*****(伏せ字)

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*****(伏せ字)

何からお話しいたしましょうか。 そうですね……わたしが思うに。 新谷鏡子という人間が、はじめて「性」を意識したのは6歳になった日のことでした。 場所は澄みわたる湖のほとり、初夏の菅沼キャンプ場。鏡子の誕生祝いに合わせ、家族ぐるみで仲の良かったわたしの一家と過ごした休暇ーー事件はその中で起こりました。 もう15年も前の話をなぜ今になって蒸し返すのか。刑事さんには不思議でしょうが、これからお伝えする内容は、成人になった鏡子を取り巻くいびつな人物関係と、悲惨な殺人事件に繋がるすべての事の発端であり、象徴的な出来事であったと、わたしには思えてなりません。 わたしと鏡子は親友で、当時からどんなところへ行くにもふたりして連れ立っていました。 あの光景を目撃したのも、鏡子に「遊びに行こう」と言われ、両親たちのいるコテージから少し離れた林の中へ、ふたりで入ってみたためでした。 新緑の木々の小道を歩き、ほどなくわたしたちは「わあわあ」と、子どもの騒ぐ声を聞きました。 木々の切れ間を覗いてみれば、他のキャンプ客の子でしょうか、やんちゃな男の子たちが数人、一本の樹の高い枝めがけ、手に手に小石を放っています。 つぶての飛び交う頭上を見上げ、彼らの狙いがわかった時に、わたしははっと息を飲みました。 地上から数メートルの高さ、節くれ立った枝の先には、目もさえるように白く大きな一匹の「蛾」がとまっていました。 小さな子どもの目で見たせいと、記憶の中の補正もあって、その蛾の大きさといえばまるで、「広げた大人の手のひら」か、それ以上かと思います。 けれどその蛾はまれに見るほど、うつくしい姿をしていました。 ぴたと閉じられた四枚羽根は、白い薄紙に一滴「翡翠」の顔料をにじませたかのようで、そこに菜の花のような模様とうすべに色の縁があります。ふさふさとした毛に覆われた小さな頭部も胴体も、葉脈のような形状をした、二本の独特な触角さえ、綿毛細工のようなふしぎなかわいらしさを感じました。 枝にとまったほの白い蛾は、下界の騒ぎに悠然として(あるいは怯えて動けないのか)、飛び去る気配はありませんでした。 うつくしい蛾のそんな態度と、簡単に当たりそうで当たらない石当てゲームの競争性に、少年たちはすっかり心を奪われ夢中になっていました。 もちろん蛾に罪などありません。これは理由なき「いじめ」なのです。 幼いわたしは慄然として、同時に怒りを覚えましたが、体の大きな男の子たちを止める勇気はありませんでした。 鏡子も同じだったのでしょう。 こぶしをきゅっと握りしめ、かといって立ち去ることもできず、今に訪れるその顛末を、固唾を吞んで見つめていました。 そうするうちに、ついにひとつの小さな石が、蛾の羽根先に命中しました。 やぶれた羽根の白いひとひらが、はらはら宙を舞って落ちます。 少年たちはどよめきだって、それから先は誰もがコツを掴んだかのように、いくつも当てるようになりました。 白い蛾はその身を裂かれながらも懸命に枝にしがみつき、落とされまいと耐えていましたがーーやがてその体に新らしい、奇妙な変化が見えだしました。 石が直撃する度に、閉じられていた羽根が開いて、葉巻のような胴体の先ーー「交尾器」がむくむく膨れあがり、硬く起立してきたのです。 (なにかが始まろうとしている) 期待に胸を膨らませ、中でも一番年長と見える少年の投げた鋭い石が、蛾の腹部をずぶりと刺した時。 蛾の交尾器がついにはじけて、中身が溢れ出しました。 それは卵と呼ぶに未熟な、未受精卵の素でした。あの柔らかな胴体の中に縄目のように張り巡らされた「卵管」の道を通り抜け、どろどろと滴り落ちるそれは、花びらの中に指を差しいれ、付着する黄色い粉のように、微かな命の集合でした。 白い蛾は、膨れた腹がぺしゃんこになるほど大量に排卵し終えた後ーービクビクと、ビクビクと、しぼんだ体を痙攣させて、枝から地面に落ちました。 まさに「絶命」と形容すべき、悲惨な最期と言えるでしょう。 少年たちは歓喜に加え、はげしい嫌悪感から悲鳴に近い叫びをあげて、動かなくなった蛾の亡骸を、何度も靴で踏み付けました。 (もうやめて……もうやめて……!) 隣でかすかな声が聞こえて、わたしがはっと目をやると、鏡子はその場に倒れ込み、ハッハと短い息をしながらぶるぶると震えていました。 それは多感な少女の心があまりの残酷さに耐えかねて、扉を閉ざした瞬間でした。 (何か大変な事が起きた……鏡子が死んじゃうかもしれない……!) わたしが受けた衝撃は、まるで世界の明暗が突如あべこべになってしまったようで、明るいはずの青空が急に黒雲のように転じました。 半狂乱で助けを求め、駆けつけた大人たちに抱かれて運ばれていく鏡子の頬は、のぼせ上がったように赤らみ、いかにも苦しそうでした。 病院で下された診断は、精神的なショックに伴う一時的な心神喪失。 ……つまりは後の人生に、大きな傷は残さないだろうとお医者さんは言われたそうです。 事実、家に戻ってきてから鏡子と何度も話しましたが、変わりはとくにありませんでした。 ですがそれからしばらく経って、わたしと鏡子が何かの拍子に図書館に行った時のことです。 鏡子はそれまで興味もなかったはずの昆虫図鑑をめくり、例の白い蛾の正体と、その生態をつきとめました。 「オナガオオミズアオ」の成虫は、成虫になると口が退化して、物を食べたり飲んだりすることができなくなってしまう。約二週間で儚い命を終えてしまうのだということです。 「かわいそうだね」 わたしが言うと、鏡子はしばし黙りこみ……ふしぎなことを口走りました。 「でも、気持ちよさそうだった」 ーーすごく、気持ちよさそうだった。 まるで熱に憑かれたように、繰り返し、言うのです。 その時浮かべていた表情の、まことに奇妙だったこと。 うす笑い、というのでしょうか。 いったい何を言っているのか、わたしには理解しかねましたが、その時彼女がなんとなく、子どもがまだ踏み込んではいけない世界の話していることを、本能で感じ取っていました。 *
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