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大股でフロアを歩きながら、桐山遼二は手にした書類に目を落としていた。意識しなくても、表情は真剣なものになる。
広報室が社外秘扱いで発行したもので、現在、丹羽商事に殺到しているマスコミに対する対応マニュアルだ。
シエナの、丹羽商事に対する補助金の水増し請求・脱税・リベート授受という不祥事が新聞をにぎわせてから、四日が経った。それだけの日数があればマスコミは、丹羽商事内にも騒動があり、シエナの事件と関係していると嗅ぎつける。
その結果が、丹羽商事の本館・別館ビルの周囲に張り付いているマスコミというわけだ。
すでに織り込み済みの事態なので、丹羽商事の対応は落ち着いているというより、素っ気ない。いままでのところ広報部の対応は、完璧だといっていいだろう。
まだあの人を、大々的にマスコミの前に晒すわけにはいかない――。
今回の不祥事を見事な裁量で乗り越えた直属の上司の名を、桐山は口中で呟く。
誇らしい気持ちと同時に、疼くような甘い感覚が胸の奥に広がり、鉄壁の無表情がトレードマークである桐山ですら、思わず唇を綻ばせそうになる。
すかさず理性で抑え込み、気持ちを切り替えるときの癖で、眼鏡の中央を指で押し上げて、再び無表情を取り繕う。
自分の職場である秘書室に入ると、同僚である久坂がデスクにつき、パソコンに向き合っていた。桐山の姿を見るなり、笑みを向けられる。
「おかえりなさい」
桐山は広報部から受け取った書類を久坂に渡して指示する。
「この書類をコピーして、社内メールで統括室の部門の各責任者に回しておいてくれ。広報部も念には念を入れる気らしい」
「承知しました」
受け取った書類に視線を落とした久坂が、すぐに桐山を見上げてくる。
「もしかして、広報部に指示を下したのは――」
おおよそ二十七歳には見えないほどの童顔で、一見ふわりとした女性的な柔らかい雰囲気と性格の持ち主である久坂だが、仕事に関しては非常に有能だ。それに聡い。
桐山は軽く頷き、いくぶん声を潜めて答える。
「おそらく会長か、社長だろうな。……わたしが依頼した以上の動きを見せて、朋幸さんを守ろうとしている。マスコミに名前が流れて、警戒されているのだ」
朋幸の父親はこの丹羽商事の社長で、祖父は丹羽商事も抱えている丹羽グループの会長という肩書きを持っている。いわゆる名門の血筋だ。
やっぱり、と久坂が洩らす。その言葉の意味をわかりかねた桐山はそっと眉をひそめる。
「何か心当たりがあるのか?」
丹羽商事の最年少執行役員であり、化学品統括室室長という重い肩書きを持つ朋幸は、その存在そのものが至宝だ。
そんな朋幸に、どんな小さな傷でもつけないよう守るのが、室長補佐兼秘書という肩書きを持つ桐山の役目であり、使命だ。この仕事に命を懸けているといっても、過言ではない。
朋幸の秘書について約一年半しか経っておらず、すべてを知るにはまだ時間がかかり、だからこそ、朋幸のどんなことでも知っておきたかった。
久坂はちらりと室長室に続くドアを見やる。ときどき息抜きに、室長室をふらりと抜け出す朋幸だが、今は在室しているらしい。
「――桐山さんは、海外支社にいらっしゃったので、室長が丹羽商事に入社された当時の騒動はご存じないと思いますが……」
「ひどかったのか?」
ためらうことなく久坂は頷く。
「室長の出自が出自ですから、ご本人もある程度の覚悟はしてらしたそうですけど、想像以上だったようです。まずは血筋といったことで取り上げられて、そこで今度は室長の外見が注目を浴びて、最後には女性誌の取材までくるようになって……」
つい最近、朋幸が尾行されるという忌々しい事件があったが、そのときの様子を思い出す。マスコミに追いかけ回された過去は、深い傷を朋幸に残したようだ。
「とにかく一日中神経を張り詰め、それが何日も続きましたから、とうとう室長はストレスによる発作から、呼吸困難を起こしたんです」
話を聞きながら桐山は、堅く拳を握り締める。どうしてそのとき朋幸の側についていられなかったのかと、いまさらしても仕方のない後悔が胸に押し寄せる。
「発作は何度かあったそうなんですが、室長の性格から、内緒にされていたんです。でも、そのときは失神されて病院に運び込まれしまったので……」
「それでようやく、社長や会長の耳に入ったのか」
「わたしが病院で付き添っていたのですが、連絡を受けてすぐに、病室に会長がお見えになったんです。事情をお知りになって、それはもう大変なお怒りようでした」
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