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あのときのわたし、今でも夢に手を伸ばして
ひざ掛けをしていても、終業間際になるとしびれに似た感覚に、両脚が支配される。フロアの空調は、省エネという言葉をまるで理解していないらしい。
わたしは毎日のごとくだけど、ブルッと体を震わせて、再びディスプレイに向かった。生理中なこともあって、ただのExcelのマクロなのに、マウス操作とキータッチの重たさが、なんだかやけにイラつきの原因になっているように感じる。まあこれも、あと数分のガマンだ。今週は頑張ったから、休日出勤はしないでも済みそう。金曜日の夕方は、土日に予定がなくても、どこかウキウキしてしまう。
(吉沢くん、どうしてるのかな……?)
遠距離中の彼氏。京都大学の某研究室に、こもりっきりだ。
(LINEだけじゃ、寂しいんだけどな)
それでもわたしは、マメにやり取りしてるけどね。思わず、から笑いしてしまう。
「杉山さん」
「は、いっ!?」
係長から、いきなり声をかけられた。ホントにもう、この人は気配ってものが無さすぎる。給湯室では、
『ニシキヘビ』
と、あだ名を付けられているくらいだ。
「この前の資料、とっても好評だったよ。また、あの調子でお願いね」
「はい」
わたしの返答と同じくして、終業のチャイムが軽やかに流れていった。ほっとした空気が、フロア全体に広がっていく。
「かのちゃん、ピザ行こうよピザ!」
隣の席の平島さんが、いつもの明るい口調で誘ってくれた。んー、ピザねえ……。どうせその後、お酒に移動して。こもごもな悪口大会になるのは、火を見るよりも明らか。
「ごめんね。女の子な週間なの」
「そかー。早く枯れたいよねっ!」
「お互いにねー」
平島さんはあっさりと引き下がり、ほかの同僚に声をかけている。
わたし?
いちお、その……。エンゲージなんとかってヤツを、左手くすり指に、ごにょごにょ……。だからか。んー、ちがうなあ。ぶっちゃけモテないから、男の子たちにはあんまり、相手にされていない。いいんだけどね。
(さて……。と)
誘いを断っておいて、近くのお店にいたらさすがに心象が悪くなるだろうから。久しぶりに、府中まで足を伸ばして。落ち着く喫茶店巡りでもしようかなあ。夏のさなかだから、アイスコーヒーのおいしいお店がいいな。
データをサーバに送ったことを再確認してから、デスク周りを片付ける。月曜日に取り掛かる準備を整えて、やっとわたしは安心できた。この辺は小中学生のころとまるで変わりがないや。手回り品とiPhoneを片手にして、わたしはロッカールームに向かった。廊下のほうが、はるかに適度な温度。どうなってるのよ、ウチのフロアは。
懐かしの府中駅。中野区で一人暮らしをするようになって、ずいぶん経ったけど。今でもここの街は、あたたかく(涼しく?)迎えてくれる。お気に入りだった喫茶店が満席だったので、わたしは駅前のドトールに入った。ま、安上がりだから、結果おーらいだよね。
iPhoneでボカロを聴きながら、ゆっくりとアイスコーヒーを飲む。おいしいと言うかお値段相応と言うか。PASMOのチャージがもったいなく感じた、と思ってしまうお味。正比例よね、世の中っていろいろなことが。
プレイリストがあたまに戻って。最近一番好きな曲、
『ハロ/ハワユ』
になった。歌詞がもう、まんまわたし。吉沢くんにもオススメしたいぐらいだ。研究室務めだったら、こんな気分にはならないかもだけど。
歌詞が身につまされる。自殺未遂を繰り返した、かつてのわたしが、ちょっとだけよみがえった。はあ。
(みんな。どうしてるんだろ……)
仲の良かった、たいせつなお友だちみんな。それぞれ就職したり結婚してたり。置いてけぼりに感じたわたしは、ODもリスカもアムカも。いろんなことをしちゃった。
(2級、だもんねえ)
精神障害者保健福祉手帳のこと。今の会社だって、障害者枠で採用してもらった。だからってわけでもないけど、人一倍頑張らなきゃいけない気がして。よけい身体とかメンタルとかに、ダメージが蓄積されているんだろうな……。
(会いたいな)
同窓会は苦手だから、少人数で、こっそりと。近況報告だけでもいいから、お話ししたいよ。
ズズズッ、とならないように飲み干して。わたしは結局、実家には寄らずに中野のアパートに帰ることにした。電車賃というか、PASMOのムダじゃないか?んーん、そうは思いたくないよ。これだって金曜日夜の、立派な過ごし方だ。
気付いたら、お部屋の明かりがついていた。と言うよりも、消した覚えがない。いつもの習性で、iPhoneを見る。うわちゃ、もう11時近いや。バッテリも、残り25%しかない。充電しないで寝ちゃったんだ。ん? と言うことは、服もメイクも……?
着替えた&落とした記憶がございません。そのまま寝てたのね、わたし。前に、西野カナがこんなようなこと歌ってたっけ。
とりあえず、半分寝ぼけながらお手洗いに入って。夜用をペリペリと交換した。『念のため装着』をこころがけていて、大正解。コーナーポットにポイしてからベッドに腰掛けて、遅すぎるメイク落とし。これじゃあ、お肌が傷みますなあ。自問自答で自嘲。
拭き終わったメイク落としを、ゴミ箱にシュートしてから。遮光カーテンをちょっとだけ、開けてみた。うあ、陽射しがあっつい。エアコンの起動音に重なるようにして、セミさんたちがじゃわじゃわ大合唱中。この暑さの中、出かける気はあまり起きなかったけど。せっかくのおやすみだもんね。新宿でも出て、かわいいシャツがあったら買いたいな。あ、あと、だいぶボロけてきたから、フツーにかわいい、派手目じゃないスニーカーも。
こんなときだけ決断の速いわたしは、ぱぱっと出かける準備をして、アパートの外に出た。日焼け止めは塗ったけど、メイクはかるーく。さすがにすっぴんじゃ通用しない肌年齢ですよ、ええ、ええ。
真夏のジリジリしたオヒサマが、全力でぶつかってくる感じ。だけど、これはこれで気持ちいいかも。日本の四季を感じられる、そんな女の子になりたいものです。――今?聞かないでよ。
ブロードウェイの横道を、人混みを避けるように通って、中野駅の北口に着いた。ピッと改札を抜けて、8番線に上がる。ちょうど快速東京行きが滑り込んできてくれた。車内はガンガンに空調が働いていて、最初の90秒間は快適だったけど、次第に寒さが忍び寄ってくる。一駅のガマンだもんね。耐えましょう。
新宿着。人に押されるようにして、ホームに降り立つ。さてっと。どこに行くか考えてないのよね。ルミネにでも入ろうかな……。
わたしは、なんとなく人並みといっしょに歩き始めて、南口方面へ向かっていった。――うーん、夏なんだなあ。隣のホームに停まってる、
『あずさ』
に乗って、温泉にでも行きたい感じ。ゆっくり肩までつかって、うとうとできたら最高だろうなあ。アパートがユニットバスだから、思わず本気になりかける。
南口、甲州街道前の改札を抜ける時。隣の改札から声をかけられた。
「かのちゃん!?じゃない!?」
びっくりして、わたしはそっちを見る。ピッに反応し損ねて、自動改札が閉まっちゃった。慌ててわたしは再タッチ。あたまの中で隣の女の子を、必死に検索。えーっと、このあたたかい表情に、やさしさあふれる声色はっと……。
「――ことねちゃん?」
「そーだよー!高瀬ことねッス!!」
お互いに改札を抜けて、ことねちゃんが両手を握ってきた。
「わ、わわ!」
「やっぱかのちゃんだったー!なつかしー!」
「と、とにかく。ここじゃジャマになちゃうから」
「そか。そだね。あはは」
(なつかしいなあ……!)
手をつないだまま、とりあえず人混みを避けてルミネの入口あたりに移動する。なんか照れくさいような感じで、わたしはことねちゃんを見た。
髪、中学の時よりも長くなってる。薄くチークの入った頬。リップも淡い色だ。グレーのボーダーTに、真っ黒なスキニー。コンバースの白いスニーカーなのが、いかにも活動的なことねちゃんっぽい。
「それにしても、ひっさしぶりー!」
握られたまま、ぶんぶん両腕を振られる。本当に昔のまま。とにもかくにも、わたしはうなずくばかり。
「ねね。落ち着けるお店知ってるの。行こうよ?」
「お茶?」
「そー!あ、かのちゃんにも予定あるか」
「んー。特にこれと言って」
「じゃ、決定!」
言うが早いか、ことねちゃんは手を引いたまま、ずんずん進んでいく。そのままわたしは、東口の方へ連れて行かれた。
「ここー!」
「あ!入ってみたかったの」
入り口に小さく、
『椿屋珈琲店』
の看板。でもここって、とんでもなくお高かった気がする。よく見るアプリの情報によるとね。でもまあ、せっかくの機会だもんね。
「行こ!」
躊躇なく、階段を登ることねちゃん。なんとまあ驚いたことに、本物のメイドさん(店員さんよ?)がお出迎え。――そっか。ことねちゃんも、こんなお店に入るようになったんだなあ。
席について注文して。本気でおいしいコーヒーをいただきつつ、話は盛り上がった。恋人の有無、お仕事のこと。近況についてはもう、なんでもかんでも……。
おんなじクラスだった、ことねちゃんとはもう腐れ縁のショウタくんと、まだお付き合いしてるんだね。まあ、わたしもクラスメイトの吉沢くんと言う婚約者(きゃ♪)、いますけど。そしてことねちゃん、小学校の先生やってるのかあ。わたしは俄然、興味を持って話を聞いた。実のことを言うと。本当はわたしも教職に就きたかったのよね。保育士さんも目指したりしたんだけど。
「うっそ!かのちゃんもセンセになりたかったの?」
「うん……。まあ、資格持ってないんだけどね」
「なんであきらめちゃったの?」
「……」
「あ、ゴメン」
「ううん!違うの」
「うん?」
「わたし、小学校で。保健の佐々木先生に、とってもお世話になったじゃない?だから、養護教諭になりたかったんだ」
「そかー。でもでもさ?今からだって!」
「今から?」
「うん!今からだって、全然間に合っちゃうって!」
「でも、資格持ってないよ?それにわたし、やっていけるか……」
それを聞いたことねちゃんの目が、あたたかく、真剣味を帯びた光を宿した。
「本当に。遅すぎるなんてこと、そうそうこの世の中にないよ?やってみなよ。かのちゃんなら絶対に、あたしなんかよりもずっとステキな先生になれるって」
「――う、ん」
「大学、また行けばいいじゃない。幸いにもさ?あたしたち恋人いても、結婚まだだし。お金はちゃんとあるんだもん」
「ん……」
「子どもたちと向き合っててね?ひとつだけ必ず、伝えてることがあるの」
視線で、わたしは聞いた。
「『あきらめなければ、必ず夢はかなうよ!』ってね。てへへ」
「すごいね」
本当の気持ち。
「応援、いくらでもするよ。採用試験のポイントだって、教えちゃう!」
「――うん」
「ま、今すぐ決めてなんて言わないけどさー。今日あたしと話したこと、あたまのすみっコにでも、置いておいてくれたらうれしいな」
ただ、わたしはうなずいた。
「いつか。同じ職場で、お仕事したいよね」
あのころと変わらない、笑顔のことねちゃん。
「うん」
わたしも、心を込めて笑顔を返した。
遅すぎることなんて、そうそうない。か……。
帰りの中央線。またもやそれなりに混雑しているので、わたしは最後尾の車輌でドアにもたれかかったまま、ことねちゃんの言葉を思い返していた。大久保のキツいカーブを、電車は走り抜けていく。
(やって、みたい、な)
親身になってくれた、保健の佐々木先生。あんな人に、あんな先生にわたしは……。
そう。
養護教諭に、信頼される養護教諭に、わたしはなりたかったんだ。それが夢だった。
違う。『夢』だ。
(やろう。やろう!やってみよう!)
窓の外に、中野電車区でおやすみしている総武線の車輌たちが見えてくる。その中の一編成が、これから出庫するのかパンタグラフを、ポン、と上げる瞬間が見えた。
そう。まるでわたしに向かって、
『がんばれよ!』
って言ってくれているように。
静かに、中野駅6番線へ到着。開いたドアから、中野駅のホームに力強く降り立って、身体ごと熱い空気の中に突っ込む。そのくらいの勢いと願いを込めて、わたしは決心したんだ。養護教諭に絶対になるって。なってみせる、って。
(遅くなんてない!)
今なら、ほら。
こんなに鮮やかに、未来への道が見えている。夢が目の前で待っているもの!
あきらめなければ、必ず夢はかなうよ!
だから。
あのときのわたし、今でも夢に手を伸ばして。
おしまい
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