徒歩や自転車で通うことは出来ず、校門まで送り迎えがついている。
帰り道に友達とおしゃべりすることも、ましてや寄り道など許されるわけがなかった。
「今回は諦めて素直にここで過ごすしかないよ。逸夏に甘い叔父さんも流石に今回は……というか、心配し過ぎて怒っているんだと思うよ、僕が見ても判るくらいだから……ね」
「でももう一週間だよ。家に荷物取りに帰るのもダメって、ひどいよぉ~」
陸の宥める声も逸夏の慰めにはならない。
困った顔のまま固まった陸の顔も、うつむいたままフォークを握りしめる逸夏には判らなかった。
逸夏の耳に小さくため息を付く音が届いた。ああ、大好きな従兄弟を失望させてしまったと、少女の小さな胸が痛んだ。
「ごめんね、逸夏を助けてあげることは今の僕にもできないけれど」
失望したと思っていた相手からの言葉は想像以上に優しい。
ぽんと頭にのせて掻き回すように撫でる手も暖かだ。
「じゃあ、僕と一緒に取りに行こうか。それならきっと婆様も許してくれると思うんだ」
ぱっと顔を上げた逸夏の顔は輝いている。
それを見て陸はホッと息を吐いた。
「じゃあまずは、朝食を食べてしまわないとね」
「はいっ!」
満面の笑みで頬張るパスタは、ちょっと醒めていたけれどとても美味しかった。
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