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翌日、まだ眠そうなトレヴァーを部屋に残して、キアランはウルバスの部屋を訪ねた。幸い住人はご在宅だ。
「どうしたの、キアラン?」
なんとも気の抜けた声で問いかけるウルバスに多少の苛立ちがある。トレヴァーを考えると、当然のことだ。
「ウルバス、トレヴァーの事なんだが」
「トレヴァーがどうしたの?」
「少し、訓練を緩めてくれないか。疲弊しきって危ないぞ」
本来他府のキアランが訓練内容に口を出すのはいけない事だ。基本その部隊の事は部隊を管轄する上官に任される。これに異議を申し立てられるのは団長クラスくらいだろう。
分かっていても口を出すのは、トレヴァーの様子があまりに違うからだ。あんなにボーッとしたトレヴァーは見たことがない。
伝えると、ウルバスは首を傾げた。
「そんなに疲れてる? 訓練ではしっかりしてるけれど」
「その後が抜け殻だ。ずっと心ここにあらずだぞ」
「でも、あまり悠長にしてられないからな。覚えて貰う事が多すぎるし」
「だからって壊したら元も子もないだろ」
あんなのが続いたらいつか疲弊して大怪我になりかねない。既にちょっと危ないんだ。
そう伝えているはずなのに、ウルバスは考えている。考えるまでもなく休息を与えるのが上官の仕事だろうに。少なくとも時間外の勉強を少し緩めて欲しい。
なのに、ウルバスは少し困っているのだ。
「自分事で彼に負担を掛けているのは申し訳ないんだけれどね。でも本当に、覚えてもらう事が多いんだ。海図の読み方ももっと勉強して欲しいし、陣の取り方。操船の方も暖かくなったら本格的に教えるし」
「おい待て! そんなにしたらあいつが本当に壊れる!」
「でもこれ、トレヴァーじゃなきゃダメなんだよね」
「どうしてあいつばかりなんだ! 他じゃダメなのか!」
第三師団は人が多い。トレヴァーだけに負担をかけなくても、他にも人はいるはずだ。
そう主張するキアランに、ウルバスは珍しく仕事の、鋭い目をした。
「他の奴には、俺が見えているものが見えないんだよ」
「お前が、見えているもの?」
「なんて言えばいいのかな…………俺にはね、海の上に道が見える。どんなに敵艦隊に囲まれても、突破するための道が見える。潮を読み、空を読み、全てを感じて見えるものがある。この感覚はなかなか持っている奴がいない。俺の知る中では、トレヴァーだけだ」
迫力のある声音で言われて、ぐっと言葉に詰まる。こいつの目にはそんなものが見えていたのかと思うと、改めて凄いと思う。全戦無敗の海軍総督の言葉は重い。
そして、そんな男と同じものをトレヴァーは見ているのかと思うと、誇らしい気持ちにはなる。
だが、それとこれとは別物だ!
「このままじゃその才能が開花する前に壊れると言っているんだ!」
「大丈夫でしょ、あいつタフだから」
「そのタフな奴の体力やメンタルをここまで削るお前のやり方はどうなんだ!」
これはもう恋人だからじゃない。普通に上官としても見過ごせない話だ。第一、体力馬鹿過ぎるんだ騎兵府の師団長連中は。自分と同じものを下に突然求めたらそりゃ疲弊するだろう。
「止めろとは言わない。もう少し速度を緩めてくれと言っているんだ。それでなくても突然の事であいつも心の整理が出来ていないんだろう。事を急ぎすぎていると言っているんだ」
「できるだけ早く仕上げたいんだけれどね。それこそ、海上に穴があくよ?」
「お前はどれだけ早期退団予定なんだ! 未定なんだろうが!」
「まぁ、そうなんだけれどね。俺も早めにしないと落ち着かないし。時間が余ったらそれだけ多く実戦とか色々できるからいいかなって」
「そんな理由であいつを追い詰めないでくれ!」
ウルバスの言うことも分からないではない。おそらくキアランはこのタイプだ。仕事を後に残しておくのは気持ちが悪いし不安なので、可能ならば前倒しする。
だがこれは自分だけが関わるから出来る事で、他人に求めはしないんだ。
やんのやんのと話して、疲れ果てて「もういい」と言ってウルバスの部屋を出る。これはもう少し上の人間に判断を任せるべき事だと判断して部屋に戻ると、なんだかボーッとしたトレヴァーがベッドに座ったままいた。
「トレヴァー、起きてたのか」
溜息をついて近づいても、なんだか反応が鈍い。疑問に思い近づいていくと、頬の辺りが少し赤いように感じた。
「どうした? 具合が悪いのか?」
そう言って額に触れると、思ったよりも熱い。首筋に触れるとそれはより確かになった。
「医務室に行こう、トレヴァー」
「あ……でも」
「でももなにもない! 行くぞ!」
鈍いトレヴァーの腕を引っ張っても動かない。そもそもキアランがどれだけ頑張ってもトレヴァーを動かす事は無理だ。
こうなればこっちは諦める。トレヴァーをとりあえず寝かせたキアランはそのまま部屋の外に飛び出して、医務室へと急いだのだった。
「過労というか、知恵熱というか。どちらにしても過度の疲弊が原因ですので、休みが必要です」
診察にきたリカルドが診断を下す。それをキアラン、そしてウルバス、ファウスト、シウスが聞いている。全部キアランが呼んだのだ。
「ごめんなさい、ウルバス様ぁ」
「何を謝るの、トレヴァー。寝なさい」
ウルバスを見た途端、トレヴァーはとても苦しい顔をする。申し訳ないような、そんな様子にキアランの方が胸を痛めた。
「まだ軽度なので、薬の投与と休息をさせれば明日には動けると思います。ですが、可能なら数日休ませたいのですが」
「分かった、少し調整してみる。それについては追って報告する」
頷いたファウストがトレヴァーの頭を一つくしゃりと撫でて、リカルド以外を残して全員出るように促す。そうして向かった騎兵府執務室で四人、顔をつきあわせての話し合いだ。
「休ませるべきです。ここ数週間のトレヴァーは様子がおかしかった。これ以上、無理をさせるべきではないと思います」
差し出がましいとは思うが、言わずにはいられなかった。
キアランの言葉に、ファウストが強く頷いた。
「少し詰め込みすぎだったみたいだな。ウルバス、構わないな」
「ドクターストップに異議を申し立てることはできませんから」
仕方がないという様子のウルバスに腹が立って仕方がない。第一こいつが一番気に掛けなければいけないことだ。なのに……
気づけば睨み付けて、立ち上がって、ウルバスの胸倉を掴んでいた。驚いた顔をしたシウスとファウストだが、ウルバスは実に静かなものだ。
「だから言ったんだ! 大事な後継者なら大切に育てろ!」
分かっている、こんなのただのポーズでしかない。キアランではこいつの胸倉を掴んだって立ち上がらせる事すらできない。殴ったって、大した痛みも与えられない。今この腕を掴み上げられたらそれだけで音を上げるのはキアランの方なのだ。
だがウルバスは凄く静かに頷いて、頭を下げた。
「すまない」
「っ!」
「ごめん」ではなく、「すまない」という音に驚いた。ウルバスが普段使わない言葉だ。
「まぁ、キアランも落ち着け。どうじゃファウスト、休養として年始まで休ませるというのは」
「え?」
シウスが腕に軽く触れて宥めてくれ、キアランは手を離した。そして提案に、少し驚いてシウスを見た。
確かに年末までは残り三日ほど。その後年始の三日間は休みだから、今から休みをとれば六日の休暇になる。
「俺はそれで構わない。訓練なんかも緩めている頃だし、これと言って急ぐ事は騎兵府としてはない」
ファウストが頷いて、ウルバスも頷く。シウスがそれを受けて頷くと、視線はキアランだ。
「キアラン、お前も同じタイミングで有給を取るとよいぞ」
「え? ですが……」
大分仕事を前倒しに年末の決済をしているから書類仕事は大分いいが、残ってもいる。毎年騎兵府の年末決済がネックだったが、ランバートが補佐に入った事でどこの部署よりも早く完璧な書類が提出されている。ここが終わっていれば、後は簡単だ。
「年末の決算が」
「そのくらい私がやっておく。既に大体が終わっておろう? 気にするでない」
穏やかに笑い肩を叩くシウスが、とても頼もしい顔をしている。
だからだろう、素直に頷く事ができた。
「有難うございます」
素直に頭を下げると、シウスは一つ頷いた。
「どこか旅行にでも行くかえ? 場所くらいは把握したいが」
「とりあえず実家に一度顔を出しますが、その後はトレヴァーの様子とかもありますので未定です。ですが移動する前に宿舎に手紙を出しておきます」
「分かった。お前も一年疲れたであろう。ゆっくりと休むとよい」
思わぬ長期休みになんだか思考が追いつかないが、とりあえずそうなれば引き継ぎはしなければ。頭を下げて退室し、宰相府の仕事部屋に赴いて取り急ぎ引き継ぎをした。
それでも案外時間が経っていて、自室に戻ったのは夕方頃だった。
トレヴァーは変わらずキアランの部屋で寝ている。リカルドの姿はなかったが、顔を見れば少し楽になったのだと察せられた。
ベッドの縁に腰掛け、額に触れる。もう熱はないようで、呼吸も規則的だ。
「まったく、無理をしてくれる」
いつもはトレヴァーのほうが口うるさくキアランに言っているのに、立場が逆になってしまった。
けれどそれだけ、プレッシャーだったのかもしれない。突然ウルバスの後を引き継げと言われたようなものだ。全体はルシアンがまとめるし、師団長もルシアンが引き継ぐが、海軍総督という肩書きはこいつの上にあるのだ。
自分よりも上の隊員は沢山いる。なのに自分が指名されたことは、こいつにとって重荷なのかもしれない。調和を考える奴だから余計に気にするだろう。
もしくは先輩から何かしらの圧や、陰口のようなことがあるのかもしれない。
そんな、答えの分からない事を色々考えている間にドアが開いて、薬やらを持ったリカルドが入ってきた。
「お疲れさまです」
「あぁ。すまない、任せて出てしまって」
「いえ、構いません」
物静かなリカルドは必要最低限の事を口にして、サイドボードに薬を置いた。
この人物も必要な事しか話さない。だが、不思議と居心地は悪くない。入隊当初はもう少し空気が鋭いというか、壁のある感じだったが、いつの間にか柔らかくなっている。
トレヴァーに聞いたが、おそらくそれは恋人との恋愛が上手くいっているからなのだろう。
「先ほどシウス様からお話は伺いました。容態の説明をいたしますか?」
「あぁ、頼む」
場所をソファーに移し、リカルドは持ってきた薬を前に置き直し、キアランへと向き直った。
「とりあえず熱は下がりました。彼の体力を考えると、ここから上がる事はないと思います。無理をすればわかりませんが」
「そうか」
回復傾向なのは見ても分かる。随分楽そうだから。
「原因は、過労か?」
「精神的な負担も多少あるだろうとは思いますが、軽度のものですので休んでいただければ」
「そうか」
やはり、プレッシャーがあったのか。分からないではない。毎度プレッシャーに押しつぶされて胃の痛い思いをしているから。
「もう薬はいらないと思いますが、一応解熱剤がこちらです。熱が高い時だけ使ってください。後こちらは、リラックス効果のあるお茶です」
「有難う」
「キアランさんは、今年は胃痛で担ぎ込まれる事がありませんでしたね」
「え?」
……そういえば、そうかもしれない。
「年末の健康診断も、今年は異常なしです。よく眠れているようですし、食事量が増えて体重も平均値まで行きました。毎年痩せすぎと体力のなさで必ず引っかかっていましたから」
もう、言い返す言葉もない。
キアランは毎年の健康診断で必ず何かしらの項目に引っかかっていた。その筆頭が食欲不振と不眠、体重のなさと筋肉量のなさだ。
エリオットにまで溜息をつかれ、「とりあえず最低限、現状維持で」と言われる始末だ。
回復の理由など分かっている。トレヴァーといると外に出かけて食事をする。嫌いなものも少し食べるとこいつが褒めるから、なんとなく食べるようになった。そして、散歩などが多くなって少し体力がついたと自分でも思うのだ。当然体を動かすから、よく眠れるようになった。
「お互い、よい恋人をもったということだろう」
「……そう、ですね」
少し驚いたリカルドが見せた、蕩けるような柔らかい笑みを見ると本当に、幸せなのだと実感できた。
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