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鏡子の知られざる性癖が、その片鱗を覗かせたのは、小学四年生の頃でした。
その頃になるとわたしたちは、親の薦めで週に2回、バレエ教室に通っており、学校帰りに駅前のビルに送り迎えをされていました。
バレエのレオタードを着た鏡子は妖精のような可憐さで、実際、体験入学の折に彼女の姿を見た親と子が、こぞってここに決めた話を後になってから聞きました。
(対するわたしはまるで似合わず、なにをやってもどうあがいても、忘年会の余興のような失笑ものの出来でした)
バレエ教室の黒部先生は、かつてドイツの某バレエ団でプリマドンナを務めたという、四十がらみの女性でした。
ちなみに未婚ようでしたが、くわしい事情は知りません。バターのように濃い白塗りに、深い紫色の口紅。華やかなものを好む反面、自身は第一線を退いた者の慎みという意味なのか、黒の衣装をよく着ていました。
にこやかな初回レッスンを経て、本入学を決めたわたしに待ち受けていた最初の試練は、身も凍るほどに恐ろしい、黒部先生の変貌でした。
高いお月謝の教室で、先生はその神経質な激しい気性を隠すことなく、指導のためなら時に平手の打擲さえも行いました。
厳格なバレエ指導者として、理想の高い方だからこそ、どんな生徒にも平等に、妥協はできなかったのでしょう。
ーー恐ろしい、「魔女」先生。
そんな黒部先生が、唯一「例外」として認めた相手が他ならぬ鏡子でした。
バレエに限らず美を求め、芸術に身を置く者であれば、その審美眼は常人以上に鋭くあって当然です。
黒部先生はひと目みて、鏡子の容姿に惚れ込みました。
持って生まれたうつくしい顔、すらりとしなやかな身体は、すなわち神と自然の産んだ、類い希なる才能です。
教育的な場を名乗ろうと、いかに平等を掲げようとも、所詮は当人の持つ「素質」が物を言う芸術の世界。そこには峻厳にして残酷な「えこひいき」の摂理がありました。
「この子を預けていただけるなら、一流のプロにしてみせます」
鏡子の母に熱心に語る魔女先生の横顔には、商業的な打算の陰りはまるで見受けられませんでした。
すでに諦めかけて久しい有象無象のくず石の中に、不意に見つけた金剛石。
(賭けてみたい、磨いてみたい……)
わずか10歳の少女の顔に、あるいはかつての自分以上の可能性を夢見たのでしょうか。
蓋を開ければ案の上、鏡子にだけは、怒鳴らずに、鏡子にだけは、手を上げず。けれど鏡子にだけ与えられた厳しい「特別レッスン」は、愛情の顕れでした。
鏡張りの教室の端、冷たい板張りの床の上で、わたしを含めた他の生徒が準備運動にいそしむ横で、先生はなんの言い訳もせず、鏡子の指導に当たりました。
アイン・ツヴァイ・ドライ。
アイン・ツヴァイ・ドライ。
魔女先生のマニキュアの手が、鏡子の細い脚を抱きかかえ、ぎしぎしとしなるほどに大きく高くねじり上げる時。無言のままに痛みに耐えて、涙を浮かべる鏡子の顔は、わたしの胸を打ちました。
わたしが思うにバレエとは、人間の身で飛天のごとく、重力に逆らう舞踊でありーー跳躍し、抱えられ、あるいはつま先立ちになりーーいかに自身の頭部を穢れた地上から高く遠ざけるかを、練習しているようでした。
つま先立ちは、痛いものです。
細く固めたトゥシューズでも、慣れないうちは顔が引き攣り、長く続けていると痺れた指先に血が滲むようです。
ようやく小休止を迎え、シューズを脱いだ鏡子のタイツは汗でびっしょり湿っています。
額にはりついた髪を払い、恥ずかしそうに微笑む彼女の顔と肢体から匂い立つのは、同性の目にも隠しきれない、気だるいような色香でした。
常に鏡子を独占し、誰よりも至近距離から見ていた黒部先生の胸中で、鏡子に対する妖しい気持ちが芽生えていたのはいつ頃からか、それは定かではありません。
わたしがそれを知ったのは、入学一年後の秋でした。
一週間後に市の開催する発表会を控えたある日。レッスン後、忘れ物を取りにきた拍子に、わたしは覗いてしまったのです。
わたしたちのバレエ教室には、普段レッスンを行っている鏡張りの部屋に接して、手狭な「控え室」がありました。
原則生徒は立ち入り禁止。白地に穴のたくさん空いた、吸音材のドアの向こうを垣間見たのは数えるほどで、窓には厚いカーテンが閉まり、機材や貸衣装のひしめく暗がりにひっそり浮かぶように、エドガー・ドガの踊り子の絵の複製画が飾られていました。
親を待たせていることもあり、その日、急いでバレエ教室に戻ったわたしは困惑しました。下足場に鏡子の靴を見つけてふしぎに感じたのも束の間、部屋の照明は点いているのに、先生の姿が見えません。
焦って周りを見まわして、その時、不意に目についたのが、例の「控え室」のドアでした。わずかに開いたドアの向こうに人の気配を感じたわたしは、引き寄せられるように近づき、細い隙間に目を当てました。
部屋には裸電球が灯り、そのほの暗い明かりの下に、黒部先生と鏡子がいました。
(ふたりはなにをしているのだろう?)
幼いわたしの目線には、それは不思議な光景でした。
黒部先生の服の袖が、鏡子のレオタードを包み込み、彼女の天使のように小作りな肩胛骨が覆われています。
ああ、なんということでしょう。
わたしが見つめるその先で、二人はしかと抱きあって、熱い接吻をしていました。
……わたしが知っている限り、新谷鏡子の性癖の中に同性愛の気はありませんが、その狂おしい吸引力を彼女に自覚させたのは、黒部先生の偏愛でした。
長い接吻を終えた後、先生は静かに語りました。
「だいじょうぶ、あなたならできる。あなたが好きよ。愛してる……」
しっとりと闇に響く言葉は、教師が生徒に向けるものとも、母が娘に向けるものとも明らかに異質で異様でした。
(見てしまった……知ってしまった……)
ひたひたその場所から後ずさり、逃げ去るように教室を出た、わたしの胸は裂けそうでした。
見てはいけないものを見た。鏡子を奪われるという恐怖。
……それ以上に、後から後から抑えがたく、熱い波のように込み上げてくる(くやしい、ずるい)という感情。
あの時わたしは何を思って、そんな気持ちになったのでしょう。
わたしの嫉妬の対象は、鏡子であり、先生でした。
鏡子が魔女先生に愛され、特別扱いされていることは以前から把握していましたが、わたしに隠れてあんなことまでしているとは思いませんでした。
彼女の薄い唇に、紫色の口紅の跡をくっきり残した先生も、許しがたい大罪人でした。
逃げ出して、駆け下りて。非常階段の踊り場に立ち、コンクリートの冷たい壁に、ピタリと背中を這わせた時。
わたしは初めて悟ったのです。
6歳の頃、あの初夏の日に、死にゆく白い蛾を見つめていた、鏡子の胸を襲った気持ち。
あの燃えるような感情について、その時やっとわかったのでした。
(その翌日、わたしは初潮を迎えました)
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