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中学校に上がる頃。
鏡子とわたしは親の薦めで、地元の公立中学でなく、私立中学の受験に臨み、見事これに合格できました。
キリスト教の「隣人愛」を理念に掲げる女子校で、都内有数の「お嬢さま学校」と聞けばもう、おわかりでしょう。
中高一貫校でしたので、これでしばらく受験勉強の悩みから逃れられたのですがーーなにより素敵だったのは、その独特の制服でした。
清楚なワンピースに身を包み、日ごとに洗練される鏡子は、やはり他人の羨望を受けるために生まれてきたようでした。
(二次性徴期に背ばかり伸びて、顔のにきびに悩まされていたわたしは卑屈になりました)
入学後半年も経ちますと、同級生や上級生、教員や学長に至るまで、学園内は遍く鏡子のとりことなっておりました。
校舎に続くマロニエ並木、その木漏れ日の中をひとり、静々歩く鏡子の姿。
小さな聖書を手に広げ、ミサの祈りを捧げる姿。
ステンドグラスの礼拝堂で、賛美歌を歌う彼女の声の、なんと心洗われたことでしょう。
慈しみ深い 友なるイエスは
憂いも罪をも ぬぐい去られる
悩み苦しみを 隠さず述べて
重荷のすべてを 御手にゆだねよ
清きキリスト教の教えにこうべを垂れて賛同し、その賛美歌を歌う時。
鏡子はどんな心境で、何を思っていたのでしょうか。
あらゆる不道徳を身に隠し、誰より罪深い欲の形を心の内に秘めながら。
まことに矛盾したことに、賛美歌は彼女に似合いました。
わたしも熱心に歌いました。
主よ 御手もて引かせ給え
ただわが主の 道を歩まん
いかに暗く けわしくとも
御胸ならば われ厭わじ
思い返せばあの時期は、身辺に大した事件もなく、従って他の時期と比べてやや印象に欠けはしますがーーあれはわたしの人生のうちで最も平和で幸せな、最後の安らぎだったのでした。
悩みはもちろんありました。変化していく自分の体、未来への漠然とした不安。
けれど自宅では両親の、学校ではキリスト教の愛がわたしをやさしく包み込み、穏やかな午後のまどろみのような平穏に身を委ねられました。
心に余裕のできたわたしは、今でにない新たな気持ちで鏡子のことを見つめていました。
(鏡子は素敵になり過ぎた。もうわたしなどそばにいなくとも、ひとりでやっていけるはず……)
変わるなら、今でした。自我の芽生えの時期でした。
嫌だったバレエ教室を辞め、新たに始めたバレーボール。
体育館にはずむボールと、ジャンプする足の震動音。チームメイトを応援し、馬鹿みたいに声を張り上げる時の、恥じらいを捨てた解放感。
それらは実に新鮮な、今までになかった世界でした。
母校はスポーツ実績もなく、部活もそんなに厳しくない、いわゆる仲良しチームだったので、運良く長身だったわたしはブロッカーに選ばれました。アタッカーやリベロのような、目立った活躍はありませんが、相手チームのスパイクを止めたわたしの元に仲間たちは、わっと駆け寄ってきてくれました。
健全な、仲間たち。鏡子とべったりだった時期には、味わえなかった絆です。
運動に熱を上げたわたしは、自然と鏡子の側から離れ、バス通学や授業の合間にちらりとすれ違う他は、接点を失っていきました。
けれどもわたしの瞳はいつも、気づけば鏡子の姿を求め、そこに彼女がいない事実に、物足りなさを感じていました。心にぽっかり空いた穴から、漏れ出してくる暗い虚無感。
ひとりになった鏡子は凜と、わたしの憧れを纏ったまま、ずっとバレエを続けていました。
そして、これは意外なことに。鏡子の方はわたしのことを、依然変わらず気に掛けて、やはり一番の友人の枠に留めてくれているようでした。
日々は流れ。中学最終学年の、テスト期間に入ったことで、部活が休みになった折。
「ねぇ、いっしょに勉強しよう」
わたしは鏡子に誘われました。そして、鏡子はわたしにだけに、彼女と黒部先生の、「ただならぬ仲」を打ち明けました。
二人は肉体関係にあり、自分は不感症であること。
「感じないの。どれだけされても」
真昼の校舎で話すには、あまりに生々しい内容。ですがそこに深刻さはなくて、あっけらかんとした風でした。ほんの少し目を外した隙に、その処女性を失うことで。彼女はますます計り知れない魅力を手に入れたようでした。
場所を変え、ひと目を忍んだ図書館で、わたしは密やかに訊ねました。
「ねえ、どんなことをされるの?」
ーー指でさわる。舌を這わせる。
鏡子の語った戯れ事は、性体験に乏しいわたしの想像力を刺激しました。
「最近はずっとわたしがするの」
ーー先生を気持ちよくしてあげる。
ちらりと舌を見せる鏡子の、瞳は潤んで蠱惑的でした。彼女の語る言葉はすべて、巷に溢れるどんな過激な情報よりも真実でした。
あの蛾眉を、そっと寄せ。
「ねぇ、佳子もしてほしい?」
耳にささやかれたひと言が、久方ぶりにわたしの頭をどれほど痺れさせたことでしょう。
わたしはうなづくこともできずに、ただただ赤面してしまいました。鏡子の指が、あの唇が、わたしの穢れた肌に触れるなどあってはならないことでした。
黒部先生はいい気なものです。鏡子の性を我が物として、まさに絶頂にいたのでしょうが、それは大きな誤りでした。
鏡子は他の誰かにとっての情欲の対象にこそなれど、結局、誰も彼女の心を満たすことなどできないのです。
彼女は性的に強者であり、それをはっきり自覚したことで、長く続いた師弟関係は覆ることになりました。
15で迎えた夏休み。鏡子は第二の性の奴隷をーー黒部先生を手に入れました。
足かけ5年の歳月をかけ、身に刻まれた痛みの記憶ーーあのレッスンの日々の報復を、彼女はついに遂げたのでした。
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