544人が本棚に入れています
本棚に追加
==========
火を小さくした状態で管理人に声をかけ、二人は町へと降りていった。
なだらかな一本道を五分ほど降りていった先にはもう温泉街特有の賑やかな声がある。空は暗くなり始め、薄闇が辺りを覆っている。
「いい匂いがしますね」
「蒸し饅頭というやつだろう。温泉の蒸気と相性がいいと、こういう所ではよく目にする」
「それ、知ってます! 前にランバートがお土産にとくれた事があります。えっと……あんこが入っているんですよね?」
「肉と野菜を細かく刻んで作った餡もあるそうだぞ。肉まんという」
「肉まん! それ、美味しそうですね」
食べる事となると途端に締まりのない顔をするトレヴァーを、キアランは内心では笑う。可愛らしく、素直な一面だ。
そしてこいつの美味しそうに食べる姿を見ると、キアラン自身も食べてみようという気持ちになってくる。実際そうして食べてみて、意外と平気なんだと思えるものもあった。
「まずは温泉に入ろう。体が冷える」
「あっ、はい」
トレヴァーを連れて、キアランは母とよく行く湯屋へと向かった。
家族が贔屓にしている湯屋はこの町の中でもかなり大きいもので、湯船があれこれある。薬草をつけたものや、柑橘をいれた湯船もある。これが意外と温まるし、匂いもいいのだ。
温泉自体は炭酸泉で、血行促進による疲労回復や局所的な疼痛に効果がある。
まずは普通にと温泉に浸かると、冷えた体が温まり直ぐに心地よくなってくる。慣れない七時間の乗馬の疲労も忘れるというものだ。
「気持ちいいですね」
「あぁ、生き返る」
「親父臭いこと言わないでくださいよ」
「お前は親父を相手にしているのか?」
何にしても今は怒りなどの負の方向に思考がいかない。全ては温泉の効能なのかもしれない。
「ここ、よく来られるのですか?」
「あぁ、母の付き添いでな。炭酸泉は疲労回復の他に肩こりや腰痛にも効く。母は針仕事の中でも、婚礼衣装にビーズを縫い止めたり、レースを編んだりを好んでやるんだ。必然的に腰痛と肩こりに年がら年中悩まされてな。一時期ここに引っ越すと言い出した事もあったくらいだ」
「そうなんですか! 厳しい仕事ですね」
「まぁ、本人の趣味が半分以上入っているからな。それに、普通の縫製の仕事もしている。ややこしい服以外もあるんだ」
「儀礼服が多いんですよね?」
「あぁ。お前も毎日来ているだろ?」
「え?」
ぱちくりとトレヴァーが目を瞬かせる。アホみたいに口が開いていて、これはこれで面白いものだ。
「お前が普段着ている制服は、家が請け負っているんだぞ」
「…………えぇぇ!!」
思いのほか大きなリアクションにキアランの方が驚いた。なんというか、隠しているつもりはないのだが。
「城の近くで働く騎士団は、一応格式が必要だ。かつ丈夫さやコストも考えなければならず、大人数の制服を作らなければならない工場などもいる。昔から儀礼服を主に手がけていた家に、白羽の矢が立ったんだ」
「でも、縫製の仕事って他にもやってる家はありますよね?」
「有名なのはアベルザードだが、あちらはもっと一般人向けの仕事をしていて儀礼服はあまり手がけていない。最新のデザインを追いかけるにはいいのだろうが」
「ベルギウス家とか……」
「それこそここ数年の話だし、あそこは全て手縫いの高級服だ。数を作るには至らない。団長達が着る式典用の服装の中で、ランバートの服だけはあいつの友人関係もあって手がけたが、それ以降はないな」
知らなかったのだろう、もの凄く呆けた顔をしている。それを見ると少しだが、してやったりと思ったりもする。
「知りませんでした。うわぁ、迂闊」
「まぁ、知らなくて支障はないからな」
「有り難いですね、ハリエットさんたち」
「まぁ、おかげで家はちゃんとやっていけているからな。持ちつ持たれつだ」
そこまで言って、キアランは立ち上がった。流石に少し温まりすぎたので、露天に移ろうと思ったのだ。
「のぼせましたか?」
「いや、まだそこまでではないが露天に……」
言って、窓の外を見ると雪がふわふわと舞っている。そう沢山降っている訳ではない、どちらかと言えば情緒のあるものだった。
「雪見風呂ですね」
「風流だな」
トレヴァーも立ち上がり、手を伸ばしてくる。それに掴まって二人、雪を見上げる露天へと足を進めたのだった。
その後、湯屋で夕食も頂き、帰り道でロッジで食べる物や酒類も買った。未だに静かな雪が降っていて、温泉で温まった体に薄らと降り積もる。
頭に被った雪を、トレヴァーが優しく払った。
「体、冷えてませんか?」
「大丈夫だ」
コートも着ているし、マフラーもしている。手袋もあるのだから簡単には冷えない。
それでも、見守るような柔らかく、少し心配そうな目は嫌いじゃない。
「……冷えたら、お前が温めろ」
「!」
小さな声で、目もまともに見られないまま、キアランは呟く。こんな小さな声でも、邪魔な音がなければ相手に伝わってしまう。温泉で温まったのとは違う熱が、頬を熱くした。
トレヴァーの大きな手がキアランの手を包む。思い過ごしでなければいつもよりも距離が近い。彼がいる側が熱く感じる位には近いのだ。
言葉はないまま、二人で手を繋いで暗い夜道を帰っていった。
ロッジについて直ぐにそういう雰囲気になるのかと思っていたが、案外そうでもない。トレヴァーがシャンパンを開けたのを見て、少し残念なような、でも安心したような気分になる。
「キア先輩も、飲みますか?」
「少しだけもらう」
借りてきた皿やグラス、カトラリーを出して買った料理をのせる。トレヴァーがグラスに半分ほどシャンパンを注いで、二人だけの乾杯をした。
「飲みやすい」
「でも、炭酸が入っているので酔いが回るのが早いですよ」
「そういうのもか」
皿に並べたスモークチーズを一口。ほんのりとするスモークの香りが好きだ。
生ハムにも手を伸ばしている間に、トレヴァーはずっと食べたがっていた肉まんにかぶりついている。実に幸せそうだ。
「美味しい!!」
子供みたいに目を丸くして輝かせているトレヴァーを見て、思わず笑ってしまう。そうしていると目の前に彼が持っている肉まんが差し出された。
「一口、どうですか?」
やんわりとした笑みと共に勧められて、気持ちが揺らぐ。夕飯を食べた直後で一つを食べきるのは無理と思い買わなかったのだが、食べたい気持ちはあったのだ。
温かい湯気がまだ出ている。遠慮がちにかぶりつくと、もちっとした生地と肉汁と野菜の味わいがじわっと口の中に広がった。
「美味い!」
「ですよね。もう一口、食べます?」
「いいのか!」
「どうぞ」
思わずもう一口。お腹はいっぱいなはずなんだが、これなら一つくらい食べられそうだ。そうなると、買わなかったのがちょっと残念になってくる。
「明日、買いに行きませんか?」
「え?」
「お昼、食べ歩きにしましょう。温泉、他にも入りたいって言っていましたし」
そうか、明日もあるんだ。
そう思うと明日が楽しみになってきて、キアランは頷いた。
お酒を適度に飲み、つまみを適度に食べて少しだけ心地よくなってくる。だからと言って酔って分からなくなるほどじゃない。程よくだ。
「キア先輩、隣……行っていいですか?」
遠慮がちな声がお伺いを立ててくる。酔っていて気も少し強くなっているキアランは少しムッとして眉を寄せた。
「トレヴァー、お前は俺のなんだ」
「恋人……です」
「恋人が隣にくるのに、お伺いを立てる必要はあるのか」
ずっと思ってはいた。トレヴァーはよく、何かをする前にキアランに意見を聞く。付き合い始めたばかりならこれも分かる。だがもう一年だ、そろそろそういう関係から一歩出てもいいはずだ。
それを言えなかったのは、関係が崩れたりギクシャクするのが嫌だったから。
トレヴァーは少しオロオロして、次にはとてもこそこそと近づいて隣に座る。一方キアランは足を組んで腕を組んで、それでいいんだと言わんばかりにふんぞり返った。
「キア先輩」
「ここは宿舎じゃない。俺はお前の先輩じゃない」
これも思っていたので、この勢いに乗っかる事にした。節度は大切だし、騎士団は上下もけっこう厳しい。無礼講の部分もあるが、普通は先輩とつけるのが自然。ここが宿舎で、互いに勤務時間中であればこのままでいい。
だが、今は宿舎ではないし、関係は恋人のはずだ。それなら、先輩などと呼ばれたくない。
「キア」
小さめの声で呼ばれた名に、ドキリとする。その後は胸の奥からこみ上げる感情があって、言葉に詰まった。
「あの」
「もう一度」
「キア、でいいですか?」
「あぁ」
なんだ、このそわそわした落ち着かない、にも関わらず浮き足立つ感じは。なんだかとても恥ずかしい。こんな、生娘みたいな反応をしている事を認めたくない。
「キア、こっちを向いて」
どういう意図かは分かった。だから気持ちを決めてトレヴァーの方へと向いた。濡れた男の顔をしていたと思う。肩に手を置かれて、触れた唇は柔らかくて心地よい。入り込む舌はくすぐったくて疼いてしまう。何度も感じて、その度に何かと押し殺した熱がジワジワと燻った。
「ぅん……ぅ……」
頭の中がぼんやりしてきた。気持ち良く痺れてくる。ぼんやりと見つめると、目尻を指の腹が拭っていった。
「ごめん、なんかもう」
「うわぁ!」
重い体がギュッと抱きしめて押し倒しにかかる。体重も筋力も差がありすぎる。あっという間にソファーに押し倒されたキアランは、首筋に濡れた舌を感じて大焦りで背中を強く叩いた。
「バカかお前は! せめてベッドでしろ!!」
一体、何週間ぶりだとおもうんだ! あまり雰囲気とか言うつもりはないが、ソファーなんて狭苦しい思いはしたくない。
「ダメですか?」
「寝室連れてけ!」
「寝室だったら、いいんですね?」
「……あぁ」
むしろ今日もないと言われたらグレてやる。
最初のコメントを投稿しよう!