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ほどなくして。
ある夜、鏡子はわたしの下宿に取り乱しながら逃げ込みました。
玄関口の灯りの下で、手にしたハンカチを真っ赤に染めた彼女はぶるぶると震えながら、
「先生に、やられたの……」
歯の根も合わぬほど怯えた顔でわたしの胸に飛びつきました。
「あなたを殺してわたしも死ぬ」と、刃物で斬りつけられたのです。
その傷口を見るにつけ、それは単なる脅しではなく、黒部先生の本気でした。
先生にはもう、失うものなど何ひとつ残っていないのです。今後も裏返った愛情で、鏡子のことを付け狙い、命を奪いに来ることでしょう。
(……させるもんか、そんなこと)
腹の底から湧き上がってくる激しい怒りと反対に。わたしの思考は冷静でした。
(黒部先生を消さなければ、この事態は収拾がつかない)
けれど先生は人間なので、あの「蛾」のようにそう易々と、自然に死ぬものではありません。
(鏡子ひとりの力では、始末をつけることができない)
ーーだとすれば、どうすればいい?
(愛する鏡子を守るため、わたしにできることはなんだろう?)
わたしの中でひとつの想いが徐々に固まりつつあることに、鏡子は気づいていたのでしょう。
……だから、ああして躊躇いもなく、わたしに懇願したのです。
「ねぇ、佳子、おねがいね」
わたしの大好きな眉をゆがめ、甘えるようなその表情は、いつもの鏡子そのものでした。
好き放題に振る舞った結果、周囲の人間関係が、彼女の望まぬ方にこじれて、どうにもならなくなった時ーーそっとわたしを呼び寄せて、いつもささやいてきたあの言葉。
「ねぇ、佳子、おねがいね。わたし、あなたにしか頼めない……」
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