ケダモノ

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 まただ。あの猫が入ってきやがった。  薄く開いた勝手口を力いっぱい閉めると、金属同士がぶつかる鈍い音がした。その音も癇に障る。台所をチェックしたがとりあえず被害はなさそうだった。  野良猫を初めて見つけたのは車庫だ。うずくまっている猫に妻が気付き、抱き上げた。 「この子、すごく人懐こいわ。飼ってもいいでしょう」  俺は獣が嫌いだ。即座に却下した。妻は残念そうに、抱いたままの猫を撫で続けた。  俺の家に動物がいることにおぞけが走り、妻に命じて猫を家から遠いところへ捨てにやらせた。  だが、妻が俺に内緒にして猫に餌をやっていることには気づいていた。車庫の中が獣臭く、猫のえさの臭いらしい生臭さもあった。  俺は何度も問い詰めたが妻は知らぬ存ぜぬを貫き通した。  それからすぐ、妻が寝付いた。体はどこも悪くないのに一日中寝ている。怠けていると叱っても体が思うように動かないと甘ったれたことを言う。  無理やり立たせると、これ見よがしに床に倒れこむ。イライラして部屋に閉じ込めておくことにした。  一日に二回、トイレに行かせる時だけ扉を開けてやる。寝てるだけなら腹は減らないだろうから飯はやらない。  そうやって少しは溜飲が下がった。  妻が餌をやらなくなったからだろう。あの野良猫が家に入り込むようになった。  ある日、台所に入ったらテーブルの上に猫がいた。  目が合うとテーブルから飛び降り、勝手口から走って逃げた。唖然としてしばらく動けなかった。  勝手口はきちんと閉めていたはずだ。猫が自分で開けて入って来たのだ、なんという厚かましさだ。  勝手口を音高く閉めて、鍵をかけた。  猫が乗っていたテーブルなんて汚くて使えない。妻に掃除させようとしたが声をかけても返事もしない。触ってみると、息をしていなかった。死んだらしい。  チッと舌打ちが出た。面倒くさい。家で死んだなんて世間体も悪い。このまま、部屋に閉じ込めておくことにした。  そのうち骨になるだろう。そうしたら庭の隅にでも捨てればいい。  猫は日に二度も三度も入り込む。勝手口には鍵もかけているのに、どうやっているのか。  姿を見たのは一度だけだが、戸が開いているので入ってきたことはわかる。    そのたびに鍵を閉めるのに、気づくと戸は開いている。イライラが激しくなって勝手口を封鎖することにした。  外に回って板を打ち付け、戸が開かないようにした。これで猫は入って来られない。  玄関に回って戸を開けると猫がいた。驚いて動きが止まった。玄関の戸は閉まっていた。こいつ、家に入ったあとに自分で戸を閉めたのか? そんなばかな。  猫は視線をそらし、家の奥に走って行く。すぐに追いかけたが、廊下を突き当りまで走っても猫の姿はない。また戸を開けて、どこかの部屋に入ったのか。端から戸を開けていくが猫はいない。  最後に妻の部屋の戸を開けると、粘っこい獣のような悪臭が鼻を突いた。  腐っているのだ、腹立たしい。死んでまで迷惑をかけるような女を妻にしたはの不幸だ。  せめて死体を殴ってやろうと布団をはぐと、妻の死体は腐ってなどいなかった。それどころか息をしている。こちら側に見えている背中はゆるく動いていた。 「死んだふりをしていたのか! とっとと起きろ、これ以上迷惑をかけたら許さんぞ!」  妻の肩に手をかけると、ごろんと転がってこちらを向いた。その顔は猫だった。 「にやああおう」  妻が鳴いて牙をむき出しにした。そこで意識が途切れた。  気づくと顔にコバエが止まっていた。手で払って体を起こす。  部屋中にハエが飛び回っている。生臭い腐臭が強く鼻に刺さる。布団の上には、腐り落ちた肉がわだかまっていて、ウジがごそごそと這いまわっていた。  妻は死に、腐っている。では、さっき見たものは何だったのか。  ふと思い出した。戸を開ける猫はいるが、戸を閉めるのは化け猫だと妻が言っていた。化け猫は祟るのだとも。  頭を振って鼻で笑う。馬鹿らしい、そんなことがあるものか。これは気の迷いだ。  ハエがうるさいので部屋を出た。顔を洗おうと洗面所に向かう。そこに、その鏡の中に猫がいた。  首から上が猫だった。あわてて顔を触ると、ゴワゴワした毛の感触と硬いヒゲがあった。  いや。自分の顔のはずがない。俺の顔が獣になるはずがない、俺は人間なんだから。  そうだ、寝ている間に、誰かにマスクをかぶせられたのだ。  首元の毛皮と皮膚の間に爪をかけて毛皮を剥がそうとしたが、毛皮はぴったりと皮膚に張り付いている。びくともしない。  爪を立てて引っかいていると、急に喉にするどい痛みが走り、血が流れた。  鏡を見ると、自分の手に毛が生えて爪が鋭く伸びていた。手まで猫のようだ。  このままでは全身が猫になってしまう。腕を引っかいたが毛皮は取れず、爪のせいで血が出るばかりだ。  違和感を覚えて服をめくってみると、腹も足も毛だらけだった。全身がすでに猫になっていた。  鏡の中には服を着た猫がいた。信じられない。そう言おうと口を開けた。 「にやあああああおう」  俺が、鳴いた。
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