*****(伏せ字)

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余談が長くなりましたね。 鏡子が歩に興味を示し、その存在を許容したのも、ただの気まぐれと言うよりは、心の闇のせいでした。 わたしはそれを知っていたので、歩がいかに男子であろうと何の不安も抱くことなく、平静に構えていられました。 先の話で喩えれば、鏡子はきれいなバレリーナ、歩はすずの兵隊です。時待たずして彼に訪れる悲劇的な結末については、すでに予見しておりました。 そんなことなど露とも知らず。 歩は舞い上がりました。 つらく苦しいバレエの時間に一抹の救いが生まれたこと。それはまるで、どことも知れぬ暗闇の道に人家の灯りを見つけたように、彼の表情を明るくしました。 歩はまだ少年でしたので、大人の男が次に求める性的な衝動についても、純朴な無知を保ちました。 黒部先生の影響か、その頃すでに鏡子の色香は少女の域を超えており、授業参観に訪れた大人たちの視線を集めていました。 体の線の出たレオタード、大きく開脚した脚の、チュチュのベールに覆い隠された秘部へと注がれる欲望の目。いやらしく、汚らわしい。わたしはそれに気づくたび、身悶えするような気分でした。 「歩はさ、どうして鏡子のことが好きなの?」 ある時、教室の隅で二人になれた機会を利用して、わたしは試しに訊いてみました。 歩は辺りをうかがってから、レッスン中の鏡子を見やり、はにかみながら答えました。 「鏡子ちゃんって、やさしいんだ」 大っぴらには言えない気持ち。彼はわたしの口から鏡子に伝わることを期待して、打ち明けたのかもしれません。 「あのね、ずっと前なんだけど。ぼくが先生に叱られて、外に立たされてる時に……」 歩の言う「立たされる」とは、黒部先生の罰のことです。 先生は人の心の甘さを何より嫌っておりましたので、練習中の痛みに負けて、手を抜いた演技をした生徒や、気の緩みから忘れ物などした生徒には容赦なく、「出ていきなさい」と言いつけました。 「レッスンが終わるまでずっと、入口の外に立ってなさい!」 磨りガラス戸がぴしゃりと閉まり、室内の声が遠のく時の、あの疎外感と心細さは経験しなければわかりません。時折トイレ休憩に抜ける生徒が横を通っても、彼女たちは先生を怖れて、罪人と目を合わせません。 この罰は「見せしめ」という意味でも非常に効果的でしたし、愚鈍な歩は往々にして、その格好の的となりました。 鏡子が歩み寄ってきたのは、まさにそうした時でした。 「鏡子ちゃん、すれ違う時に、ぼくに『いちごみるく』くれたの……」 そう言って、歩が財布の内ポケットから大切そうに取り出したのは、白地に「いちご」の絵柄の描かれた小さな飴の包み紙でした。 (バレエ教室は飲食厳禁、飴玉ひとつ持ち込むことを固く禁じられていましたが、鏡子だけは例外的に、ルールの外にいたのでしょう) まさか鏡子がそんな形で、そんな親切をしていたなんて、わたしは大いに驚きましたがーーなるほど、納得はいきました。 たった一粒の飴玉が、彼の心を捉えたのです。カルメン・シータの放った薔薇が、ドン・ホセの胸に刺さったように。 (これはオペラの話です。メリメの原作での花は、ただの黄色い花でした) その情景を思い出し、顔をほころばせる歩は、よほど嬉しかったのでしょう。その一件があったからこそ、涙ながらのあの懇願に踏み出したのかと思われました。 「鏡子ちゃん、おねがい、ぼくと……」 ーーぼくと、『おともだち』になって。 ですが、ここで言う「ともだち」とは、蓋を開ければ歩が毎晩夢見ていたほど甘いものでも、やさしいものでもありませんでした。 表向きは友人であっても、そこには「好かれる者」と「好く者」の絶対的な力関係が常につきまとっていましたし、鏡子がひと言「嫌だ」と言えば、氷のように崩れ去るのは傍から見ても明らかでした。 歩は必死に媚びました。どんな我慢を強いられようと、その悪夢だけは避けたくて。鏡子に何かを頼まれたなら、跳び上がって喜びました。 そうして自分でも知らぬうちに、鏡子の「奴隷」となったのです。 奴隷というのは悲しいもので、どれだけ主人に尽くしたところでご褒美などは望めません。 あるのは甘美な自己補完。ご主人さまが自分のことを、愛してくれていると思うこと。 「鏡子ちゃん……鏡子ちゃん……」 わずか10歳の若さにして、女の魔性に憑かれてしまった少年はいつもうろたえながら、砂漠で水を求めるように、乾ききった喉にわずかな愛情の雫を求めました。 対する鏡子は自分自身の手を汚すことを嫌う反面、残酷なことを好んで行う小さな女王さまでしたから、平気で酷い命令もしました。 レッスンが始まるまでの時間、ビルの壁や廊下にとまっている蛾などを目ざとく見つけては、 「歩、あの蛾を捕まえてみて」 無邪気な風にそう言いますが、鏡子とて、別にその蛾が心の底から欲しいわけではありません。 気の向くままにいたぶって、飽きれば捨ててしまいます。 「すぐに殺しちゃだめだから」 嫌がる歩に命令し、例えば羽根の一枚一枚、複眼のひとつひとつを鋭利な針の先で潰させたりします。 「かわいそうだよ……」 歩が言うと、 「じゃあ、やめる?」 そう脅します。 歩の運動靴に踏まれた蛾の胴体はびしゃりとつぶれ、黄緑色の体液は、コンクリートに染みつきました。 鏡子はそれをしかと見つめ、そうして何かを思いだそうと、蛾眉の眉をひそめていましたがーーかつて震えた「あの昂奮」が、戻ってこないものとわかると、興味をなくしたようでした。 鏡子は悟ったのでしょう。 (蛾ほどに小さな命では、もはや満足しきれない) その後、必然的な流れで、彼女の有り余る嗜虐心は、歩の方に向いていきました。 鏡子のやり口は陰湿で、物的証拠の残らぬように、歩の体をぶったり蹴ったり直接的に傷つけるよりも、彼の心の弱い部分ーー黒部先生に対する「恐怖」を手のひらで弄びました。 レッスン中に気を引いて、彼の失敗を誘ったり、機嫌のわるい魔女先生に、あらぬことを告げ口したり。 彼女の変化に混乱し、歩が苦しめば苦しむほど、鏡子は楽しいようでした。 (やさしいはずの鏡子がなぜ……) 理想と現実の差に戸惑い、不信感を募らせていく歩の姿は滑稽でしたが、彼も次第に学びだし、鏡子の底知れぬ黒い悪意に徐々に気づいていきました。 そうした頃合いを見たのでしょう。鏡子はある凍える冬の日に、最後の命令を下しました。 「先生の前で『おもらし』してよ」 耳を疑うその命令に、歩はさすがに戸惑いました。 昆虫のように小さな黒目をわたしの方にきょろきょろ向けて、助けを求めているようでしたが、わたしはそれには応じません。 「なによ、歩、できないの?」 鏡子の蛾眉がつり上がっても、歩は躊躇していましたが、 「しないと『絶交』。絶交よ?」 決定的なそのひと言に、ついに屈してしまいました。 歩の起こした騒ぎのために、一時騒然となった教室。激怒した黒部先生は、平手で打つのも嫌とばかりに彼を足蹴に蹴倒しました。 タイツの前をみじめに汚し、萎縮しきった少年は、どうしていいのかもうわからずに、その教室でたったひとつの救いを求めーー鏡子の元に這い寄りましたが、彼の女神は眉を寄せ、さらりと言い放ちました。 「汚いわ。寄らないで」 衝撃を受ける彼の姿は、今でも忘れられません。 それは魂の殺人でした。 心をずたずたにされた彼の、その後をわたしは知りません。 長く授業を休んだ末に、バレエ教室を辞めてしまったところまでは把握していますが、以降の彼の人生なんて、正直、興味もありません。 そんなことより、刑事さん……今になって思い出しました。 歩を裏切るあの瞬間の、鏡子の姿は素晴らしかった……。 あれは蠱惑なニンフェット……ひとつの完成形でした。 少年を地獄の底に落とし、その昂奮を気取られないよう、わが身を静かに抑える姿。 わたしにはお見通しでした。 (ねえ、なにを思っているの?) もしもその時わたしが彼女にその心境を訊ねたとして、彼女はなんと答えたのか。 聞かずとも理解できていました。 ーーでも、気持ちよさそうでしょう。 ーーすごく、気持ちよさそうでしょう。 歳を経るたび増幅される、際限のないサディズムこそが、鏡子の本質なのでした。 *
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