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「風が冷たくなってきたな。すべき話も終わったことだし、そろそろ戻るか」
「はい」
浴衣の裾を直し、立ち上がる。菖蒲は冷たいと言ったが、雛には心地よい風だった。夜風に煽られ、勢いのままに彼の手を掴む。
「あの……」
「雛?」
「今夜は、菖蒲さんのお部屋で寝てもいいですか?」
昔こそ常に添い寝が当たり前だったが、今はさすがにそのようなことはない。翌日に仕事の入っていない日は菖蒲の部屋で眠るが、それ以外の日や彼が不在の日は自室で寝起きしている。
「まだ、一緒にいたい、です」
「ただ添い寝してやるというわけにはいかないが、平気か?」
夜に恋人の部屋に行くということがどういうことなのか、雛とて理解している。明日の仕事を思えば、控えるべきだということも。しかし今の一連の話を聞いた後では、離れがたいのも事実だった。
「はい」
「加減はする。必要以上に煽るなよ」
「えっと……はい」
あまりよく分からないまま頷くと、菖蒲が笑った。この笑顔のためなら、何だってできる。そう思えることが嬉しかった。
暗闇の中ひとり取り残されていた頃の自分に、数年後に待っているこの未来のことを教えてあげたかった。想い想われ、自分以外の誰かのために生きられる日々がいつか訪れることを。
自分の奥底に確かにいるはずの、小さな子どもに向けて、愛しているよ、と雛は心の中で呟いた。
(了)
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