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ギリギリのところで無表情を保って嶋田と向き合ったとき、嶋田はニヤニヤと笑って、朋幸が去っていった方向を見ていた。桐山は、嶋田に対して危険なものを感じ取る。
「――失礼しました。室長は、今朝から体調を崩されているものですから」
「……あの様子なら、完っ璧に俺のことを覚えてるな。あのときは徹底的にやったから」
聞こえよがしの嶋田の独り言に、思わず桐山は鋭い視線を向ける。目が合うと、澄ました表情で返された。
「えっと、でしたら取材は後日改めて、ということにしていただいてもいいですかね。なんといっても、経済界では今、ちょっとした旬の人ですから、そちらの化学品統括室室長は」
物言いにすら神経を逆撫でられたが、ここで表情を露わにするほど、桐山は甘くはない。わざと感情的な部分を引き出そうとする嶋田の意図は見抜いていた。
眼鏡の中央を押し上げてから、桐山は必要以上に淡々と応じる。
「改めての取材に関しては、検討させていただきます。室長は現在多忙の身ですから、必ずしも時間をお取りできるとは答えかねますので」
「いやあ、それは困るんですよね。こちらはすでに誌面を空けているんで」
「万が一、取材をお受けできないときは、そちらの編集長にお詫びの連絡を入れさせていただきます。ひとまず、そちらの都合のよい時間を、広報部にお伝えください」
それ以上の言葉を許さず軽く頭を下げた桐山は、広報部の社員にあとを頼むと言い置いてから、嶋田を一顧だにせずカフェをあとにする。
ロビーを歩く社員たちが思わず道を空けるほどの勢いで、桐山はエレベーターへと向かう。
無表情を保ったまま内心では、歯噛みしたい心境だった。明らかに、朋幸と嶋田は面識があるようだが、朋幸の反応からして、嶋田は会いたくない部類に入る人間だったのだろう。そうとも知らず、取材を許可した自分自身が、桐山には許せない。
ひとまず、何があったのか朋幸に尋ねるのが先決だ。あとの対処は、どうとでもできる。
化学品統括室が入るフロアに戻り、乱暴に秘書室のドアを開けると、久坂がおろおろとした様子で室長室のドアの前に立っていた。
「どうした?」
普通の人間なら怯えて何も言えなくなるほどのきつい声を発するが、さすがに久坂はすぐに言葉を返してきた。
「それが……、室長が真っ青な顔をして戻ってこられて、室長室に閉じこもってしまわれたのです。体調を悪くされたのかと思ってドアをノックするのですが、入ってくるなと言われるだけで」
やはり、と桐山は思う。朋幸がこんな態度を取るのは、かなり取り乱しているということだ。
桐山は容赦なく乱暴に、室長室のドアをノックする。
「朋幸さん、入ります」
ドアを開けて一気に室長室に踏み込むと、朋幸はデスクの傍らに立ち、肩を大きく上下させていた。
「朋幸さんっ」
慌てて桐山は朋幸の元に駆け寄り、肩に手をかけようとする。すかさず朋幸の深い黒の瞳にきつく睨みつけられた。
「……なんで、取材に来る人間の記者の身元を、きちんと調べておかなかった」
取材に訪れる記者が確かに出版社の人間であるか、という意味での確認なら、当然した。しかし、記者の身元までわざわざ調べることはしない。それが普通だ。朋幸は無茶を言っている。
無茶を言い出すぐらい、朋幸はあの嶋田という記者を警戒しているということだ。
「朋幸さん……」
本人も取り乱しているという自覚があるらしく、やけに頼りない表情を一瞬見せる。
本能的に、か弱い生き物をきつく抱き締めたい衝動に駆られた桐山だが、身じろぎしかけたときに、うつむいた朋幸にドアを指で示されて言われた。
「――……出ていってくれ。今は、誰とも話したくない」
いつもの桐山なら、有無を言わさず事情を聞きだしたかもしれないが、朋幸の声がわずかに震えを帯びているのに気づいてしまった。
痛ましい思いで朋幸をそっと見つめてから、桐山は一礼して室長室を出る。
静かにドアを閉めると、傍らに心配そうな表情をした久坂が立っていた。
「室長は、どうでした?」
桐山は眉をひそめたまま首を横に振る。
「何があったんですか? 取材で何か、失礼ことを言われたのですか?」
「いや……。記者と顔を合わせた途端、顔色を変えられたんだ」
もしかして、という考えが桐山の中で芽生える。それは久坂も同じらしく、顔を見合わせる。
「朋幸さんは、入社当時にマスコミに手ひどい目に遭わされているんだな」
「ええ、そうです」
ジャケットのポケットに突っ込んでおいた嶋田の名刺を取り出し、久坂に手渡す。
「――広報部に行って、この男について聞いてきてくれないか。取材に訪れたのは、今日が初めてなのかどうかといったことが、まず知りたい」
「わかりました」
久坂はすぐに秘書室を飛び出していく。
一人秘書室に残った桐山は、もどかしい思いで室長室のドアの前に立ち尽くす。
今すぐにでも再び室長室に飛び込み、朋幸の口を強引にでも開かせたかった。そして、同じ思いを背負いたい。
だが、桐山にそうされることを拒むように、ドアはしばらく、頑なに閉ざされたままだった。
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