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菖蒲は、月に一度は山を下りることにしている。人は弱く、脆いが、人が作ったものというのはなかなかどうしておもしろい。人の姿に変化し、人の中に溶け込んでみるのも、娯楽としては悪くない。
ゆえに、人の世の理についてもある程度は理解しているのだが、あくまで「ある程度」でしかない。数時間人のふりをするには十分、という程度だ。
いくらあやかしを見る目を持っていようとも、雛は人だ。どうしたところで、あやかしにはなれない。であるならば、たとえあやかしの世にいようとも、雛が人として生きていく上で必要なことは学ばせた方がいいのではないか。そう菖蒲は考えた。
「──で、俺ですか」
「ああ」
「こういうの何て言うか知ってます? 『むちゃぶり』ですよ」
やれやれ、と茅萱が眉をしかめた。彼は雷獣の先祖返りで、雷を操る力を有している。その隣には蛇の子である柊がいて、真剣な顔で書物と向き合っていた。
「菖蒲様が俺に話があるだなんて、何事かと思えば……。家庭教師のご依頼ですか」
「ここのところはあやかしにまつわる揉めごとも起きておらず、暇だろう。なに、適当にやってくれればよい」
「空いた時間は柊と過ごすことに使いたいのですが」
菖蒲に対してここまではっきり物が言える相手は少ない。だから菖蒲は、茅萱のことをそれなりに気に入っている。
「柊を学校とやらに通わせるために、事前に学ばせたことがあるだろう。それを雛にも教えてやってほしいというだけのことだ」
「……柊は、『あの』槐の子ですよ。大抵のことは一度で覚えます。その子、雛ちゃんといいましたか。柊のようには、行かないと思います」
「別に急いではいないのでな。気長にやってくれ」
「あーもう、話通じない……!」
茅萱が頭を抱えたとき、ぱたん、と本を閉じる音がした。
「要するに、人としての一般常識や生活習慣、義務教育程度の学力が身に付けばよいのだろう? 私でよければ手伝うが」
「柊?」
「私も学んでいる途中だが、それでもよければ」
柊の方からそのような提案をしてくるとは意外だった。茅萱は嫌がっていたが、人の好い性格だということは知っている。押せばいずれ引き受けるだろうと思っていた。
「よい」
あやかしの世で生きるにしても、人の世で生きるにしても、人には人の生き方がある。雛にあやかしの真似事をさせるつもりはない。人として当然知っておくべきことが頭に入っていれば、将来的に人の世に返すことも可能だ。まあ今のところ、その予定はないのだが。
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