第3話 始まり

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第3話 始まり

夏の蒸し暑い夜風の吹く外の匂いが欲しくて、私は2階の自室からベランダに出た。 どこもかしこも周囲の家の明かりは少なくて、でもそんな中に光る僅かな光が今は、私の目には宝石に見えた。 ……そう、何度も見させられた宝石。 「───考え事なんかしてたら、余計に病むんじゃない?」 「……フルール」 一体いつからそこに居たのか、視線を逸らせば私の視界に、あの摩訶不思議な少女が立っていた。その緋色の髪は風に踊らされ、優雅に舞う。 「今のあなたに必要なのは、憂いを帯びることじゃない。一刻も早くこの悪夢を断ち切ること……違う?」 「……正論だけど、あまりに難しい課題だよね」 「あら、そう?だからそんな難しい課題をクリアするために、私がせっかくのヒントを提示してあげたっていうのに」 ニヤリと口元を裂いて、フルールはそのドレスを翻す。 「やっぱりあの話は、あなたの仕業だったの?」 「ええ、その通りよ。祖父母の家への訪問───これこそが、私の、あなたに対する試練。どう扱おうと、それはあなたの勝手だけれど」 「じゃあ、おじいちゃんの家に……このペンデュラムを終わらせる、ヒントが?」 「ペンデュラムっていうのは、あなたが名付けたのかしら。……くすくす、面白いセンスね。意味は『振り子』。まあこの場合、あなたはその振り子をダウジングの手段にして彷徨い右往左往する、哀れな子羊だけれど」 嫌味を放ち、フルールは私の神経を逆撫でする。しかしこんな言葉にいちいち反応していたなら、きっとそれこそ踊るピエロだ。だから私は挑発には乗らない。 「あなたのその余計な言葉には興味ない。だからもっと役立つことを聞く。……おじいちゃんの家にヒントなんて、本当にあるの?どうしてそこが、この終わらない8月を終わらせることができるっていうの?」 「勘違い、私はそんなことは一言も言ってないでしょう。……言ったのは、ということよ。別に、あの家に行けば絶対に助かるとは言ってないじゃない」 「……ヒント」 「まあそれがなんなのかは、あなた自身が考えることね。でも今、私の口からあえてそのヒントを一部暴露するなら───、」 そこで彼女は向き直り、私の瞳を覗き込む。……奥の奥まで、何もかもを見透かされている気分にさえ陥ってしまうほどに、彼女のそれは強力であった。 「───風町文雄。彼を。……もっと深く、その深淵の先の先までを、ね」 「……っ、文雄を?」 ここで彼女の口から彼の名前が出てきたことに、私は驚きを隠せずに目を見開いた。 ───風町文雄。私の双子の弟。 私と文雄が生まれてきてから3年の月日を経て、そうして次に産まれてきたのが梢だ。少し複雑な関係図ではあるが、彼もまた私と血を繋げた立派な家族である。 だが、訳あって今は別居しているのだ。東京に住む私と梢、父さんと母さんからは離れて、彼は福岡の祖父母の家に一人残った。 文雄がそうあり始めたのは、今から5年ほど前のこと。小学校を卒業すると同時に、突然彼は向こうの家に住む、と断言したのだ。 理由は不明。それを語ることもしない文雄に対して、当然両親は怒り、引き止めた。しかし彼はそれよりも一枚頑固で、一度決めたことを捻じ曲げたりしない性質をこれでもかと提示し、父さん達を圧倒したのだ。 それから彼は、中学と高校を向こうで過ごし、今でもあの場所で暮らしている。祖父母と彼で、3人で───。 「どうしてここで文雄の名前が出てくるのか、私にはわからないけど……」 「まあ、そうよね。でもこの5年間、おかしいとは思わなかったかしら?───どうして文雄は急に家を飛び出したの?なんのために?……その謎の答えにも、辿り着くといいわね」 「……。知ってるなら、教えてよ」 私のダメ元の言葉に、彼女は予想通りに笑った。 「だーめ。そこからはあなたが考えなきゃ。じゃなきゃ───わよ?」 「……」 やはり彼女は謎だった。存在も言葉も、考え方も価値観も、なにもかもが。 しかしどうにも、そんな存在だからこそ、力を帯びた説得力も……ある。それは否定できない。 だからこそ私は、ここで投げ捨てることなどはしなかった。これが彼女の言う用意された試練だというのなら、いいだろう解いてやる。 そう、意気込みをしてしまう。 それは根拠なき覚悟と決意。しかしペンデュラムはいつだって私の前に壁としてそびえ続けた。なら私だって───、 「……わかった。私は、行く」 「───そう。決めたのね?」 「決めた。どのみち私は後ろには逃げられない。なら進む。前にしか行けないのなら、無理やりにでも押し通す」 「本気ねぇ。まあ、それならせいぜい足掻くといいわ。私も時折サポート役に徹してあげる。この地獄を終わらせるのは、あなた以外にはいないのだから」 ───もう一度だけ私は、この街を見下ろす。そして私は夜風を受けて、心の内にて断言した。 非捕食者が、今度こそ勝つと……。 「……文雄」 ───その名前を最後に呼び、私は夜の闇に背を向けた。
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