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シャッフル
家の近くにある大きな公園へと着き、すぐにジョギングを開始した。まるで自ら敷いたレールの上をタイムトライアルするように、己との戦いでもあった。あそこからあそこまでをどのぐらいの時間で、休憩は何周後に、そんな自己ルールを作って、休日に繰り返していた。
きついメニューではないし、楽しく続けられる習慣だ。周囲の景色を楽しみながらジョギングするというのは、なかなか気分転換になることだった。年輩の方とよくすれ違ったし、近所の夫婦が挨拶してきたりする。
学生のテニス集団が歩いていたり、その脇道を一気に駆け抜けていったり、と本当に毎日、飽きなかった。夕方のこの時間になると、日差しも引っ込み、過ごし易い気候になる。夏の終わりにぴったりの黄昏時だ。どこか哀愁を誘うような、美しい時間の流れ方をしていた。
ゆるやかに時間は流れていく。でも、僕の心はいつまでもここに留まったままだ。来年は大学に通うというのに、どこか、実感が湧かなかった。受験勉強は始めているけれど、心はまだ、このジョギングに置き去りにされている。
ふと思うことがある。今、この瞬間が永遠に過ぎ去ってしまう、と考えると、本当にそれが名残惜しく感じられる。僕はいつかこの街を出ていかなくてはならなくなる。記憶の残滓に霞んでいくことになるだろう。
それでも夕陽はいつだって、僕らを照らしてくれる。肌が朱に染まっても、淡く色を重ねてくれる。頬の火照りは夕焼けに取って代えられる。そして、僕らは心から笑うことができた。夕陽はいつも僕らを優しく燃えるような眼差しで、包み込んでくれる。
それなら、僕には一体今、何ができるのだろう? この日々にどんな答えを見つけられる? その問いこそが僕の求めているものだ。そして、そこに僕の思い描いている想像がある。
夕陽が丘の上から輝いていた。この時間になると拝める。毎日ここに見に来ると言って良い。本当に僕らを呑み込んでしまう、激しい赤の芸術だ。
光の塊が渦巻き、僕らの魂を呑み込んでしまった。そこから吐き出されると、もう、今までの僕らはいない。夕陽が沈む度に僕らは生まれ、死に、そして再生する。まるで僕らの呼吸が繰り返されるみたいに。
生死はずっと繰り返される。それこそが日常だ。
「やっと追いついたよ」
激しく息を切らしている誰かの呼吸音が聞こえ、僕は驚き、振り返った。小さな影がこちらに歩いてくる。ショートカットの髪が夕陽に照り輝き、汗をポタポタと滴り落とした。膝に手を当てて、肩を揺らしている。
手紙を取り返そうと郵便屋を追いかけてきたみたいに。
「本当に玲君は速いんだね。声かけても、あっという間に、視界から消えちゃうし。何でそんなに速いの? これじゃあ、肺がいくつあっても、足りないよ」
「そんなに必死になって、追いかけてくることもないだろ? ていうか、何で島崎がここにいるんだ?」
「怜君と目的は同じよ。ジョギングを続けてるんだ、私」
僕はぽかんと口を開けてしまう。普通の女の子なら、その言葉に驚くことは全くないだろうけれど、島崎の口からその言葉が出ると、どうしても、呆然としてしまう。彼女は苦しそうに息を弾ませ、近くのベンチへと腰を下ろした。
「意外でしょ? 私が、ジョギングしているなんて」
「意外っていうより、本当に大丈夫なのか? そんなに激しい運動して、何かあったら、どうするんだよ?」
「大丈夫よ。その為にじっくり続けてきたんだから。最初は早足から始めて、それから少しずつペースを上げて、徐々に距離を伸ばしていったの。そしたら私にも走れるんだって大きな自信になったわ」
「本当にすごいよ、島崎は……」
心からの本音だ。あの病弱な島崎がそこまで熱心に走るなんて、本当に驚きだ。そこにはどれ程の痛みや苦しみがあったのだろう? 僕が呼吸を一つすると彼女も咳を一つ返すようなものだ。それだけ、彼女は苦しんできた、ということだろう。
「最近、欠席が減ってきたのは、この影響だと思ってるんだ。私も皆と同じように、何かを掴み取りたいって思ってた。いつも怜君が陸上で頑張ってる姿を見る度に、本当にすごいな、って憧れたんだ。私もあんな風に走れたらって思うと、すごく悔しかった。だけど、よくよく考えてみたら、何かをあきらめる必要なんてないんだよ。そんなこと、誰が決めたの? できるかどうかは自分で決めること。だから、私はそれをできることに変えてみせた」
いつもにこにこと微笑んでいる島崎が、その時ばかりは眉を逆立て、剣呑な眼差しを向けてくる。その熱に触れ、僕も体がわずかに震動した。魂の震えが伝わってきた。生きることに必死になりたい、と僕は強く思った。
「島崎は本当にすごいよ。僕なんかより、ずっとすごいね」
すると、彼女はびっくりした様子で振り向き、何を言ってるの? と驚いている。
「すごいのは玲君の方でしょ? 私はここまでしか走れないけど、怜君ならどこまでも高みを目指していけるじゃない。私なんかじゃ、比べ物にならないよ」
「それは違うと思う」
僕は山間へと視線を戻し、夕陽をじっと眺めながら、少し笑みが消えるのがわかる。
「僕が言っているのは、心の問題についてなんだ。島崎は体が弱くても、途方もない努力でそれを克服した。そんなことは僕にはできない。君だからこそ、できたことなんだ。でも、僕はどんなにスポーツが得意でも、どこにも踏み出せていない。いつまでもここが名残惜しく、ずっと留まっているだけだ。どこにも、踏み出せていないんだよ」
「そんなこと絶対、有り得ないよ。玲君ほどの、努力家はいないから」
「いや」
僕はそう言って顔を歪め、島崎の戸惑う顔を見つめた。彼女は困ったように微笑み、少し真面目な顔つきになる。
「実は僕も、島崎と同じことを考えていたんだ」
「え?」
その言葉の続きを聞くよりも早く、僕は夕焼けを目に映したまま、話を続けた。
「こうやって夕陽を眺めていると、キャンバスにこれを描いたら、どんなに楽しいだろうって心躍るんだ。夕陽を見ていると、絵が描きたくなる。だけど、僕にはそんな才能なんてないし、スポーツ一色の僕には似合わないって誰かが言った。そんな寂しいことを考えている自分自身が本当に恨めしく、もっとやりたいことがあるのに、こんなにも時間と熱意があるのに、って何度も思ったよ」
彼女は本当に驚いていた。それが全く予想外の言葉だったからだろう。
「島崎が描いた絵を見る度に、心から震えた。こんな絵を描ける女の子が本当にいるんだって。それなのに、僕が描く絵は――いや、描くスタートラインにさえ、立っていないか。僕は島崎の絵を見ながら、いつも自分の可能性について考えてしまっていた。もし、僕が絵を描いていたら、陸上に呑み込まれずに別の道を歩んでいたらって」
ぐっと強く肩を掴まれた。振り向くと、彼女の瞳にはどこか危ない光が宿っていた。別にそれは悪い意味ではなく、あまりに真剣すぎた光という意味でだ。
「怜君こそ、できない訳ないよ。だって、それができるかどうかは、自分が決めることだから」
そうだ。できるかどうかは、自分で決めることだ。
その言葉を反芻した。彼女は僕の走りに憧れ、僕は彼女の絵に憧れた。今まで僕達は別々の道を歩んできたけれど、交差点で交じり合った瞬間、呼吸を交換し合った。
「僕は今、美大を目指し、絵の塾に通ってる。本格的に絵を始めて、猛特訓してる。でもやっぱり、陸上の可能性も追及してる。まだ道は定まってないけど」
「そうなんだ」
ふと島崎の顔が朱に染まった。それははにかむようでもなく、恥じらうようでもなく、別の意味での火照りだ。それは熱情と呼べるものだ。心の熱くなる瞬間のことだ。
「僕は子供の頃から絵を描き続け、漫画家になる夢があった。でも、それが何かのきっかけで潰え、今、また戻らなくちゃいけないって悟ったんだ。それがどんなにみっともなくても、笑われても、僕は自分を信じて走り続けるよ。絵を描くことは僕にとって一部だから」
そして、島崎の顔を迷うことなく見つめた。彼女は口を半開きにしたままその瞳の奥に大きく炎を燃え上がらせた。それは僕という油を注がれたことで、さらに大きく――途方もなく大きく、燃え上がった。
「それで、良いのかもしれない。玲君は間違ってなんかいないよ。自分の道を決めるのは自分自身なんだから」
「それに気付くのが遅すぎた。すごく時間が掛かった。でも、島崎の話を聞いてもう吹っ切れた。僕はまた走り出すよ。新しい道を走り出すんだ」
見慣れた景色ではないかもしれない。むしろ全く馴染みのないものだろう。でも、僕はそこを走っていきたい、と思う。二度と同じ景色が見られないとしても、心の中にまだそれは息づいていると信じている。いつでもそれらは呼び起こせる。だから、僕は自分を信じ、新しく走り始めよう、と思う。
別の街で、別の仲間と共に、同じ仲間と同じ景色を抱き、走るのだ。
目を閉じ、大きく深呼吸する。それからゆっくりと瞼を開き、ようやく落ち着いた心境で彼女を見返した。彼女の顔にはいつものような微笑みが戻っていた。お地蔵様の微笑みがいつもの柔らかさを取り戻した。
「それでも、玲君は強いよ」
「島崎の方がもっと強いよ。僕を励ましてくれるんだから」
僕らは一緒に笑い合い、夕陽が頭のてっぺんだけになった山間へと歩き続けた。彼女はどこか晴れ晴れしそうに笑顔を浮かべ、鼻歌を唄い始める。以前からは考えられないような、しっかりとした足取りで、スキップし始めた。
「そういえば、島崎はどこの大学に行きたいんだ?」
自販機でジュースを買って差し出しながらそう言うと、彼女は夕陽の名残を頬に張り付かせたまま、そっと微笑んで、言った。
「まだ、内緒だよ。でも、今、決まったから」
「何だよ、それは……」
僕達は笑い声を響かせ、散歩道を歩き続けた。その迷いのある足取りは、確かな一歩へとふわりと昇華する。
了
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