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鷹と雛(五)[現在]
声が、聞こえる。身体に触れる、手の感触も。ただ、何もかもが、膜一枚隔てた先で起きているかのようにぼんやりとしている。大人しい人形であることが、唯一少年に求められていることだった。
──ちゃん。
呼ばれた名前に、違和感を覚える。わたしの名前は──だっただろうか。この声ではなく、もっと低くて、優しい声が。
──雛、ここに来る以前のことは忘れろ。
──もうおまえは、うちの鳥だ。
雛。わたしの、新しい名前。
「……な……雛」
目を開けると、菖蒲の姿があった。雛は瞼を擦りながら身を起こす。
「……しょうぶ、さん?」
「悪い夢でも見たか?」
「夢……」
「少し様子を見に来たら、何やら夢見が悪そうだったのでな。悪いが、起こした」
本当に、夢だったのだろうかと雛は考えた。むしろ、今こうして温かい布団の中にいることの方が夢なのではないかと。
「これ、は、夢じゃない……? しょうぶさんは、本当にいる?」
「まだ半分寝ているようだな」
くすっと菖蒲が笑った。
「何も考えなくていいと言っただろうが。いいから、大人しく寝ろ」
「でも、もう、こんないい夢見られないかもしれない……」
次に目を開けたら、またお母さんに怒られているかもしれない。あるいは、知らないひとに身体を触られているかもしれない。どちらも、今までは普通のことだったのに。もう一度あの暮らしに戻ることを思うと、今はなぜか、とても苦しい。
「夢なら夢でいい。儂がずっと同じ夢を見せてやる」
雛が寝つくまで、大きな手が頭を撫でてくれていた。側に誰かの存在を感じながら眠りに就くのは、初めてのことだった。
穏やかに寝入ったのを確認し、菖蒲は雛の頭から手を離した。ひなちゃん大丈夫かしら、ちゃんと眠れているかしらと小鳥たちが騒ぐので様子を見に来てみれば。案の定うなされていたので、名を呼んで起こした。
──あやかし? は、別に怖くないの……
「怖いのは、人、か」
あやかしよりも人の方が陰湿で残酷な例など、多々ある。雛もそれを知っているのだろう。
雛の髪を掬い上げ、口付ける。
「ちょうど退屈していたところだ。長くともせいぜい百年足らず」
「……ぶ、さん……」
夢の中で菖蒲を呼ぶ声に、頬を撫でて応える。
「──死ぬまで付き合ってやるとしよう」
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