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幕間~平穏なる日常④ 街角にて
疾上(とかみ)正樹(まさき)は小心者である。まず、他人の顔を見る事ができない。何故かと聞かれても困る。なんとなくだ、なんとなく。
そもそも正樹は乱視が酷くどこを見ても世界が歪んでいる。にもかかわらず日常では眼鏡もしていない。だから人の顔を見たところで顔をよく認識できるかというと疑問だ。
だから、こんなことを言われても困るのだ。
「お兄さん何処かで会った?」
残念ながら逆ナンパではない。彼女は今、道路に座り込んでいる。
道を歩いていたら前を歩いていた女性がいきなりコケたのだ。
驚いて駆け寄りばら撒いてしまった鞄の中身を差し出したところこんな台詞を言われたというわけだ。
特徴的な浅黒い肌にタイトな黒いロングスカートといういでたちの女性は、コケた拍子に捻ったのか右の足首を摩(さす)っている。
外国人かと思ったがその言葉の発音にはそんな雰囲気は聞き取れなかった。
派手な服装のわりに露出自体は少ない服装だなあとこんな状況でのんびり考えていると、女性は正樹から受け取った物を鞄に仕舞い今度はしっかりと鞄を閉めて立ち上がろうとした。
「ってて」
思ったより強く捻ってしまったのか、女性は再び道路に座り込んでしまう。
驚いて彼女に手を差し出し、軽く引き上げるとふわりと彼女は想像以上に軽かった。
通りの建物側にある塀に寄りかかるよう身振りで示し、手を離すと今度は落としてしまった女性のバッグを拾い上げて彼女の前に差し出す。
体とは反比例して重さのある鞄に、コレのせいで転んだのではないかと思いをめぐらせた。
「あ、ありがとう」
また転ばないように彼女に鞄を持たせるのではなくその前に置き、取り合えず他の人の往来の邪魔にならないようにした。
周囲には車の行き来はあるものの歩いている人はまばらではあったが、こんなところで座っていれば自転車などである程度スピードを出されたら二次災害になってしまうかも知れないと思ったのだ。
そう、正樹は心配性でもあった。
「大丈夫ですか、足?歩けます?」
痛めてしまったらしい右の足首を気にして、少しずつ動かしてみている女性に声を掛けながらもその顔を見る事が出来ないでいる。
目線を下げていた関係で目に入ってしまった腰周りは、そのタイトな服装故にラインがはっきり見えている。
適度な大きさの膨らみは彼の好みだった。思わずごくりと生唾を飲み込んでいる自分に少し赤面し慌てて目を逸らす。
「ありがとうございます。ゆっくりならなんとかなると思います」
その派手ないでたちからは想像が出来ないほど丁寧な物言いに驚いて思わず顔を上げた。
目に入るのは驚くほど大きな瞳。艶めく漆黒の瞳に、緩くカーブを描く同じ色の髪は腰に届くほどだ。
彫が深く派手めの化粧をしているせいもあり顔を見ても国籍不明な女性ではあったが、その言葉遣いは流暢(りゅうちょう)で外国人とも思えなかった。
「……」
目線があったことでにこりと微笑みかけられ、思わずその笑顔に見惚れてしまう。しばらくぼんやりしてから、気を取り直して咳払いをした。
「駅まで送りますよ。心配ですから」
らしくないことをしていると言う自覚はあった。頬の赤みが増しているだろうということも判っていた。
「……ありがとうございます。でしたら、コーヒーを付き合っていただけませんか。帰りに結構歩くので。勿論、ごちそうしますから」
その笑顔から目線を逸らせないままこくこくと頷く男が一人。
一目惚れってあるんだなあなどと、この偶然の出会いをどこか遠く感じながら思った。
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