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『極道子育て生活』
鏡の前に立ち、引き出しに入れてあるワックスを手に取る。
短く整えられた爪がその中身を削ることはなく、指の腹で丁寧に必要な分だけ掬われ、両手に広げられた。
『オールバックより下ろしてる方がいいと思う』
生意気な小娘にそう言われたけれど、こうビシっと決まった見た目じゃなければ下の連中に舐められてしまうだろう。そんなのはまっぴらごめんだ。
「うっし」
それでも以前よりは少なくなったそれで固めた髪を左右首を振って鏡で確認する。大丈夫そうだと頷いて手を洗い、そして一歩下がったところで「おっといけね」と、黒いスーツの上の黄色いキリンの可愛いイラストが描かれたエプロンを取り外せば、「みつくーん」と向こうから呼ばれた。
「おー、どうした愛菜(あいな)」
エプロンを軽く畳みながら洗面所から出て行く。
「お前もそろそろバス来るだろ。準備出来たかー?」
「おべんと、おーかちゃんまちがえたみたい」
「……は?」
聞こえた言葉に眉を寄せ、まさかと思いながら駆け足で居間へ行けば、テーブルのそばでちょこんと座る愛菜と、そのテーブルの上にちょこんと置かれたお弁当。
すでに袋に入っているそれは、先ほどまで二つ並んであった。柄を見ずとも大きさでどちらのお弁当なのか分かるものだったのだが、明らかに小さな女の子が食べるには大きすぎるお弁当が残されている。
ひゅっと息を吸い、一気に吐き出した。
「だぁぁぁ! 桜華(おうか)の奴、弁当間違えて持って行きやがったな!?」
持っていたエプロンを放り投げ、ポケットに入れていたスマホを取り出す。だがいま電話を掛けたところで彼女が出るとは思えない。
「あいつっ、だから慌てて出るなって散々言ってンだろーがっ!」
「おーかちゃん、おべんと、たりないー」
「そうだな……って、愛菜は逆に量多いじゃねぇか! てかまず幼稚園カバンがパンパンになンだろ!」
くそ! と舌打ちをしながらお弁当を手にしてキッチンへ走る。
とりあえず桜華のこのお弁当の中身をもう一つの愛菜の弁当に詰めるしかない。
「少ない弁当持ってって腹空かせるのはてめぇだぞ桜華っ」
「みつくん、バスのじかーん。あいないくよー」
「待て愛菜っ、お前弁当っ、いま弁当お前用に詰めてるからっ」
「くつさんもまってるってー。せんせいもまたせちゃ、だーめ」
「いや、でも、愛菜、いやおい、あーいーなっ!」
パタパタと走る音が聞こえる。このまま外に出てもまだマンションの廊下だ。問題ないとは思うけれど、心配ないというわけではない。
「バスまってー」
「お前が待てゴラぁーっ!」
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