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そこからあとの展開は朋幸本人の口から聞いた。会長が出版社に圧力をかけて、朋幸を追い回すのをやめさせたのだ。
普段は力を過信したやり方はしない会長や社長だけに、怒りの深さを推測するのは容易い。
桐山は深く息を吐き出し、久坂と共に、広報部が出した書類を改めて覗き込む。
「わたしたちが危惧するような事態にならなければいいがな」
「そうですね。……できる限りお守りしないと」
「こんな会話が『あの人』の耳に入ったら、過保護すぎるといって機嫌を損ねるかも知れないが……」
桐山は独り言を洩らしてから、室長室のドアをノックして声をかける。
「失礼します」
数秒間を置いてから、ドアをゆっくりと開けた途端、くしゅんっ、という声が聞こえた。
眉をひそめて桐山が室長室に足を踏み入れると、デスクについている朋幸が顔の下半分を両てのひらで覆って、もう一度くしゃみをした。
ドアを閉めた桐山は足早にデスクに歩み寄る。
「お風邪ですか?」
クスンと鼻を鳴らした朋幸は、思いきり顔をしかめて首を横に振る。
「違う。絶対、違う」
朋幸が強く否定すればするほど、桐山は確信する。これは風邪をひかれている、と。
シエナや化粧品部門の件の後処理のため、朋幸は毎晩遅くまで、ホテルの部屋で監査室や財務部といった人間と詳細な打ち合わせをしたり、取り寄せた財務諸表の分析を行っていた。睡眠時間は二、三時間ぐらいだっただろう。
桐山も同じ生活を送っていたが、体力には自信がある。しかし朋幸はそうもいかない。なんといっても、繊細な方だ。
失礼します、と声をかけて朋幸の額にてのひらを当てる。嫌がるかと思った朋幸だが、上目遣いで桐山を見上げたまま、動かない。向けられる無防備な表情が桐山には、朋幸から寄せられる信頼を物語っているように感じられる。
「――……熱はないようですね」
「だから言っただろ。風邪じゃないと。単なるくしゃみだ。きっと、誰かがぼくの噂話でもしているんだろう」
「迷信です。医務室に行かれたらどうですか」
露骨に朋幸は嫌そうな顔をする。
「熱もないのにか? 喉も別に痛くないし。くしゃみが出ただけで駆け込んでいたら、笑われるぞ」
「しかし――」
社内での戦いは終えた朋幸だが、一歩会社を出ると、今度は好奇心剥き出しのマスコミの視線に耐えなければならないのだ。心身共に負担がかかる。
桐山が危惧している間にも、朋幸はまたくしゃみをする。
厳しい桐山の視線を受けて、朋幸は頑固に鼻声気味で言い張り続ける。
「病院も医務室も嫌だからな」
この人は――。
内心でため息を吐いてから、桐山は再び秘書室に戻ると、久坂に告げた。
「朋幸さんが風邪気味のようだから、医務室に行って、市販の風邪薬をもらってきてくれないか」
目を丸くした久坂はすぐに立ち上がる。
「症状はどうなんでしょうか?」
「今のところくしゃみだけだが、少し鼻声だ」
手早く相談していると、すかさず室長室から明らかな鼻声で朋幸が声を上げた。
「ぼくは風邪じゃないぞ」
桐山はひたと久坂の顔を見据える。さきほどの言葉を訂正した。
「風邪だ」
異議なし、といった感じで、久坂はしっかりと頷いた。
午後になってから、桐山が危惧していたように、朋幸の症状は軽くなるどころか、少しずつ悪化しているようだった。
やけに鼻を鳴らし、くしゃみの回数が増えている。
朋幸本人も、風邪だと自覚はあるらしく、くしゃみをする度に、桐山をうかがい見るのだ。そのくせ、厳しい眼差しを向けると、不自然に顔を反らす。
声に出しては言えないが、この辺りは子供と一緒だ。
桐山はじっと朋幸を見つめる。室長室のテーブルの上に広げた資料に真剣に視線を落としている朋幸は、桐山の視線に気づいてはいない。
端麗すぎるほどの美貌は、今は仕事用の怜悧な雰囲気と表情をまとっている。
この表情を見ていると、自分の腕の中で、匂い立つような色香を放たせたい衝動に駆られるときがある。しっかりと結ばれた今でも、その衝動は鎮まるどころか、ますます強くなっている。限界というものがないほど、桐山が朋幸を愛し抜いている証拠だ。
すぐに仕事に意識を戻した桐山だったが、壁にかけられた時計を見上げて、軽く息を洩らす。
朋幸の体調が万全でない今日に限って、経済誌の取材を入れるのを許した自分に、多少の忌々しさを覚えた。
朋幸の体調管理すら自分の仕事だという自負が、桐山にはあるのだ。
ちょうどそこにドアがノックされ、久坂が顔を出す。
「受付からの連絡で、取材の方が見えられたそうです」
その言葉を受けるように、朋幸がくしゃみをする。桐山は呆れるよりも、真剣に朋幸の心配をする。もう一度朋幸の額にてのひらを押し当てて、熱がないのを確認する。桐山にしてみればごく自然な行為だが、久坂は不自然に視線を泳がせている。
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