あるアスリートがぶち当たった”壁”

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あるアスリートがぶち当たった”壁”

 そこは国際的なフィギアスケートの大会が開催されるほど著名なスケートリンク場なので実名は伏せておく。 ただ確実に言えることは、そこには何かしらが棲んでいる。  例えば破竹の勢いで成績を伸ばしてきた絶好調な選手がいるとする。 いつもは数々の完璧なジャンプを決める場面でも、そこの氷上で演技をすると、なぜか転倒をしてしまう。たいていの選手がそうである。 そしてその日を境にして自らの演技が思うようにならなくなり、中には引退まで追い込まれる気の毒な選手も一人二人ではない。  ところが、私は確信したのだ。 実際に自ら足を運んだ、そこのスケートリンクの現場で。 普段は決して姿を見せないヤツの存在を。   その日は男子フィギアスケート世界選手権決勝の日だった。 豪快且つ華麗な男子アスリートたちの繰り出すジャンプに魅了されている私は何時ものように早々に会場に駆けつけた。 公開練習の時間から見学をしたいからだ。彼らの厳しい真剣な表情や身のこなしから演技に対する熱意や覚悟、意気込みがストレートに伝わってくる。  特に今回は近年メキメキと実力を上げて急浮上してきた期待の新人、仮にT君としておくが、彼の演技が見たかった。思い切りのいい4回転半ジャンプが彼の武器だった。成功率は実に99%という驚異の運動神経の持ち主でもある。  その彼が。 昨日の予選でまさかの転倒。得点で大きく出遅れたものの、他の演技で なんとか上位に喰い込み、今日の決勝にまで漕ぎつけたのはプロスケーターとしてのプライドだろう。  T君の公開練習はいきなり4回転半ジャンプの確認から始まった。 彼も昨日の転倒が納得いかないのだろう。 充分に加速をつけてからのジャンプ。いつものように日本人離れした、高さのあるジャンプだ。 しかし、身体の回転不足と着氷の僅かな傾きで転倒。すぐさま彼は立ち上がり、滑走を始めて加速をつけて再度ジャンプ。 またもや転倒。    この瞬間、私は見た。ジャンプしつつ上半身に捻りを加えて回転しようとするT君の肘と肩の部分に歪んだ空間が引っ掛かるのを。 それはあたかも「見えない空気」がT君の身体を押さえつけるかのようにも見えた。 ・・・・? あれはなんだ、照明と氷上の反射による目の錯覚か?  T君も倒れた位置で尻もちをついたまま、首を傾げていた。 彼もなにか異変を感じたようだった。 膝とお尻を軽くはたきながらユルユルと立ち上がり、キュッ!と氷を蹴って三度目の滑走を始めたT君の横顔が私の前を流れていく。 口元を固く結んだ表情から、自身のストイックな性格と静かに燃える探求心が読み取れるたような気がした。 そして両腕を今までよりも大きく振ってジャンプ!回転力をさらに強めようと考えたのだろう。  ・・・・ぁぁー・・・・低いうめき声にも似た悲鳴が観客席から漏れる。振りが大きかった分、三回目は派手に転倒した。両足をスピンさせながら着地に失敗した付近をスライディングしながら大きく滑る形となった。さすがにT君のコーチも大声でなにかT君に指示を与えている。 しかし、T君は笑みを浮かべながら右手をあげて(大丈夫!)とジェスチャーをコーチに送り、サッと立ち上がった。会場の照明が何かを振り切ったかのような彼の背中を映し出す中、さっそうとリンクを後にした。  そして本選。待ちに待ったT君の演技。 水を打ったように静まった会場に今回の彼の演技曲が流れ始め、そして落ち着いた出だしで滑走がスタート・・・・   観客のどよめき。会場の空気が張り裂けんばかりの拍手。鳥肌が止まない高揚感。観客席からまるで噴水のように投げ込まれる花束がきらめく中、清々しいばかりのお辞儀を繰り返すT君。 やはり先ほどの無理やりにも見えたジャンプの練習時、激しく転倒したことが何かしらの負担になったのだろう。 いつもの高さがなかったのと、着氷時に少々バランスを崩したものの彼は4回転半ジャンプを見事成功させた。  結果は3位。しかし彼の健闘を称えない観客は皆無だった。    妖怪「塗り壁」。 言わずと知れた「ゲゲゲの鬼太郎」に登場するキャラクターである。 作者でもあり妖怪研究家の第一人者でもある故水木しげる先生によると、 ”福岡県の海岸地方に出没。歩いていると突如、前に進めなくなることがある。まるで見えない壁が立ちふさがったようになる。”との解説である。 このアイススケート会場は確かに海べりを埋め立てた人工島に建設された経緯はあるが、などと考えるのはこじつけが過ぎるか。  また、「塗り壁」の解説には続きがあり、以下のように記されている。 ”この妖怪が現れたときは、慌てずに足元を棒などで払うと消えていなくなる。”    ・・・・なるほど。 私の脳裏をよぎったのは、公開練習の時に豪快に転倒したT君の姿だ。 両足をスピンさせながらの大スライディング。  あの時。 ひょっとしてT君は自らの足で”あいつ”の足を払ったのではなかろうか? いや。そうに違いない。事実、その後の決勝でT君は自身が誇る4回転半ジャンプを見事に成功させている。 彼の熱意と折れない探求心が、このアイススケート場に巣くう妖力を断ち切ったのだ。                    
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