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帰りの車の中、口元をてのひらで覆った朋幸が、苦しげに咳を繰り返す。
バックミラー越しにその様子をちらりと見た桐山は、すぐに前方を見据えながら眉をひそめる。くしゃみだけならまだよかったが、時間と共に症状は悪化しているようだ。
今日の嶋田という記者のこともあり、あまり口うるさく言いたくないが、朋幸本人の体調を思うと気づかないふりもできない。それに朋幸には報告しておきたいことがあった。
「――明日、病院に行きましょう。出社が遅くなることは久坂に連絡しておきます」
「行かない。病院は時間がかかる。じっと待っているぐらいなら、仕事をしていたほうが、よほど体によさそうだ。それでなくても今は、総会の準備で忙しいというのに……」
予測はしていた答えだ。
四日後に、丹羽グループ傘下企業の取締役が集まっての総会が開かれる。丹羽商事が中心となって会場などの準備を進めており、シエナと化粧品部門の事件が片付いた朋幸も、現在その準備に奔走しているのだ。
「しかし、もし無理をされて悪化するようなことになると――」
「総会が終わったら行く。だいたい、そのときまでには放っておいても治るだろ」
朋幸は見た目の可憐さとは裏腹に、かなり頑固な性格の持ち主だ。明日病院に連れて行くのは、どうやら無理そうだった。
さて、どうしたものか――。
自分でダメなら、久坂に頼んでもらおうかと考えていた桐山だが、ふとサイドミラーに視線をやる。さきほどからチラチラと、黒いバイクの姿が映って見えるのだ。
一定の距離は取っているので、偶然同じ方向に向かっているという可能性はあるが、つい最近、朋幸が尾行されたこともあり、嫌な感覚が走る。
朋幸に異変を感じ取られないよう、慎重に車のスピードを落とす。するとバイクは、車を抜いていくどころか、合わせるようにスピードを落とす。
桐山は険しく目を細めてから、もう一度バックミラーに視線をやる。
何も気づいた様子もなく、朋幸はシートにぐったりと体を預け、顔を仰向かせて目を閉じていた。そして思い出したように咳をしている。
ただでさえ激務続きで、倒れないのが不思議なぐらいの朋幸に、また尾行がついているようだとは言えなかった。
おそらくマスコミ関係の人間だと見当をつけた桐山は、再び車のスピードを上げながら、夕方、久坂から受けた報告の内容を思い出す。
今日の経済誌の取材は、本来は別の記者が訪れるはずだったのだが、事情があって、急遽嶋田に代わったのだという。
広報部を通じて、記者の代役を立てた事態を報告してこなかった出版社には抗議しておいた。当分、朋幸が取材を受けることはないだろう。
ここで、まさか、と桐山は思う。バックミラーに映るバイクを一瞥する。
一瞬、裏道に入ってバイクを撒こうかと考えたが、結局、いつもの道を進む。この瞬間だけ相手を撒いても、明日には同じことが繰り返される。それに、普段と違う行動は、朋幸を不安がらせる。
車がマンション近くに差しかかる頃には、朋幸は目を開け、シートにしっかりと座り直していた。
桐山はマンションの駐車場に車を入れる。バックミラーの中で、朋幸が戸惑ったような表情をしていた。マンション前で車を停めなかった意味を、朋幸はよく理解しているのだ。
「疲れていらっしゃるところ申し訳ありませんが、お部屋に寄らせていただいてかまいませんか?」
「……うん」
車のエンジンを切った桐山は、朋幸を手で制してから、アタッシェケースを手にまず自分が先に車を降りて慎重に周囲をうかがう。近くに人がいる気配はなかった。
後部座席のドアを開けると、朋幸が不安そうというより、怯えたように桐山の視線の先を見つめる。
「何か、あるのか?」
桐山は、朋幸にしか見せない穏やかな笑みを浮かべる。
「大丈夫です。あなたの身は、何があってもわたしがお守りします」
参りましょう、と促し、マンションのエントランスホールに足を踏み入れた。すっかり顔見知りとなった警備員と会釈を交わし合ってからエレベーターに乗り込む。
再び咳を始めた朋幸の背を、できるだけ優しくてのひらでさすってやる。
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