③ side Hongo

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③ side Hongo

「そういえばぁー、中学の時、本郷ってー、ピアノの何ちゃらコンクールで賞取ってたよねぇー」  僕の隣に座る幼馴染という名の腐れ縁、藤丘が間延びした声音でぽつりと呟いた一言に、クラス中の視線がザッという音と共に集まる。  僕等は一番後ろの席に座っている。クラス中の人間が一斉に身体ごとこちらを振り向いて、食い入るように視線を投げかけてくる。  彼等の視線の強さにやられ、僕は言葉を失ってしまう。その雰囲気に居た堪れず、藤丘を睨みつけると、横顔のまま軽く口角を上げて、へらっと笑い返された。低い身長と童顔にそぐわない計算の高さで、またお得意の確信犯だ。  ゴールデンウィーク明けの麗らかな五月の午後、帰りのホームルームで担任の高畑先生から告げられた合唱コンクールの存在。伴奏者と指揮者の選定が急務だと言われ、決まるまで僕等は教室から出ることを許されなかったのだ。  5分もかければ決まるだろう、と他人事のように思って、テニス部が休みの僕は頬杖をつきながら、ぼんやりと耳だけを先生の方に向けていた。しかし、ピアノどころか、音楽がてんでダメな人間が見事に集結した我がクラスからは、手の上がる気配が一向に伺われなかった。 「あー、じゃあ、本郷で決定な」  カツカツと小気味の良い音を立てて、高畑先生はチョークで黒板に僕の名前を書いていく。あからさまにほっとした表情でクラスメイトの視線が自分の表面から離れて行くのを、僕はひきつった笑みを浮かべながら見つめていた。  本人への意志確認という大層なものは、この専制君主のような国語教師には存在し得ない。教員になって以来、担当クラスを全て優勝へと導いてきたというたいそうな戦歴を持っているようだが、単に運が良かったからだろう。  トントン拍子で伴奏者も決まり、約一名を除いて、クラス中が軟禁状態から解放された喜びに満ち溢れていた。各々、形の違う鞄を手に勢い良く、教室から飛び出して行く。  高畑先生は、今年も一人身を突き通すに違いない。今年で三十路突入なのに、奥さんを迎えることはこれから一生なさそうだ。むしろ、立派な奥さんをもらって性格矯正してもらえば良いと思う。しかし、こんな顔だけしか取り柄のない暴君に引き取り手があるものか、と僕は散々恨み言を呟いた。あくまでも、心の中で、だ。 「……此れに対して如何ぞ涙垂れざらん」  泣き寝入りを決めこんだ僕は机に突っ伏しながら、横にいる藤丘に恨めしい視線を投げつけた。白居易の『長恨歌』だ。 「本郷や、本郷や、若を奈何せんっ!」  歌うように節をつけながら、鞄に荷物を詰める藤丘が言葉を返した。しかし、藤丘は言葉と言動が明らかに合っていない。  そんな藤丘のふざけた言動に似合わず、彼は宿題のない教科もロッカーに置き勉はしない。努力型の勉強家なのだ。  今日の六限の国語で習った漢文の反語表現を使って愚痴を零したら、反語で返された。ちなみに藤丘の言った『史記』の言葉は、そんな風に軽やかに明るく口する言葉じゃない。同情の欠片さえ見つからない。  じゃあねぇ、と薄情な幼馴染は目に痛い黄色のデイバックを担いで、脱兎のごとく教室を走り去った。  流石は陸上部で赤丸急上昇中のルーキーだ。小学校から始めた陸上をずっと続けており、高校も短距離でいくつもりらしい。  僕がピアノを止めたことを藤丘は知っていた。そして、親族一同が匙を投げた意固地な僕の決定に彼は最後まで反対をしていた。いや、今でも反対し続けている。あの日、彼の目の前で楽譜を破り捨てたのに、泣いていたのは僕じゃなかった。  配られた楽譜に目を通す。いつかのテレビ番組で耳にした事のある、レミオロメンの『3月9日』。卒業を主軸に織り込んだ穏やかなバラードを、入学したての一年生に合唱コンクールで歌わせるのかと驚いた。  例年のごとく、今年も優勝を狙う高畑先生が選んできたというらしいが、中々持ち得ないセンスの持ち主のようだ。この曲は卒業する学生の歌だ。苦笑が自然と頬に滲み出た。  五線譜の上に踊る音符が僕の指を誘う。音が頭の中に流れ込んで、知らず知らずのうちに僕は右手の指先で机を叩いてリズムを取っていた。指がピアノを叩きたいと騒ぎ出す。 「本郷ー? 俺が指揮やるから宜しくな!」  突然、楽譜に落とした視線の端から、良く日に焼けた手のひらが飛び出してきた。動かしていた指を止め、大きく二度瞬きをする。ゆっくりと顔を上げて、差し出された手のひらを握った。想像以上に大きな手のひらだった。そっと彼に向けて微笑みを零すと、満面の笑みを浮かべた今池の姿があった。  場を上手く盛り上げることに長けている今池は、話題の中心となる人物だった。同じテニス部で、使う路線も同じで、自宅からの最寄駅が一駅分しか違わない僕等は、着かず離れずの関係であった。仲が良いわけでも悪いわけでもない。自宅は自転車で充分行ける距離だが、中学は学区の違いで違う学校だった。  楽譜を綺麗に折りたたんでファイルに入れ、帰り支度をしている僕を、今池は赤色のラケットバックを肩に担いで待っていた。どうやら、彼も例に漏れず、音楽が苦手な人種なので一度どんな感じの音か聴いておきたいらしく、高畑先生から音楽室の鍵を借りてきたそうだ。  席を立つと同じに、今池に手を掴まれて、急かすように引っ張られた。無理やりではなく、足の重い僕に歩き方を教えるような、心地良い強さだった。  校舎棟を出て、渡り廊下で繋がった特別棟へと行く。僕の貧相な体と比べて、昔からスポーツ少年だったことを思わせる逞しい体躯を羨ましく感じた。  部活が休みなのに、近所のスポーツセンターへ自主練に行くのだろう、と使いこまれたラケットバックを見て思った。彼と僕とは、さほど身長は変わらない。彼の方がちょっとだけ大きいだけなのに、僕よりもずっともっと大きく感じられた。 「まぁ、頑張ろうぜ。高畑先生の輝かしい栄光を俺たちでストップさせるわけにはいかねぇしな」  藤丘の目論みによって、生贄にされた僕とは違い、今池は自分から立候補して指揮者になった。指揮者なんて大役を、あのまとまりの悪そうなクラスの面倒をみながらやろうとするのだから、天晴れなものだ。  でも、多分、今池は良い指揮者になると思う。僕自身、高校から始めたテニスで彼の指導力の高さに目を見張った。おかげで、全くの初心者だった僕も、軽い打ち合いなら出来るようになった。  ピアノの鍵穴に少し錆びた鍵を通す。黒塗りの蓋を開けて、ワインレッドの厚い布をそっと捲り、鍵盤の白と黒のコントラストに目を細めた。水に濡れたような黒色の中に『YAMAHA』という金文字が見えた。中学の音楽室にあったものと同じ型のピアノだった。音楽の授業が美術と書道の選択で、尚且つ、一年生のみの週に一コマしかない普通科の進学校では、このピアノが妥当なのかもしれない。  閉じられたままの僕のピアノには『STEINWAY & SONS』と金文字の印字があった。僕が生まれたその日に、音楽家の祖父母が送ってくれたものだった。音楽が溢れているあの家では、日本語よりも先にピアノの音を知った気がする。冗談みたいな本当の話だ。  ポーン、と立ったまま人差し指で黒鍵を押す。ピアノの音色は春先の雨の音に似ている。  指先に僅かな抵抗を感じた。ただ鍵盤が重いだけじゃない。僕の気持ちが重いのだ。そう想う自分に苦い笑みが滲んだ。  椅子を引いて、鞄から取り出した楽譜を置く。昔からの条件反射で、自然と背筋が伸びる。鍵盤に指を置くと、指先が細げに震えた。嬉しいのと苦しいのと哀しいのと……、あらゆる感情が胸のうちで駆け巡る。 「……夫れ何をか憂へ何をか懼れん」  右肩をぽんっと叩かれて、僕は横を振り向いた。いつもと変わらない今池の笑顔がそこにあった。わしょわしょと勢い良く髪の毛を掻き回され、僕はピアノから手を離して、椅子に座ったまま、笑いながら抵抗をした。  一瞬だけ、心を読み取られたのかと思ってしまう。何も心配することも、恐れることもないんだと、改めて言葉にされて、心に沈み込んだ重荷がゆるゆると溶けて行く。  言葉なく、笑顔を今池に返した。静けさが戻った夕暮れ時の音楽室。窓から差しこむ日差しが、のっぽの影法師をリノリウムの床に描き出す。明るい茶色に染めた今池の髪の毛がきらきらと透き通って綺麗だった。  もう一度、鍵盤の上に手のひらを乗せる。指先は、もう震えることはなかった。大きく息を吸いこんで、僕は白と黒の小さな舞台に指先を躍らせた。
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