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第5話 正夢にならぬように
翌日。こちらの家族で4人揃って昼食を摂った後で、唐突に文雄は席を立ちこう言った。
「ちょっと、出かけてくる」
その言葉は別段おかしいものではなかったのだが、おばあちゃんは文雄のそれに苦笑する。そうして茶の入ったコップを置いてから、呆れるようにして文雄を見た。
「最近はそればっかりねぇ。一体どこに行っとるの?」
「まあ、少し山の方にね。空気が好きでさ」
それが彼の返答。だから、それ以上を疑問には……誰も思わない。
私以外は。
「ちょっと待って」
だから私は、文雄を引き止める。そしてその一言を加えた。
「私も一緒に行っていい?」
「……いいけど。面白くないよ?」
「それでも、ちょっと話があるから」
そこまでを言って押し退けると、ようやく彼も重い首を縦に振ってくれた。
「わかった。じゃあ、行こうか」
そうして彼は部屋を後にし、私もそれについていった。
玄関から外に出ると、蝉達の合唱が耳を劈いた。キリキリと威勢の良い賑やかさが、私と彼の外出のBGMとなるのは、ちょうど良いのかもしれない。
二人して少し歩き、山の中へと足を踏み入れる。生い茂る木々を潜り抜け、荒れた道を突き進んだ。
そこから見上げた樹木の葉の群れからは、隙間が生まれ光が零れた。白と黄金の溶け込むそれは、眩しげに私の視界を泳ぐ。
しばらくを歩く。足を動かし道を進む。
その果てにゴールがあるのか……私はそんな疑問をつい抱いてしまう。終わらない道筋という点では、私はペンデュラムで充分味わった。心が殺されるくらいに、壊された。
だから……故に、私は恐怖する。
終わらない何かを───怖がったのだ。
「もうすぐ、着くよ」
「……っ、」
だから、そんなときに響いた彼のその言葉は、酷く安心できた。到着できると、そう明言されたのだから───。
「ここって、」
「頂上だよ。ここからだと、街の全部が展望できる」
「ほんとだ……凄い」
思わずその光景に圧巻する。澄み渡る青空の下、そこにはプラモデルのような街の姿があったのだ。
陽光に包まれる、穏やかな街並み。蝉の繋ぐ声の群れ。うだるような暑ささえも……そのすべてが、ここからだとより鮮明に感じ取れる。そうしていると、自然と心も安らいだ。
「……綺麗に見える?」
「えっ?」
突然口を開いた文雄に、私は動揺した。静寂の精神に伸びた彼の言葉は、かえってくっきりと響いたのだ。
「この街が、平和に見えるかな。平穏に包まれてると思う?何もかもが不変の、宝石のようだと感じられる?」
「……それは、私に言ってるの?」
独り言のようにも取れたので、私はそう問い返す。しかしそれは空振りな疑問だったらしく、文雄はからからと笑った。
「もちろん花音に聞いてるんだ。この街を、どう思うのか」
「───。とても優しい感じがする、とでも言えばいいのかな。そんな感想くらいだけど」
「そうか……。僕には、とても脆いように見える」
「脆い……?」
「ああ、脆い。すぐに壊れてしまいそうだ。まあ、杞憂かもしれないけど。でもね、僕にはこれが杞憂だとは到底思えないんだよ」
そこで彼はどこか遠いところに目をやり、それを細めてから続けた。風が一直線に彼の髪を撫でると、それは無造作に広がっていった。
「───夢を見たんだ。この街が壊れる夢を」
「……壊れるって、えっ?」
「こんな風に、よく晴れた日のことだった。汗ばむ空気に、自然の匂い。陽の光は街を包み込んで、その様子を青空の海だけが見つめているような───そんな、平穏を体現したような日のこと」
そして彼は、その後を静かに語った。
「紅色に焼けた隕石の群れが、そんな街を破壊していったんだ」
「い、隕石……?」
「突拍子もない話だと思うだろ?でも、見たものは見たんだ」
「でも、それはあくまでも夢の話でしょ……?」
「うん。でも、僕は怖いんだ。その夢が実現してしまいそうで、怖い。こんな風に晴れ渡った日なんかは、特に警戒してしまうんだ……。あの夢の通りになるんじゃないかってね」
「そんな……」
「その夢を見たのは、僕が小学6年生のときだった。そこで朝目覚めて、すぐに直感したよ。───この街が危険に晒されてるんだって」
その言葉に過敏に反応し、私は聞き返す。
「6年生……って、文雄がここに住み始めたとき?だから文雄は、ここに来たの?」
「うん。母さんや父さんには悪いことをしたと思ってるよ。急に、なんの前触れもなしにこっちへ引っ越すなんて言っちゃって。……花音にも、梢にも、申し訳ないって思ってる」
「───」
そういえば、あの日の文雄は本当に強情だった。何かに必死な様子で、焦って、目を血ばらせて、訴えて、そうやって半ば無理やりにこちらに来たのだ。
そのときの彼女の───梢の表情は、未だに忘れられない。
彼女は当時10歳であった。梢は今は少し変わってしまったが、あの頃は明るく陽気な性格だったのだ。
特に文雄とは仲が良く、二人はよく遊んでいた。放課後はわざわざ上級生の廊下まで足を運び、文雄に声をかけて遊びの約束を取り付けるほどに。
それが、文雄の突然の引越しによって……その日常は途切れてしまった。
「梢」
私がその名前を口にすると、彼は少しだけ身を揺らす。そうしてなおも、街の光景を眺め続けた。
「梢は……本当に寂しがってたよ。文雄がこの街に行くって言い出して、父さんや母さんが怒って反対して、そのときのあの子の表情は、今でも覚えてる。───あんなに何かに苦しむあの子を見たのは、あれが初めてだった」
「───」
「せめてさ、たまには帰ってきてほしいんだよ。梢ももう中学3年生で、受験期だけど……今でもずっと、文雄に会いたがってるんだよ?」
あの夜に見せた彼女の顔を、思い出す。母さんから文雄の名前が出たときの、あの子の表情を。普段は受験期ということもあり、少しばかり塞ぎ込むようになった彼女が見せた、本当の顔を。
そうだ……。何年経とうが、変わらない思いは、やはり変わらないのだ。
「……梢」
今度は文雄がその名前を口にする。それは重たく、小さく、優しい声色。
「でも僕は、帰れない。……ここで僕が帰ったら、本当に危ない気がするんだ。この街が、本当に消えるんじゃないかって。───そんなことを心配して向こうで暮らすだなんてのは、僕には、できない。できないよ……」
「文雄……」
「ごめん。こんなのは、エゴだよね。わかってる。僕は酷い人間だ。親も、梢にも、迷惑をかけた。あの子が寂しいだろうときにも、僕は一緒には居てやれないんだから。……こんなの、兄失格だよね」
それでも彼は、帰りたくないと言う。この街の平和を、彼はその目でいつまでも見続けたいと、そう言うのだ。
彼は今でも、その恐怖心に支配されている。隕石の降る夢が、いつか現実になるのではないかという不安に。……永遠に。
「……せめて、梢には電話するよ。本当は互いに顔を合わせて話したいけど、やっぱりそれは無理だからさ……」
「うん。……わかった」
「ごめん」
そこで彼は最後にもう一度だけ謝り、風に当たった。すると私の方を向いて、今度は彼の持つ疑問を口に出す。
「それで、花音も僕に話があるんだよね?なに?」
「……え?あ、うん。話はあるよ」
───私が彼に、聞きたいこと。それは用意してきたはずのものなのに、実際は上手く口にはできなかった。
私が彼に求めるのは、このペンデュラムを終わらせるヒント、鍵。フルールの話が本当なら、彼は間違いなく持ち合わせているはずなのだ。
しかしそれをどう尋ねて良いかを、私は戸惑う。難しい質問なのだ。
「なんだか、深刻そうな顔してるね。なにか悩んでることでもあるの?」
私はここで決意する。実は私が、この8月を繰り返しているんだなんて話をしたところで、彼が容易に信じてくれるはずもない。
それなら、作り話を装えばいいのだ。
「実はさ、この夏休みにうちの学校の演劇部が、大きいステージで劇をやることになったんだよね。そのストーリーが、主人公が終わらない8月に閉じ込められて、何度もその時間を繰り返すっていうものなの。……私もこの劇に助っ人として参加することになったんだけど、正直このストーリー……どう思う?」
「……感想ってこと?その、お話の?」
「うん。まあ、ちょっとした興味だよ。そもそもそんなことになったら、どう解決すればいいんだろうね?……そういうことも聞きたいな」
「───それは、なんていうか……大変なことだと思うよ。もしもそんなことに巻き込まれたなら、僕だったらパニックになるかも。解決しようにも、どうすればいいかなんて、考えられないしなぁ」
「そう、か……。あ、あはは、そうだよね。ごめん、変なこと聞いて」
彼は予想外なことに、そのペンデュラムへの打開策を持ち合わせてはいなかった。いや、これは───予想内なのか。
フルールは言った。文雄はあくまでもヒントでしかないと。つまりここで答えを直接口にするわけではないのだ。
……いやだとしても、せめて何かしらのキーになる言葉は欲しかったのだが。
「役に立てなくてごめん。劇の参考かな?役者も大変だね。頑張って」
「……ありがとう。頑張るね」
そこで会話は終了。これ以上は、私も彼も話題がなかった。
「じゃあ、そろそろ戻ろうか。花音も、暑いだろうし」
「うん。わかった」
───フルール。私は今、その存在に試されている時間なのだ。だから意地でも私は、この場所に隠された、文雄に隠されたヒントが欲しい。
だがわからない。……何をどうすれば、ペンデュラムに打ち勝つヒントが得られる?
私が今、最もするべき行動とはなにか。
そんなことを考えながら、私は彼と共にここから下山するのであった。
「───ッ!?」
そのときだった。私の背後に、何か大きな存在が立ち尽くしていることを察知したのは。
それは人間の形をしているのか、はたまたバケモノなのか、物なのか……その区別すら付けられなかった。
ただ、居た。それは、間違いなくそこに居たのだ。
私は振り向けない。背後に居座るソレに、目を合わせられなかった。
嫌な汗が、だらりと背筋を降りていく。それは紛れもない、緊張が生んだ冷えた水。
それはそこに居るだけで、私の全身をプレッシャーで震わせてみせたのだ。間違いない、これは───ただ者などでは、ない。
「───っ、ふふふふ」
笑った。ソレは、笑っていた。
悪意の色に染まった、子どものような無邪気さで……小さくほくそ笑んでいた。
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