灯火

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 今日もこの時間がやってきた。人々は通りに出て来て歓談する。(つえ)の音がし始めたら皆、各々の作業に取りかからねばならない。それまでのこの数分間は、皆が通りに顔を出す貴重な社交の時間である。今日は、住人たちの楽しげな声がいつもより少し長く続いた。  どうしたのだろう。(つえ)の音もしなければ、遠くの街灯が()く気配もない。人々は慌てた。こんなことは誰も経験したことがなかったのだ。口々にあの老人の身を案じたが、彼の身に何が起きたのかを知る(すべ)はなかった。彼の名前も住処(すみか)も、声さえも誰も知らない。彼らの心に不安の霧が立ち込め、空気が徐々に重みを増す。それに呼応するかのように、夜の(とばり)もゆっくりとおりてきた。 「どうにかして明かりを灯さなければ。」 誰かが言った。そうだ。一日休んだくらいで街の明かりが消えるとあっては、彼がますます休めなくなってしまうではないか。幸い彼らは何年も繰り返し老人の作業を見てきたし、その作業自体そこまで難しいものではないようだった。まとまりのない群集の中、一人の若者がいち早く動き出した。彼が近くの街灯に近付き、小窓を開けようと手を伸ばしたちょうどその時、街中に蝉の合唱のような大きな音が響いた。 ヂッヂッヂッ。 通りのガス灯が一斉に(わめ)きはじめたのだ。そして、一つ、また一つと火が(とも)っていく。  通りから話し声が消えた。人々は力なく口を開け、街灯を見上げている。何が起きたのか理解ができなかったのだ。彼らにとって街灯とは、一つ一つ手で()けない事には()かないものであり、それは当たり前の事だった。  人々の心が落ち着きを取り戻し始めると、熱湯の泡のように疑問が次々に()き上がって来る。街灯がひとりでに()くようになったのはいつからなのか。今日から自動操作に変わったのだろうか。老人が現れなかったのもそのせいなのだろうか。いや、しかし、街灯の切り替え工事など無かった。それは間違いない。では、もともと自動で()くはずの物だったのだろうか。ならば、あの老人は。 「あの人は何者だったのだろう。」 誰かが(つぶや)いた。その声は天から降り注いだかのようにいやに反響し、人々はドキリと体を強ばらせた。誰もが思い至り、しかし、何となしに直視すまいとしていた疑問だった。老人が誰にも雇われていないことは皆が知っていた。たしかに、彼の存在を不思議に思ったことが無かったわけではない。しかし、誰かがやらねばならないことを進んでやっている彼の親切心を疑った事など一度もなかった。もしかすると正式な点灯員がいたのかもしれないが、彼がいるからとお役御免(やくごめん)になったのだろう。漠然(ばくぜん)とそんな風に思っていた。しかし、その日課自体が元々不要なものだったのならば話は変わってくる。人々が口には出さずとも感謝していたその行為は、ただの老人の奇行に他ならなかったのだ。  人だかりはゆっくりとほどけ始め、それぞれが各々の作業にとりかかる。やがて街は形だけはいつもの風景を取り戻したが、活気と呼べるものは感じられない。口を開くことはあれど、皆示し合わせたように、街灯の事や老人の事には誰も触れなかった。気持ちの整理がついている者などいない。疑いもしなかった常識がたった一人の些細(ささい)な行動で作られていたこと、そしてそれが(いつわ)りであったこと。二つの事実が一度に突きつけられたのだ。この衝撃に街は耐えられなかった。  老人が彼らに危害を加えた訳でもなければ、彼らがその行動で不利益を(こうむ)った訳でもない。むしろ彼の行動が街に活気をもたらしていた事も、老人に悪意が無かったであろう事も明らかだ。しかし、ずっと、10年以上もの間、真実が隠されていた、(だま)され続けていたという考えは、簡単にぬぐえるものではなかった。
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