421人が本棚に入れています
本棚に追加
朋幸は、嫌がるように小さく首を横に振った。
「熱はないと言ってるだろ」
しかし桐山は引き下がらない。
「体調が悪いのでしたら、取材は後日改めてということにしてもよろしいのではないでしょうか。こういう時期ですし、相手も、経済誌の記者とはいっても、どんなことを質問してくるかわかりませんから、不愉快な思いをされるかもしれませんよ?」
「――そういうときのために、お前がついていてくれるんだろ」
くしゃみを連発していても、鼻声であっても、向けられる朋幸の挑発的な眼差しは相変わらず刺激的で、桐山の中にゾクリと甘美な疼きが駆け抜ける。
次の瞬間には、久坂に指示していた。
「今から降りると伝えてくれ」
久坂がドアを閉めると、さっそく桐山はテーブルの上を片付ける。
「記者には、取材を手短に済ませるよう言いましょう」
「そうだな。どうせ取材の内容は、お父様は、おじい様は――というものだろうからな」
そう言う朋幸の口調には卑屈なものはない。本人が感じるプレッシャーは、桐山の想像も及ばない強大なものだろうが、しなやかにしたたかに朋幸は受け止めている。
桐山は朋幸を伴って、一階にあるカフェに向かう。きちんとした応接室もあるのだが、気軽な打ち合わせなどを行うときは、ロビーの一角にあるスペースや、社内のカフェがうってつけなのだ。
ロビーを歩きながら、朋幸が社内では滅多に見せない、ふわりとした穏やかな微笑を浮かべる。できることなら桐山が、自分のものだけにしておきたい表情の一つだ。
「どうかされましたか?」
尋ねると、朋幸の視線は先にあるカフェに向けられる。
「最近、あそこに立ち寄らなくなったと思って」
「そうですね。よくわたしの目を誤魔化して、久坂と寛いでられましたね」
「……あのときは、お前のことがうっとうしくて仕方なかったからな。どうやってお前を困らせてやろうかと思ってたんだ」
そう昔のことではないのに、懐かしい。今では朋幸との関係は劇的に変わった。
落ち着いた雰囲気のカフェに入った桐山は、店内を見回す。かつて朋幸が指定席のように座っていた窓際の席に、見知った広報部の社員と、もう一人、向き合う形で座った男の姿があった。向こうも朋幸と桐山に気づいたらしく、ゆっくりと立ち上がり、深々と頭を下げてくる。
「お待たせしました」
テーブルの側まで歩み寄り、まっさきに桐山が口を開く。隣に立つ朋幸は怜悧な表情という仮面をつけてしまい、にこりともしない。
朋幸なりの処世術だ。さんざん甘やかされて過保護に育てられ、親のコネで丹羽商事に入社、挙げ句に若くして高いポストを手に入れた、高慢で高飛車な青年と、誰もが色眼鏡で朋幸を見る。朋幸も最初は、そのイメージを崩さないよう振舞う。
だが朋幸を甘くみたツケは、仕事上できっちり払わされる。シエナや化粧品部門がいい例だ。
ここで朋幸が、せっかく冷然とした雰囲気をまとっているというのに、拍子抜けするようなくしゃみをする。
過剰なぐらい頭を下げ続けていた記者がようやく顔を上げる。瞬間、桐山はすっと目を細める。
三十代前半から半ばぐらいに見える男だった。つまり桐山と同世代だ。がっしりとした体つきで、よく日に焼けている。一見して経済誌の記者という印象はなかった。
物騒な目をした男だと桐山は思う。桐山自身、自分の眼差しの鋭さは自覚しているが、この記者の眼差しはまるで、獲物を狙う獣のそれだ。
男はにこやかな表情で名刺を取り出して桐山と朋幸に差し出し、出版社名と誌名を告げてから、自分の名を名乗った。
「初めまして、嶋田といいます」
桐山は名刺を受け取るが、朋幸は手を出さない。不審に感じて朋幸のほうを見た桐山は眉をひそめる。
朋幸の顔色が変わっていた。真っ青になり、引き結ばれた唇は血の気をなくして微かに震えている。尋常な反応ではなかった。
「どうかされましたか?」
桐山が問いかけるより先に、嶋田が薄い笑みを浮かべたまま口を開く。感じのいい笑みではなかった。
ハッとしたように朋幸の表情が一変する。どこか呆然としたようなものから、激しい怒りと嫌悪を含んだ表情へと。
嶋田から差し出されたままの名刺を、取り付くしまもないほど鋭く払いのけると、朋幸は低く抑えた声で言った。
「取材は中止だ。……気分が悪い、部屋に戻る」
高慢で高飛車な態度を装いながらも、朋幸自身は礼儀正しい人間で、節度も普通の青年以上に心得ている。その朋幸とは思えない態度だった。
足早にカフェを出ていった朋幸を追いかけたかったが、この場を収拾するのが桐山の仕事だ。広報部の社員は、突然の事態に呆気に取られている。
最初のコメントを投稿しよう!