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「す、すみません…」
穂は居た堪れない気持ちで謝ると肩を落とす。
折角義父と距離を縮める事ができると思っていたのに自ら台無しにしてしまった。
きっと欲に飢えたあさましい嫁だと思われたに違いない。
君のような気持ち悪い男と年を越すなんてごめんだとか、そんな類いの事を言われるに違いないと覚悟を決めたその時…
穂の後頭部に何かがポンと触れた。
恐る恐る顔を上げると、それは義父の大きな手だった。
その手は、触れた場所を柔らかな手つきで撫でている。
その行動に驚いたのはもちろんだが、一番驚いたのは義父のその表情だった。
もっと嫌悪に満ちた眼差しを向けられているかと思っていたのに、想像以上に優しい表情で穂の事を見ていたからだ。
「謝ることはないさ。寧ろ謝るのは僕の方なんじゃないかと思ってね」
「え…?」
「…あれのことだ。帰ってきてもすぐに寝てしまったりして穂君にさみしい思いをさせてるんじゃないのかい?」
義父が申し訳なさそうに訊ねてきた。
それはひょっとして穂と清高の性生活の事を言っているのだろうか?
いや、この状況と流れからしてそういう事なのだろう。
途端に顔が赤くなり、毛穴から変な汗が吹き出してくる。
まさかそんな事を夫の父親の口から訊かれるとは思ってもみなかったからだ。
「だ、大丈夫です」
穂は慌てて答えた。
さみしいからこそこんな道具まで使って慰めているわけなのだが、まさかそんな本音をこぼせるわけがない。
すると、更に義父が畳み掛けてきた。
「一人でちゃんとできているのかい?」
「え?」
「穂君はそういう道具で満たされるのかな?」
「あの…、えっと…」
「男同士なんだ、遠慮する事はないだろう?」
さぁ、教えてくれと言わんばかりに詰め寄られ、穂は困惑と羞恥で綯い交ぜになった。
なぜそんな事を訊きたがるのだろうか。
普通、身内のそんな話はあまり耳に入れたくはないのではないだろうか。
しかし、義父は至って真面目な表情で穂の答えを待っている。
穂は思わず息を飲んだ。
こちらを見つめる義父のその双眸がギラついている気がしたからだ。
なんだか妙に胸がざわつき、反射的に後ずさると、逃げる様に洗面所を飛び出してしまった。
気不味い夕食が始まった。
あれから穂は半ば惑乱しながらも何とか夕食を作り終える事ができた。
しかし、何度包丁で指を落としそうになったかわからない。
義父は洗面所での事など何事もなかったかの様に振る舞い、穂の作った鍋を美味しそうにつついている。
穂は未だ動揺と羞恥が治らず、何を食べても味がしなかった。
質問に答える事もせず、逃げてしまった事を詫びるべきか、それとも義父と同様何事もなかったように振る舞うべきか。
ぐるぐると悩んでいると、先に切り出してきたのは義父だった。
「今日見たことは誰にも言わないさ。家内にも、もちろん清高にもね」
「本当ですか?!」
俯向き加減だった穂の顔が一瞬で明るくなる。
「あぁ、本当だ。僕は口はかたい。保証するよ」
「ありがとうございます…」
義父の言葉に穂は思わず泣きそうになりながらお礼を言った。
やはり義父はジェントルマンだ。
優しくて誠実で理解力のあるこの男が、義父でよかったと改めて喜びと安堵を噛みしめる。
「さぁ、食べよう!といっても僕が御馳走になっているんだけどね」
義父は悪戯っぽく笑うと、突然何かを思い立ったような顔になった。
「そうだ、穂君も一緒に呑まないか?美味しい日本酒を持ってきたのを忘れていたよ」
「あ…でも僕お酒弱くて…清高さんにあまり飲むなって言われてるんです」
甘いものと同様、清高は穂がお酒を飲む事も嫌がる。
一度記憶をなくすほど飲んでしまい、迷惑をかけてしまった事があったからだ。
「少しくらいいいだろう?それにここは自宅なんだし清高もいない。たまには羽目を外したっていいんじゃないかな。それに万が一、君が潰れてしまっても、僕がしっかり面倒見てあげるから心配しなくていいよ」
義父の優しく甘い言葉につられて笑顔になる。
そうだ、少しくらいなら大丈夫だろう。
彼の言う通り、ここは自宅で最悪潰れたとしても時間を気にすることなくどこでも横になっていられる。
それに、こうして義父のお酒に付き合うのも大事な嫁の務めのはずだ。
すっかり緊張の糸が切れた穂は、義父に勧められるまま度数の高い日本酒を口にしてしまったのだった。
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