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ファーストフード店にて先輩の寝顔を
ようやく完成したその一冊を見ると、どこか胸の奥底から、とてつもなく大きな感情が湧き上がってきて、興奮してしまった。本当にできたのだ。僕らが必死に頑張って書いた文芸誌が。
もうすぐ文化祭が始まる。それぞれの教室に、置かれることになる。読む人は少ないだろうけれど、読んで感想をくれる人が、必ずいる。今から、本当に楽しみだ。
他の部員達もこれを見ながら、心が震えているはずだ。どこか一体感があるようで、心地良かった。以前の文芸部では考えられないぐらい、まとまっている。
卒業した先輩部員の作品も、やばいくらいの完成度だ。どこからあんなアイデアを捻り出せるんだと思うくらいに、とにかく人の度肝を抜く作品ばかりだ。
人の口を開かせ、そこに大きな好奇心の塊を詰め込むように。
先輩はすごいなあ、とよく思ったものだ。でも、一人だけ最初から最後まで適当に過ごしている先輩も、中にはいたけど。
マックシェイクをちびちびと飲んでいた。午後六時を回った頃で、ファーストフードの店内には割と、人が多かった。周囲を喧騒が取り巻いているけれど、でも、僕はそんな話し声が気にならないくらいに、とても幸せな気分だった。
そこで突然、肩を誰かに叩かれた。すると、花の香りがふわりと漂った。危うくマックシェイクを文芸誌に引っ掛けるところだった。
「あらあら、今年の文芸誌、もうできたのね」
僕は振り向き、誰かの顎に、頭頂部がぶつかる。悲鳴を上げた。そこに立っていたのは、懐かしい姿だ。
派手な服装に身を包み、どこか洒落ていて、垢抜けている。茶色の髪に軽くウェーブが掛かっており、ワンピースを着ていた。サンダルを履いた足はすらりと細かった。
「やあ、真面目な文芸部員。今年も頑張って、完成させたんだね」
「栗本先輩」
その元文芸部の先輩に、ジト目で睨んでみせた。
「偶然、このファーストフード店の前を通りかかったら、君の懐かしい姿が見えてね。思わず、声を掛けちゃった」
僕の肩に手を置こうとして、彼女の体がふと、ぐらりと傾いだ。僕は慌てて彼女の腰を支えた。
「どうしたんですか? 立ち眩みですか?」
彼女はどこか弱弱しく笑い、「ちょっと寝不足なのよ~」と甘えた声を出す。そして、僕の向かいの席に座って、ようやく大きく息を吐いた。
「随分お疲れな様子ですね」
「そうなの~。色々とバイトとかが忙しくてさ~。それに大学にも行ってるでしょ? あのハゲ教授、課題出し過ぎだよ~。代わりにやってよ、春馬」
「嫌ですよ。できる訳ないでしょ、大学の課題なんて」
「そんなことないよ、私が行ってるのは文学部だし、春馬の得意分野でしょ」
「まあ、そうですけど」
彼女が僕の文芸誌を奪って、ぺらぺら捲り始めた。
「春馬の作品、どんなの? ちょっと、読ませてよ」
「大した作品じゃないですよ、鼻で笑ったりしないでくださいね」
「ふっ」
「わざわざそんな素振り、見せなくていいです。読む前に笑って、どうするんですか」
五月蠅いな、と彼女は笑いながら、ページを捲って読み始めた。すると、彼女の目つきががらりと変わった。文字の一つ一つに針を通すみたいに、鋭い目つきで、作品を読み始める。彼女がいた頃、こうした眼差しに何度も、出会うことがあった。この人は実はすごい人なんじゃないか、と思うことがあった。実際、その通りなのだけれど。
「わ! すごいじゃん! 春馬、本当に上手くなったね~!」
読み終わって開口一番に彼女がそんなことを言うので、僕はぽかんと口を開けてしまう。
「何で、褒めるんですか?」
「私だって、褒めるよ! 私がいた頃はまだまだ細かいところが、荒かったりしたけど、これは本当に整合性、取れてるし。高校生でこのレベルってすごいね」
「褒め過ぎです。何だか、寒気がします」
「私が褒めると何で、寒気がするのよ! 何で肌、擦ってるのよ!」
そんな下らないやり取りを交わしながら、お互いの顔を眺めた。この人も本当に変わったな、と思った。昔はあっけらかんとして、へらへら笑っているような人だったけれど、今のこの人はどこか、疲れている。目元の隈はひどいし、年を取ったように見える。でも、まだ二十歳なんだから、その言葉は適切でないような気もするけれど。
「私、春馬の顔見れて元気出た」
真顔でそんなことを言ってきたので、頬が熱くなってきた。この人は突然、何を言いやがる。
「私にも、マックシェイク、奢ってよ~。席立って買ってくるの、めんどいし」
「嫌ですよ! 自分の金で、買ってください! 貴方もう、成人してるんでしょ!」
「なあに? 異星人? ひどいこと言うなあ~」
この人、素でボケてみせたよ。ある意味、すごいな。
「仕方ないっスね。買ってきますよ」
「それでこそ、私の春馬! 頑張れ、春馬! 高校で、童貞卒業よ!」
大声を上げて騒ぎ始めた彼女のことは無視しながら、僕はカウンターの列に並んだ。何だかんだ言って、先輩の顔が見れてほっとしている自分がいた。昔から破天荒な人だったけど、今、どうしているのか、興味があったのだ。
マックシェイクを買って戻ると、僕の文芸誌に顔を埋めて、寝息を立てている。涎がテーブルに垂れ掛かって、僕は「やれやれ」と席に座った。
その寝顔を横目で見ながら、こんなに疲れているなんて一体、どんなことをしてたんだろう、とふと疑問に思った。
こんな人が昔、部長をしていたなんて、当時から不思議に思っていた。彼女の親友で時田先輩という人がいたのだけれど、本当にプロレベルの作品を書く人で、真面目で後輩の面倒見も良かった。
それなのに、栗本先輩が部長になったのは一体、どんな理由からなんだろう?
そう疑問に思いながらマックシェイクを飲んでいると、誰かが彼女の前に立った。僕はその人の顔を見て、シェイクを噴き出しかける。
「久しぶりね、春馬君! 元気にしてた?」
時田先輩がにっこりと穏やかな笑みを浮かべ、眼鏡の奥の瞳を微笑ませた。黒髪は当時と変わらず、流れるように梳かれ、すっきりとシンプルな服装をしていた。とても、品のある佇まいだった。
「栗本先輩と一緒にいたんですか?」
「さやかが仕事やりたくないってゴネてさ。このままじゃ、重要なシーンを書けないから、気晴らしに外に行くって言い出したの。とうに、締め切りは過ぎてるのに、大丈夫かなって思ったんだけど、ファーストフード店に行くって」
その言葉を聞き、すぐには、その意味を理解できなかった。先輩は今「仕事」と言った。そして、締め切りが過ぎていると言った。
「栗本先輩、プロになったんですか?」
「ずっと前から、さやかはプロやってるよ。皆には言ってなかったけど」
どこか寂しそうに、ふう、と息を漏らす。
「ずっとプロであること隠して、高校時代も、不真面目で適当な生徒だと思わせてさ。そのくせ後輩のことをいつも、心配していて、皆の作品を読んで、アドバイスをあげてたのもそれだよ。だから皆、今、こうしてうまくなったんだと思う」
彼女は文芸誌に指先でそっと触れ、目を伏せた。
「春馬君なんて、どうしてさやかが部長やってるんだって、不思議に思ってただろうけど、彼女が一番、その資格があったからね。だから、今になって打ち明けたけど」
「そうだったんですか」
「それでさ」
時田先輩はどこか悪戯っぽく僕を見て、笑ってみせる。
「さやかはよくこの店で春馬君を見かけるって言ってたんだ。いつか声掛けるつもりだったみたい。でも、邪魔しちゃ悪いからって遠慮してて。必死に作品の構想を巡らせているのを見て、声を掛けられなかったんだって。でも、今書いているのが部活動の話でさ、懐かしい顔が見たいって、家を飛び出したの。それで突然、君の元に現れたってわけ」
彼女は手を伸ばし、栗本先輩の頭を撫でた。
「アシスタント紛いのことやってるけど、私も、さやかが心配なのよ。でも、たぶん彼女も元気出たと思うよ。春馬君のおかげね。ありがと」
「いえ、僕はそんな……」
栗本先輩の疲れたようなその寝顔を見ながら、本当に色々なことがいっぺんに頭を飛び回って、うまく言葉を出せなかった。でも、これだけは言った。
「栗本先輩がプロでも、プロでなくても、僕は感謝していました。これからも、たまに部室に顔出してくださいって言っておいてください」
「うん、そうするね」
そこで、あ、と気付いたように、時田先輩は一冊の文庫本を取り出して、差し出してきた。
「さやかの書いた本。たぶん、君は初めて読むと思うけど。……あげるから」
「え、いいんですか?」
マックシェイクを空にして立ち上がりながら、それを受け取った。そして、そのペンネームを見た瞬間――。
「ぶほっ」
「きゃあっ」
盛大に、シェイクを噴き出してしまった。幸い、時田先輩には掛からなかったけれど、彼女は苦笑していた。でも、驚かずにはいられなかった。だって――。
「満田さやかってあの有名な? ベストセラー連発して、映画化をされ、今、注目されている、若手作家じゃないですか」
「あまり顔出さないから、春馬君も、知らなかっただろうけど。良かったら、読んであげて」
僕は大きくうなずき、本をバッグに仕舞いながら、頭を下げた。最後まで涎を垂らして寝ていた栗本先輩の寝顔が、目に焼き付いていた。
すっかり暗くなった夜道を歩きながら、どこか、誰かに背中を押されたような気持ちになっていた。僕の周りにはとてもすごい人がいて、その人の本当のすごさは、人を笑顔にさせる魔法そのものにあるのだ。
そんな魔法を持った作品を書けたらいいな、と歩きながら、街灯の下で、本のページを捲った。
――その夜、栗本先輩からメールが送られてきた。
本当に短いシンプルな文章で、適当に。
――今日は本当にありがとね~。今度、飲みに行こ~。☆くりもと
未成年だから、飲みに行ける訳ねえだろうが。でも、僕はふっと笑ってしまい、彼女と居酒屋で小説談義で盛り上がるところを想像したら、本当に今から楽しみだった。
魔法はきっと消えない。何故なら、誰の心の中にもあるからだ。
了
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