第6話 束縛

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第6話 束縛

夜、私はうだる暑さに耐え切れず、結局布団から起き上がってしまった。 令和という時代になったからといって、この家はやはり古風を重んじているとつくづく思わされる。襖は開放され、寝床からでも庭の景色が眺められるのだから、無理もない。 しかしこう開放的であっても、夏の気温には負ける。私は部屋を出て居間に向かい、冷蔵庫から麦茶を取り出してコップに注いだ。 それを思いっきり飲み干す。 「……ふぅ、冷える」 落ち着いたところで、ようやく私は自分が睡魔を完全に払ってしまったことに気がつく。少し暑さから逃れるつもりが、とんだ誤算に繋がってしまった。 「……ちょっと抜け出して、外の空気でも吸ってこようかな」 寝巻きのまま、でも構わないだろう。といっても、傍から見たら私服とそう違いはない。 私はこのまま玄関を目指し、そこからサンダルを履いて戸を開いた。 皆を起こさないように静かに開けることに成功し、同じように後ろ手で閉めてから、石畳を踏み抜いて家から離れる。 昼の蝉達の合唱とは異なって、スズムシやコオロギの音楽会が開かれた。耳を澄ませば、彼らの奏でる音色が鮮明に届いてくる。 その綺麗な旋律を真横に歩いていると、私はその不自然に気がついた。 ───遠くの道路、その向こう側に、小さな紅い光が見える。 ………あれは、なんだろうか。 それは一瞬、線香花火の落とす輝きかと思った。しかしそれにしては時間帯に違和感を覚えるし、なにより静かすぎる。 だからその正体がわからない。しかしそれに興味を持った私は、なんとなくその光の元まで歩いていった。 道路を渡り、その目的地に辿り着く。紅の光はゆらゆらとその場に浮いて揺れており、私はますますその存在に疑問符を抱いた。……そうして意を決して、私はそれに触れようと───、 「───っ!?」 が、その瞬間、光は突如その身を翻して、私から少しだけ距離を置いた。その動きに驚き、私も少しだけ身を引いてしまう。そして、 「───こんばんは、人の子。今夜は月が艶めいて見える、いい夜ね」 その言葉は一体、どこから、誰が発したものなのか、私には理解できなかった。が、やがて気づく。その声はということに。 「なっ……誰?」 「ふふふふ……イイカンジに驚いてるわねぇ。そんな美味しいリアクションしてくれると、私も嬉しいわ」 そうして光は拡大する。しかし単に大きくなるだけではなかった。……それは人の形を模して、間違いなくそれになろうとしていたのだ。 その直後、模倣された光はそれを払うかのように光沢を掻き消し、ついに姿を見せるのだった。 「私はパラノイア。ただのパラノイアよ、よろしくね」 そう名乗ったのは、背丈の低い童顔の少女であった。その体躯はフルールと大差はなく、同年齢にさえ思える。 白になびく長い髪はストレートに下ろされ、服装といえば着物を身にまとっていた。それはさながら、戦国の世を生きる少女か、はたまた大正を支配する令嬢のようであった。 どちらにせよ、この現代日本では場違いなものだったことには、変わりはないのだが。 「あなたのこと、私は知ってるわ。風町花音、歳は17で、今は祖父母の家に帰省中……でしょう?」 「……あなたは、なんなの?人間じゃ、ない……?」 その問いにパラノイアと名乗る少女は不敵な笑みを浮かべ、やがて一つの返事をよこす。 「人間か否かを問われたなら、私は人に非ずと答えるわ。……ふふふ、びっくりした?しない方が可笑しいわよねぇ。なんせそんなこと、いつだってフィクションの世界のお話なんだから」 「……」 突如現れた人外を主張する存在に、私は口を閉ざしてしまう。しかし……なんだろう、これは。この雰囲気はまるで、 まるで、フルールのような───。 「……それで?あなたは私に用があるんでしょ?だから光になって、私をここまで招いた」 「ふふっ、ご名答。鋭い子は嫌いじゃないわ。これなら私もスムーズに話ができるわね」 そこで彼女は着物を翻し、夜風を受け流して優雅に笑った───否、嗤った。 獣のように、残忍に……冷淡に。 「───風町文雄を引き剥がそうとするのは、よしておきなさい」 「……えっ?」 「それが私の、あなたへ告げる忠告……いえ、警告よ。これ以上の余計な真似はやめておきなさい。それだけよ」 「ちょっと待って。なにそれ……文雄をこの街から離れさせると、なんなの?何か悪いことでも───、」 『───隕石の降る夢』 「……!」 そこで私は思い出す。彼が口にした、夢の内容を。彼は自分がこの街から去ることで、隕石が真昼の青空から降り注ぐものだと考えているのだ。ありえない話ではある。が、それだけで切り捨て、片付けられるほどの単純なものでもないのだろう。 それは、彼のあの深刻な表情が物語っていた。 「そうよ、あなたの想像通り。文雄はこの場所を離れることで、街を崩壊に導く」 「……」 「───と、そんな風に文雄は考えているけれど、わ」 「……えっ?」 突然のひっくり返すような彼女の言葉に、私は戸惑う。意味がわからなかった。それは声にも、顔にも露骨に出てしまっていたのだろう。彼女は私のそんな様子にからからと笑うと、その説明を施し始める。 「それ、全部私のなのよね。」 「どういう、こと……?あなたは、一体何がしたいの?」 「くすっ、何がしたいって……そんなの、一つだけに決まってるじゃない」 そうして彼女は漆黒をペイントした空を仰ぎ、着物を風に泳がせて口元を引き裂く。 悪魔の嗤い。私には、少なくともそう見えた。こんな暗がりの中でも、はっきりとわかるのだ。 「───私は、風町文雄が好きなの。好きで好きで、たまらなく愛してるのよ!心臓が痛いほどに、胸が張り裂けそうなほどに、頭がおかしくなるほどに、体の全部が震えるほどに……好きなのッ!」 「───っ、」 それはステージに立つ演者のごとく、魅せるもの。私は一気にその一挙手一投足に飲み込まれ、彼女の言葉の羅列に潰された。 「好き、好き、好き、好き、好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好きッ!っふふふ、くふふふ、あははは!……だぁーかぁーらぁー、」 そうしてパラノイアは一歩、また一歩と踏み込んでくる。その揺れた視界は定まらない。その度に、彼女という明らかな脅威は近づいてくるというのに。そして、 「あんまり邪魔してんじゃねぇよ、人間風情」 「───ぅ、ぐ!」 髪を容赦なく掴まれる。そしてその手はありえない力を帯びて、地面の方向へと押し込められた。 「ずっと見てたのよ、あんたのこと。今日の昼時、山の頂上でのやり取りをね。黙って聞いてれば、妹が寂しがってるだのなんだのとか、色々と都合の良い口実作りやがって。……もしもそれで文雄が心変わりなんかしたら、どうするつもりだったわけ?あ?」 「ぐ……っ、」 「でもね、そんな心配も多分いらないのよ。だって私の呪いは厳重に厳重を積み重ねた、文字通りの怨念なんだから。あんた如きのウジがどれだけ努力しようとも掴めない、掴めるわけもないんだから」 「……ふみ、おは、」 「なあに?」 渾身の力でねじ伏せられる。頭蓋骨がキンキンと音を立てて、揺らぐ。それでも、それでも私は、諦めなかった。……目の前の存在がどれほど屈強だろうと、悪魔だろうと、 私にだって、守るものがあるんだ。 「文雄は……絶対に……あなたなんかには、負けない───ッ!」 「───っ、はぁ?あんた、何言ってんの?そんなのどうしてわかるの?家族だから?家族だから、血が繋がってるから理解できるとか抜かすつもりィ?くすっ……くすくすくす!あはははは!バッカみたい。小学生の頃からとっくに、あんたら家族のほっそぉい絆は終わってんのよッ!」 ギギギ……と、握力は上がる。しかしそれでも、私は絶対にこの口を閉ざすことはなかった。 だって、だって文雄は、昔から、どんなときだって───家族を大切にする人間だったんだから。 こんな悪魔なんかには、負けてなんかやれないほどに、強い人間なんだから……! 「文雄は帰る……!いつかきっと、わかって、くれるもの!」 その言葉が矢印となり、弓矢となり、一直線にどこかから飛んできた……そんな感覚が、私の脳髄にやってくる。 そしてそれが実現したかのように、突如としてそれは起きた。 「───千本乱舞(せんぼんらんぶ)一珠(ひとだま)」 その詠唱が天を切り裂き、空気を歪ませ、迸って訪れる。 青白く満ちたその球のような形を模した火の玉は、私の正面、パラノイアの頭蓋骨を目掛けて貫通した。それは紛れもなく、一瞬のできごと。 「ぐぅぁ……!?ぁぁぁぁあッ!?」 穿たれたパラノイアは、そのままふらつき、眼球を血走らせる。そうして苦しみ、藻掻き、足掻き、その直後に蹲って頭を抱え出す。 「ぐぅぁぁあ!いってぇぇえ!これは……あいつ!あいつだ!あのクソガキがぁぁぁ!ぅ!」 「フルール……?」 するとその返事にするかのように、暗がりの向こうから彼女が、フルールがやってきた。 「───醜いわよ、パラノイア。だから人間には固執しすぎるなと、あれほど言ったのに」 「黙れ!黙れだまれダマレェ!クソガキが……私の恋路を邪魔するなァ!風町文雄は特別なんだよ!私は彼に惹かれてるんだ!邪魔するな、するなするな!するなァ!」 「醜いわね……。それじゃあ、本当にじゃないの」 「ふくくくく……クククク!こんな、ところ、で、死ぬ、わけ、ニハ……イカナイ、ノニィィ!クッソォォォォォォ、フルール、フルールゥゥゥ!!」 やがてパラノイアの体に異変が起きる。彼女を取り込む着物が青白い炎に燃え、爆ぜながら火花を舞わせたのだ。それは幻想的、そして、なによりも背徳的な光景であった。 「ァァァァァ……カゼマチ、フミ、ォ、ォ、ォォォォォォォ……!ワタシノモノ、ワタ───、ァ」 そうして怨嗟の声を閉ざすように、彼女の姿は灰になって、掻き消えた。何もなかったように、まるで最初から、存在しなかったかのように───。 それで終わりだった。
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