ソレとバケモノ

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物心ついたときから『ソレ』はいた。 子供の頃は目だけだったものが、私の成長と共に肉付いていき、ゆらりと蜻蛉のようにたたずむ姿は静かで物悲しかった。 受肉するときは決まって私がピンチのときだったように思う。 小学生のとき不用意に道路に飛び出しトラックに轢かれた。10tトラックに撥ね飛ばされ誰もが即死だと思った事故で私はかすり傷で済んだ。父と母が泣いてすがり付く後ろでソレには手のようなものが増えていた。 次に覚えているのは高校生になっておたふく風邪を引いたときだった。 大人になってから引くおたふく風邪の症状は想像以上のものがあった。何日も熱が退かず頭痛と吐き気、両頬の痛みに悩まされた。 朦朧とした意識のなか、ソレは私を見下ろしていた。 その頃になると耳や口なども形成されていたソレは 「ゆる…サ…ナぁい…」と聞くもおぞましい声でつぶやき消えた。 そして翌日にはすっかり熱も下がり痛みも引いていたのだった。 姿かたちは薄気味悪く不気味だが悪さをしてくるのでもなく、むしろ守ってくれているのかもしれない…そう思うようになると心強いな、などと呑気に思い始めたのだった。 大人になり私は恋をした。一つ年下の彼女は小さくて可愛いらしく溌剌として賢い人だった。 明るくて人懐っこい彼女はとてもモテたため頭でっかちで地味な私には到底叶う恋ではなかったはずだが、 恋愛とはタイミングなのだろうか。不思議と帰り道が一緒になったりたまたま出掛けた場所で何度も遭遇した。 決め手はボランティアで行った児童養護施設だった。ここまでくるとストーカー扱いされてしまうのではないかと慌てた。 「ぼ、僕は付け狙ったりしてないです!ストーカーじゃないんです!偶然なんです!でも怖がらせてしまっていたらすみません…嫌なら僕が帰りますから子供たちを不安にだけはさせないでください…。」そう言うと彼女は一瞬ポカンとした表情になり 「そんなこと思ってないですよ!一緒に子供たちと遊びましょう!」笑いながら私の手を取り子供たちの輪の中に引っ張った。 それからは彼女の方から頻繁に声をかけてくれるようになり最終的に告白をしてくれたのも彼女だった。 初夏の暑い日だった。ひまわりを見に行きたいと彼女に誘われ座間のひまわり畑に行った。 彼女の背丈より高いひまわりの中をずんずん進む彼女を追いかけようやく捕まえるとはにかみながらあなたが好きだと言われた。 私たちの初めてのキスは、黄色いひまわりがそっと隠してくれていた。 大学を卒業と共に彼女と結婚した。私も彼女も子供を欲したが3年たってもその兆しはなかった。 子作りにいいと言われるサプリメントは軒並み試した。全国各地の子宝神社にも足しげく通った。 不妊治療のクリニックにも通い私に問題があることが分かった。思い当たるのはあのときのおたふく風邪だったが今となってはなすすべなく私は荒れた。なによりも彼女を愛していた私は私が彼女を不幸にしてしまうことが怖かった。そしてそれ以上に彼女を失うことが怖くて仕方がなかった。 自分のそんなエゴと向き合うことができず帰宅が遅くなり彼女と話さない日々が続いた。 そんなある日、家に帰ると家の中がめちゃくちゃだった。家具は倒れ食器は割れて散乱していた。中でも酷かったのは寝室でシーツは切り裂かれ布団と枕から羽毛が飛び出し風圧でふわふわと舞った。 すぐに彼女の安否が気になった。風呂場からカンカンと高い音がして急いで向かうと彼女が鍋をトンカチで叩いていた。 「お帰り。」鍋を叩きながらごく普通に言うものだから 「ただいま。」と答えてしまった。そうじゃない、この状況は一体なんなんだ…。 「部屋見た?三日前からなの。帰らないから知らないよね。今はね、あなたにおねだりして買ってもらったこの鋳型の鍋をぶっ壊そうとしてるんだけど…無理…交代して…。」はぁとため息をついて彼女はトンカチを置いた。 「…鍋、壊しちゃうの?」間抜けな質問だ。 「そう。鍋も…何もかも全部壊そうと思って。いけない?あなたが壊す前に私が壊すの。」 小さな彼女は小さいと言われることを嫌がりヒールの高い靴を履いた。いつも私より少し前をせかせかと歩く。そんな高いヒールを履いて転ぶよと言うと案の定転んだが「転んでない!」と血をだらだら流しながら言い張った。そんな強気でドジなところが可愛くて健気で愛しかった。 「…あなたは子供ができないことを自分のせいだと思ってるのかもしれないけど…。あなたの願いの一つや二つ叶えてあげられない私のせいでもあるのよ…?」ポツポツと彼女は話し出した。 風呂場は冷えるのでめちゃくちゃなリビングに誘導し辛うじて無事だったやかんやカップで温くて甘い紅茶を淹れた。 「あなたは優しくない人よね。」スンスンと泣きながら私を睨む。 「思い返せばずっと優しくなかったわ。カバンを持ってくれるでもなし、美味しいレストランに連れていってくれれるでもなし…。でも、ここぞという時だけ手を貸してくれるの。子供にも根気よく付き合ってあげたりして…そんなの…ずるいわ…好きになっちゃうじゃない…。」優しいと言われたことはあっても優しくないという評価を受けたのは初めてで驚いた。でも自覚はあった。私は優しくなんてないのだ。 「勘違いしないで。あなたが私を選んだんじゃないのよ?私があなたを選んだの。あなたに選択肢なんてないわ!」うんうんと聞きながら彼女の背中をさする。鼻水を垂らしながら泣く彼女が不謹慎だが可愛くて胸が苦しくなった。 「君を愛してるんだ…。」 「知ってるわ。」 「不幸にしたくない。」 「当然ね。」 「僕には子供を作ってあげられない。」 「神も仏もないものね。」 あぁ、別れ話をとうとうしなければいけないのか…目の前が真っ白に染まっていく。 「神も仏もないなら…私にはバケモノがいるわ。」 彼女の言葉にハッとした。驚いてみつめると勝ち誇ったように彼女は私をみつめた。 「子供うんぬんの話しじゃないのよ?頼るものなんて神様仏様だけじゃないって話し。言ったことあったかしら?私にはバケモノがついてるの。」ガオ~!ととっておきの怖い顔をして私をおどかす。 「バケ…モノ…?」 「そう、バケモノ。子供の頃から時々見かけるのよね。そのつど姿は違うんだけどこちらを悲しい目でみつめるの。それでねイタズラをするのよ?」少し懐かしそうに語る彼女にバケモノを恐れている様子はない。 「あなたと…よく会ったじゃない?思い返してみるとそうゆうときにあのバケモノは悪さをしたんだわ。傘を隠したり、いつもは通らない道を通らされたり…。課題を隠されたときは怒り狂ったわ~!…でも結局あなたが手伝ってくれたんだけど…。」さっきまで大泣きしていたのにころりと変わって笑っている。よくしゃべる彼女の鈴のような声を聞くのが好きだ。 「あなたと遭遇した児童養護施設のボランティアもね、今思うとバケモノに行くよう仕向けられたんだわ。」ふぅと息をついて紅茶を飲む。よかった、少し落ち着いてきたようだ。 「だからね。私にはバケモノがいるの。あなたも諦めなさい、あなたは私を愛する以外何ができるの?神も仏もないっていうならあたしが出世してなってやるわ、あなたの神に。あなたのためならなれないものなんてないのよ。」上目使いでみつめる彼女は言葉とは裏腹に不安そうにしている。 「僕でいいのかい…?」 「愚問だわ。」 「愛してるんだ…。」 「私もよ。だから片付け手伝ってね?ごめんね?」いたずらに笑う彼女を抱き締め久しぶり生殖ではないセックスをした。羽毛が飛び散るのがおかしくて笑いながら抱き合った。 私たちはようやく本当の夫婦になったのだ。 それからは二人の時間を大切にした。まずは家を建てた。旅行にでかけたり夕飯を一緒に作ったり、とりとめのないことを慈しんだ。 そんなときだった。 「妊娠したの。疑われないとは思うけど…あなたの子よ?」 諦めたときに子供はできる…そんなことを聞いてはいたがまさか…という思いから言葉がでなかった。 「子…ども…?」 「そう。産むわ。」 「し、仕事は…?君、通常じゃありえないペースで出世してるよね…?」 「そこよね。まぁ…でも…これからも出世もするし、子供も産む。できないことじゃないでしょ?」 彼女の企画が通り本腰を入れてこれからだという時期だった。 「俺が家事も育児も頑張るから産んでくれ!でしょ?」手を握り私が一番弱い笑顔でみつめてくる。 「僕が家事も育児も仕事も頑張るから…産んで…ほし…い…。」泣かずにはいられなかった。私の子供か疑うなんてものじゃない。彼女が産んでくれるならバケモノだって愛する自信があった。 それからの日々は絵に描いたような幸せだった。少し早産で生まれた息子は彼女に似て美しく聡明で愛らしかった。 「こんなに人を愛したことがないよ…。」と息子を抱き締めながら言うと、 「失礼しちゃう!私はどうなのよ!」と彼女はむくれた。こんなにも満たされているのに私の小さな器からはじわじわと甘い密が溢れ取りこぼすことが怖かった。 息子が小学校に上がると、彼女が体調を崩した。最初は疲れがでたのだろうと言っていたがある日彼女が倒れて救急病院に運ばれたと連絡があった。 急いで病院に向かい医師から説明を受けたあと彼女がいる病室に入った。 「あぁ、ごめんね。あの子は?」 「今は母さんが見てくれてるから大丈夫。体調はどうだい?」 「点滴してだいぶね。…しばらく入院ですって。あの子が心配…次の日の準備ちゃんとするように言ってね。」そう言うとパソコンを取り出し仕事を始めた。  彼女は血液の癌だった。 数ヶ月後、彼女はクリーンルームにいた。抗がん剤の使用で抜けることが分かっていた自慢の黒髪は事前にカットしヘアドネーションにした。 「ねぇ。この病室は窓がないのね。」小さな彼女は更に小さくなってマスク越しの私に声をかけた。 洗濯物や日用品の補充をしていた私は手を止め椅子に座り消毒した手で彼女の手を握った。 「そうだね、外はイルミネーションが綺麗だよ。」 「イルミネーションなんて言葉知ってるのね!驚いたわ。」私は猛烈に後悔した。クリスマスなどのイベントごとに興味がなかった私は彼女とイルミネーションを見に行くなんて考えもしなかった。彼女は何も言わなかったが…寂しかったんじゃないだろうか…。 「嫌味じゃないわよ?私はどっちでもいいのよ。あなたとなら一匹の蛍の光だって特別だわ。」 「僕はつまらない男だよ。」  「否定はできないわね。」 「君を幸せにしたいんだ…。」 「幸せだったわよ。」  「…だった…なんて言うな!」初めて彼女に声を荒げてしまった。目を合わせられない、息ができない…。 「ねぇ、覚えてる?初めて手を繋いだときのこと。」そんな私のことなど気にせず彼女は話し出した。 「あなた、何度もデートしてるのに手も繋いでこないから私から繋いだじゃない?そしたらなんて言ったと思う? 『支えが必要なんですか?』って。真顔で!」思い出したのか笑う彼女の目尻にはあの頃にはなかった皺が寄る。 「恥ずかしいやら悔しいやらで…思わず『あなたがフラフラしてるからあたしが支えてあげてるの!』って言い返しちゃって。そしたらあなたはありがとうございます、って。思い通りにならない人よね。」 本当はすごくびっくりしたんだ、素直に言えなくてごめんよ。 「あの子をよろしくね。夜は寝る前に二冊本を読んであげてるの。赤ちゃんの頃からずっとよ。」 「おかげで本が大好きになってるね。」 「私は怒ってばかりであの子はパパのが好きよ。」 「言うこと聞かないのは君に似たんだよ。」 あはは、と力なく笑う彼女の頬には私には絶対見せない涙の跡が残っていた。 寒い満月の夜、彼女はそっと息を引き取った。 葬儀が終わり、彼女の側でようやく一人になれた夜。ふと部屋の角を見るとソレがうずくまっていた。 「…今さらきたのか。ずっとお前を呼んでいたのに。神も仏もないならお前しかいないって彼女が言ったんだぞ…。僕なんて望むなら喰い殺してくれたっていいんだ…だから…彼女を…還してくれ…。」今まで生きてきてこれほどまでに怒りを感じたことはなかった。自分ではどうにもできなかったことを他者に責任転嫁するなんてどうかしてるのは分かってる。でもなぜかソレが許せなかった。 ソレはひどく空虚な瞳で私をみつめるとすぅっと消えた。 小学校に上がると同時に一人部屋になった息子は彼女が入院すると一人で寝ることを嫌がるようになった。 彼女がしていたように絵本を読み母が寝かしつけてくれたはずだが気づくと息子が立っていた。 「どうした?寝れない?」 「…ちょっとね。ママ、寒くないかな。」死を分からない年齢でもない。分かっていても思いやる息子の言葉に胸がつまった。  「パパ、ぎゅってして?」見上げる目は彼女にそっくりだ。猫のようにつって大きな目。いつも楽しいことを探す好奇心旺盛の目。ぎゅっと抱き締めたが抱き締められたのは自分なんじゃないだろうか。息子は自分を慰めてほしいのではなく、私を慰めているのだ。 覚悟を決めよう、覚悟するしかないんだ。 仕事は定時で上がれるものにシフトし息子最優先の生活に切り替えた。 彼女がよく言っていたことを思い出す。 「あの子を叱ってばかりでいやになっちゃう。思い返すと今より小さかったとき手を焼いたことなんて可愛いもんだったなって思えるのにどうして現状だと思えないのかしら。未来から過去に戻ってこの心境で子育てしたいもんだわ。」その時は子育てのアドバイスめいたことを言って余計怒らせてしまって何がいけなかったのか分からなかったがきっと彼女は共感してほしかったのだ。共有したかったのだ。一人じゃないと言ってほしかったのだ。子育てとはそれほどまでに孤独で不安なものだと初めて知った。今さらそれを思い知り後悔し苛まれ蝕まれていく。 生活の端々に彼女を感じる。徐々に私は狂っていったのだろう。彼女に似た息子を守ることだけを生き甲斐とし息子を傷付けるものは息子ですら許さなかった。 息子は成人した。 私が息子を育てたなどと烏滸がましいことは思わない。息子は自分の力で成長してくれた。それを見守らせてもらえたことを有難いと思う。 息子が独立してから布団をロフトに上げ寝起きをそこでしている。 「昔から夢があったの。ハイジみたいに屋根裏部屋に藁を敷いて丸窓から星空をみてみたいのよね。」結婚前、彼女と旅行に行った先のガゼボでふと言った言葉を私は忘れなかった。 家を建て、設計上では窓のないロフトにしたが建築士さんにお願いしてサプライズで丸窓をつけた。  藁を敷くのは難しかったので布団を敷いて彼女を呼ぶと大層驚いていた。 「あなたにサプライズをするという発想があることが最大のサプライズだわ…!」なんて憎まれ口を聞いていたが布団にくるまり少女のようにキラキラとした目で外を眺める彼女は可愛かった。 「幸せってこの窓から見る月のようね。」 「どうゆうこと?」 「あなたにもそのうち分かるわ。」その時の彼女は何を思ったのだろう。 今日は下弦の月がよく見える。細く刺さりそうな月は満月より光が強く感じる。 あぁ、そうだね。刻々と変化し、見えたり見えなかったり。星に彩られたり雲に隠されたり。同じ風景なんてない。 それでも私が思うのは息子の幸せただ一つなんだ。形も色も匂いも大きさも分からない、息子だけの幸せなんだ。 ふと何かが引っ掛かった。思い出さなければいけないことを、とても大事なことを忘れている気がした。 いや、忘れているんじゃない。これから知ることなのか…。 ロフトいっぱいに飾ってある彼女の写真に目が行った。 「あなたはいつも、余計なことばかり考えちゃうのよね。」ーそうだね、怒られてばっかりだ 「忘れたの?」ーまだ知らないだけだよ。 「遅くなったけど私は約束守ったわ。」ー出世したんだね。 そうだ、『ソレ』も『バケモノ』も私ではないか。息子を失うことが怖くて怖くて思い立ったのだ。 あのときもし事故にあって死んでいたら。 あのときもしおたふく風邪が長引いていたら。 あのときもし彼女と出会っていなければ。 あのとき、あのとき、あのとき、あのとき…。 そんな私の妄執は刻を越え、姿を変えたのか。 「遅くなってごめんね、この輪廻を何度繰り返してたのかしらね。」ー幸せだったよ。 「あなたが過去に行かなくてもあなたは助かったし私はあなたをみつけたし息子は産まれたわ。」ーまた余計なことをしていたのかな。 「だから言ったでしょ、あなたにできることは…」ー君を愛することだけだ。 目が覚めると丸窓には月はなく、大きな星が一つだけ見えた。涙が一筋、すぅと流れるがどうして泣いているのかが分からない。だけどとても悲しくて懐かしくて痛い。 大事なことを忘れてしまった気がするけれど、体が軽い。 明日は彼女との思い出の場所に行こう。 あのひまわり畑できっと君をみつけるんだ。
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