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高校生になったわたしが、隣町の塾に通い始めた頃だったように思います。
偶然にもあの懐かしい、黒部バレエ教室の前を通りかかる機会がありました。
何を期待したのでしょうか、ふと目を向けたビルの四階。
わたしは「あっ」と息を飲みました。
何度確認してみても、見間違いではありません。灰色の空を写す窓には、あの情緒のカケラもない文字がーー「テナント募集中」の広告が、寒々と張り付けてありました。
そうです。黒部バレエ教室は、すでに廃業していたのです。
わたしはすぐにピンときました。
ーー原因は、鏡子だと。
翌日、わたしは放課後に、彼女がひとりになる隙を見て、廊下の隅に誘い出しました。
勇気を出して訊ねたところ、鏡子はさらりとうそぶきました。
「わたし、バレエやめちゃったから」
わたしはまたも驚きました。
「どうして……」
「無理だったから」
ーーわたし、海外に行けなかった。
鏡子はわたしの知らないうちに、バレエの国際コンクールに出て入賞を逃していたのでした。
プロのバレリーナになる道は、それこそ「格」にこだわらなければ様々なものがあるのでしょうがーー鏡子と黒部先生の目指す「一流」のプロの条件に、海外留学は必須でした。
国際コンクールで認められ、海外の著名なバレエ学校から入学のオファーを受ける。そんな暗闇で針の目を通すような試練を越えたところに、鏡子の夢はありました。
ですがわたしはあの鏡子なら、きっと輝くプリマドンナになれるものと信じていましたし、どうして彼女がだめだったのか、甚だ理解できませんでした。
「……黒部先生はなんて言ったの?」
「『あなたの決めることだから』って」
鏡子は昔から見切りの早い性格だったように思います。
「だから、おしまい。これでおしまい」
今回のこともそうやって、誰かに聞かれなければ黙って過去に流す気でいた風に。
平然と、うそぶいて。
けれど、わたしにはその瞬間、鏡子の心の中がありありと手に取るようにわかりました。
これはうぬぼれではありません。
幼少期から側にいて、ずっと彼女を見てきたのです。
あっさりとした言葉の裏に、いったいどれほどの失意が、どれほどの悔しさと諍いと、涙があったことでしょう。
当前です。何年もかけてつらい思いで追ってきた夢の挫折ですから。
気丈に振る舞ってはいるものの、鏡子の心は泣いていました。
「鏡子ちゃん、つらかったね……」
わたしがぽろりと口にした時、鏡子はあのうつくしい眉をくしゃりとハの字に歪ませながら、
「うん……」
と小さくうなづきました。
その声を耳にした途端、わたしの胸に溢れるような、後悔の波が押し寄せました。
鏡子が人生をかけて大きな舞台に挑戦していた時に、どうしてわたしは彼女のために、何かしてあげられなかったのか。(わたしたちは、親友なのに)わたしは彼女を裏切って、ひとりで生きようとしていました。
「ごめんね……わたし、あなたの支えになってあげられなかった……」
友の代わりに涙を流し、贖罪していた間中。きっとわたしは心の底で、安堵を覚えていたのでしょう。
挫折の事実を知るまでは、いつか彼女が海の向こうへ去ってしまう日が来ると思って、諦めに近い乾いた心で日々を過ごしていたのです。
(バレーボールに熱中したのも自分を騙すためでした)
不安の晴れたその喜びは震えるほどに格別でした。
鏡子の体を抱きしめて、華奢な体をわたしの腕で、すっぽり包んだその瞬間に。
わたしは固く誓いました。
(もう二度と、手放したりしない)
ーーわたしたちは、ずっといっしょ。
すると、どうしたことでしょう。
鏡子の方もわたしの体に、細い腕を回してきたのです。
ほろりと切なくなるほどに、わたしは幸せを感じました。後にも先にもそんな幸せを感じたことはありません。
秋の夕陽が黄昏の空に金色の帯となって燃え、白い校舎に女子生徒たちのおしゃべりが溶けて消える頃。
姉妹のように、双子のように。いえ、それ以上に密接に。
わたしたちはひとつになりました。
鏡子はわたしが驚くほどに、ごく自然にキスしてくれました。
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